【あの娘のこと、好きなの?】
外はまだ、雨が降り続いている。ぱたぱたと屋根を打つ雨音がリズミカルに響き、ひやりとした空気が建物の中まで忍び込んでいた。
「さっきの話本当なんだね?」
短い沈黙を破ったのは、ひそやかな涼子の声だ。「ああ、本当だ」と僕は肯定したのち、夏南が言っていた台詞を、一言一句違わず伝えた。
いっさいの合いの手を入れることなくすべて聞き終え、「そう」と短く涼子が呟く。僕の顔をチラリと見たのち、そっと窓ガラスに手を触れた。
ガラスの表面はしとどに濡れていて、外の景色はまったく見通せない。曇ったガラスにぼんやり映った涼子の顔は、どこか虚ろだ。
まるで、魂をどこかに置き忘れてきたようだ、などとろくでもないことを考える。
「なんていうんだろう。まるで、木が枯れたのは自分のせい、みたいな言い方だよね」
「やっぱり涼子もそう思うか。彼女の真意はもちろんわかんないんだけどさ、三十年前の出来事と発端は同じだよ、という風にしか聞こえないんだよな」
「三十年前というと、私のおばあちゃんが不思議な体験をしたのとほぼ同時期だよね。そっちもさあ、夏南さんの仕業だと思う?」
「んー……。確証はないけどたぶんね。そういった、超常現象を起こせる存在を、僕は他に知らない」
自嘲気味に笑うと、だよね、と相槌を打って涼子が沈黙した。まつ毛の長い瞳が静かに揺れる。
「なあ、涼子」
「ん?」
「お前さっき、そっちも夏南の仕業、って言ったよな? やっぱり、なんか知ってるんだろう?」
この場所に着くまでの間、涼子は何度か激しい感情の昂りを見せた。彼女は冷静なようで、その実直情的な性格なので、致命的に嘘をつくのが下手だ。
何かしら、後ろめたいことか隠し事があるに違いない。
まあね、と彼女が冷笑する。
「それを伝えるために、わざわざ追いかけてきたんだし」
「聞かせてくれるかい」
こくりと顎を引いたのち、涼子がこちらに向き直った。自然と僕も聞く体勢になる。
「これは、六月下旬の出来事。あの日も今日と同じ、ひどい雨の日だった」
そうして始まった涼子の話。かいつまんで内容を説明するならこうだろうか。
六月の末ころ。誕生日に、悠久の木のある場所に行って願い事をすると、なんでもひとつだけ望みが叶うんだよ、という話を光莉に伝えた。
だが、当日は午後からひどい雨になった。光莉は本当に山を目指したのかと不安になった涼子は、彼女の家に電話をする。しかし、母親から返ってきたのは、光莉なら友だちの家に行ってるよ、という言葉だった。
はたしてそれは真実か否か。確認するのが怖くなった涼子は、放置したまま翌日を迎える。何事もなかったかのように登校してきた光莉の姿に安堵したのも束の間、『悠久の木の話なんて知らないよ?』と彼女に告げられ、より困惑を深めた。
「んー……」
唸ることしかできなかった。
話の道筋に、不自然なところは一見するとない。おかしいところはなんらない。しかし、現在の状況と照らし合わせていくと、違和感はいくつもあった。
なぜ、光莉の自転車が山の麓にあったのか?
なぜ、光莉が使っていたのとよく似た傘が、登山道の崖下にあったのか?
なにより、涼子に聞かされた話をなぜ光莉は覚えていないのか。
「イチはどう思う?」
「どうって、言われてもなあ……」
「どう考えてもさ、光莉は六月のあの日、雨の中この場所を目指して家をでたんじゃないかと。歩き続けている途中であの崩落現場を通りかかり、土砂崩れに巻き込まれて生き埋めになった――ってことなんじゃないかと」
自分でも、言いながら恐ろしくなったのだろう。涼子の肩が小刻みに震えた。
「いや、話が飛躍しすぎだ。じゃあ、いまあの部屋にいる光莉はなんだっていうんだ」
「――ドッペルゲンガー、とか?」
「ドッペルゲンガー?」
「もしかしたら、私がドッペルゲンガーかもしれないし」
「はあ? なんでそうなる」
一段飛ばしで飛躍していく話に、頭がついていかない。
「罪の意識に苛まれ、死んじゃおうかな、なんて思い悩んでいるのを嗅ぎつけられて、殺され入れ替わられたとか?」
「涼子。お前、死にたいって思うほど、追い詰められているのか?」
「ごめん。そこまでじゃないんだ。ちょっとばかり
「悪い冗談はよしてくれ。なら、まあいいんだが。あんまり一人で悩み過ぎるなよ」
とはいえ、ドッペルゲンガーはともかくとして、神様は現実にいるんだよな。どんな推論でも成立しそうだから困る。
「でもさあ、他に考えられる要因ある?」
「んー……」
そう問われるとうまく返せない。これといって納得のいく説明ができないだけに。
「光莉が事故に巻き込まれたことを知った誰かが、夏南さんにお願いをしたとか?」
「ドッペルゲンガーでもなんでもいいから、光莉を蘇らせてくださいって?」
「もちろんこれは、たとえばの話なんだけど」
「だとしても、願った誰かって、誰なんだよ」
うーん、と涼子の眉間にしわが寄る。
「夏南さんの姿が見える人しか願えないとしたら、必然的に真人かイチ?」
「いや、真人はたぶん違う。僕にしても、光莉が山を目指したかどうか知らないし、願い事をした記憶だってない」
「でも、ほら」
涼子が核心を告げるみたいに言う。
「願い事を叶えてもらうと、願ったという部分の記憶がなくなるんでしょ?」
「らしいね。……いや、なるほど」
光莉を襲った悲劇的な運命を改ざんするため、僕が夏南に願った。しかし、願った当日の記憶を亡くし、光莉にまつわる記憶も書き換えられていたら、話の筋道はすべて通る。だが。
「でも、やっぱりオカしい。夏南いわく、願い事を叶えることができるのは、一人一回までという制約があるらしい。でも僕には、今も願い事を言う資格があるらしいからね」
「そっかあ」
もっとも、夏南が嘘をついていないことが前提になるが。
「それともう一個。光莉が一人でこの場所を目指すこと自体がありえない。彼女は心臓に病を抱えている。万が一の事態に備え、誰かを頼るのが自然だ。もし頼まれたとしたら、僕だったら同行するし」
「そっか。だよね」
「うん」
だが、あとに続いた涼子の台詞に、僕はふきだすことになる。
「イチは、光莉のことが好きなんだものね」
「涼子までそんなことを言う……。誤解だよ。それは」
「私も、どころか、みんなそう思ってるんじゃないかな?」
そういう噂があるのはうっすら感じていた。どう弁解すべきかと考えあぐねていると、「ま、いいけど」と涼子のほうから話題を逸らした。僕の本心を知りたいんじゃないのか?
「イチにフラれてからさ、私ずっと考えてたんだ。どうして私じゃダメなのかなって」
「……」
「自分で言うのもなんだけど、家だって金持ちだし、スタイルも顔もいいし、わりと優良物件だと思うんだよね、私」
「本当に、自分で言う台詞じゃないね」
「自己肯定感が高いのはいいことでしょ?」
「まあね」
でもね、とそこで一転。涼子の表情が沈む。
「イチはいっつも光莉のほうばかり見てる」
「だからそれは」
「光莉が病弱だから、なんだよね? 自分の父親と同じ病を抱えている彼女を、放っておけないから、なんでしょ?」
昔話を聞いているうちにピンときた、という涼子の指摘は図星過ぎて返す言葉がない。
そうか。涼子なりに、すでに答えを持っていたのか。
「そうだね。涼子が言う通り、光莉のことを気にかけていることは事実だ。もしかしたらこれは僕の庇護欲なのかな? と悩むところはあるけれど、将来医者になりたいという夢を抱いた根底にあるのも、光莉をどうにかしてやりたいと願う気持ちだ」
「イチって将来医者になりたいんだ?」
「思っているだけだけどね」
「思っているだけでも立派だよ。私なんて、何になりたいのか、どこの学校に進学したいのかも定かじゃないんだから。ただふらふらしているだけの、甘やかされて育ったガキとおんなじなんだよ」
「そんなことは」
「いいよ、慰めは。それ自体は事実だし。ここから女としての魅力を上げて、今度こそイチのハートを射止めるし」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。さっきから、自分でも何言ってるんだろうと思うくらい、ウザい発言をしているって自覚はあるから。放っておいてくれればいいの。あー……でも、これで全部わかっちゃった。私でも光莉でもないとすると、必然的に候補が一人に絞られちゃうんだよなあ」
ここで涼子はいったん言葉を切った。雨粒が屋根を叩く音が、三度響いた。
「イチが好きなの。あの神様の子、なんでしょ?」
「そうだよ」
捨て鉢になったつもりはない。
自分でも叶わない恋なんだということもわかっている。それでも、自分の気持ちに嘘はつけなかった、というだけのこと。
「やっぱりそっかあ」と
これには思わず苦笑い。
「笑っちまうだろう? 身分違いも甚だしい。どうせ叶わぬ恋だと、むしろ笑い飛ばしてくれよ」
「笑えないよ。私だって、似たようなものなんだし」
「いっそ、光莉か涼子のことを好きになれたら、楽になれるんだろうけどな」
「ほんとだね。……バカだよ。イチは」
視線を窓の外にスライドさせる。「ねえ」と涼子が呟く。
「ん?」
「あの子。もういないんでしょ?」
「やっぱり気づいてたか」
「そりゃあね。あんな取り乱し方されたら誰だって気づくよ。みんなわざわざ言わないだけの話。夏南さんがいたらさ、今感じている疑問のすべてが解けるのかなあ?」
「たぶんな」
アイツが戻ってきたら、だけど。
姿をくらます間際に見せた、哀愁を含んだ表情が脳裏に焼き付いてどうにも離れない。本当に、戻ってくるんだろうか。
その時、「お、随分長いトイレだと思ったら二人ともここにいたのかよ。なになに、連れション?」と空気を読まない台詞を引き連れ真人が現れた。
「言い方。相変わらずデリカシーないなあ」
涼子の非難に、真人がハハハと笑う。わざと大きい声を出しているみたいな所作だった。
「じゃあ、戻ろっか」
踵を返した涼子の背中を追いかけたとき、廊下の隅に一枚のカードが落ちているのを見つけた。
気づいているのは僕だけだ。
人目を盗んでそっと拾い上げてみると、それは運転免許証だ。
表に書かれていた名前は、
「これが、藤原美紀さん?」
瞬間。僕の頭の中で、二つの情報が一本に繋がった。
「ははッ。だよなあ。やっぱりそうだよなあ」
尻尾、確かにつかんだぜ。
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