第三章「高橋都」

【都の独白】

 僕の両親が離婚したのは、小学校にあがって数年したころの話。

 物心ついたときから、夫婦仲は良くなかった。お互いに自己主張の強い性格だからなのか、とかく衝突が多く、顔を合わせるたび喧嘩していたように思う。

 離婚の原因を聞いたことは一度もない。神無し島にある実家の長男である父は、がっしりした上背と太い腕を持った寡黙な人で、母のことは聞くなという刺々しさを醸し出していたから。

 そんな日々で僕が感じていたのは、すれ違いが続いていくうち生まれた不貞問題が二人の間におそらくあって、それがもとで二人がよく喧嘩をしたことだ。

 とにもかくにも、母は僕を置いて突然家を出て行き、そのまま離婚が成立してしまう。

 それから一年が経過して、僕が小学校四年生になろうとした頃だ。父親の転勤が急に決まり、本土に引っ越した。本当の苦難はそれからだった。

 父は支店長に抜擢されたとかで、ある日を境に突然忙しくなった。相応に収入もよくなったのだろうが、温かくなる懐とは裏腹に、僕に対する当たりは冷たくなった。仕事が忙しいぶん、ストレスも多かったのだろう。

 元々、学校行事に顔を出す親でもなかったが、もはやいっさい参加しなくなった。酒を飲んで帰宅することが多くなり、日に日に、躾という名目による、僕に対する体罰と愚痴が増えた。こちらからの歩みよりは意味をなさず、あまつさえ、何か言い返そうものならよけい強い力で殴られるだけなので、黙って口を噤むことを覚えた。会話は殆どなくなって、朝晩の挨拶があればマシなほうだった。

 ある日父に言われたのが、『お前さえ、生まれなければ』だった。どういう意味だったんだろうな。父は、自立心の強い人だったし、僕がいなければ、もっと仕事がうまくいくとでも言いたかったのかもな。

 この頃になって僕は悟る。離婚の原因は、父の側にあったのかなと。

 ショックはあったが、心の傷はさして深くなかった。家に帰っても無人なことが多くなっていたし、買ってきた弁当を温めて食うだけの毎日に慣れ切っていたから。

 五年生になって水泳を始めると、自分との闘いに没頭することでストレスを発散した。

 こうして僕たち親子は、身も心もすれ違うようになっていく。

 さらに数年が過ぎたころ、あの悲劇が起こる。

 クラブで遅くなった僕が家に帰ると、父がリビングで倒れていたのだ。

 うつぶせ寝の体勢でピクリとも動かない父を見て、驚きで思考が停止した頭でも、緊急を要する事態だと理解した。焦燥だけが降り積もるなか、震える指先で一一九番通報をした。

 電話口の大人に落ち着くよう促されながら場所と父親の容態を伝え、まもなく救急隊員がやって来たが、父はすでに心肺停止の状態でありそのまま帰らぬ人となる。

 思えば、様々兆候はあった。

 父は、めまいをうったえることがあった。

 酒を飲んで帰ってきたとき、過度にふらつくことがあった。

 大声で僕を叱責したのち、動悸の症状がでて蹲ることがあった。

 この日になって初めて僕は、父が『QT延長症候群』なる心臓の病を抱えていた事実を知った。もっと早く気づいていれば、一人寂しく死なせることもなかったのだろうかと、今さらのように後悔した。

 皮肉にもそれは、現在光莉が抱えている病気と同じもの。


 立て板に水、とばかりにまくし立てると、しん、と場の空気が静まり返った。蝉の鳴く声が、じーわじーわと耳に響いた。

 みんなが言葉を選んでいる様がひしひしと伝わってきて、ちょいとばかり、重い話をひと息にし過ぎたなと反省する。


「それから、お母さんとは会ってないの?」と探るような声で涼子が言った。

「離婚してから数ヶ月したころ、一度だけふらっと訪ねてきたかな。もう何年も前のことで、何を話したのか殆ど覚えていないんだけどね」


 記憶が、古すぎて。


「そっか。お母さんは元気にしてるのかな」

「してるだろうさ。あの人は、生きるための活力が有り余っている人だったし」


 唯我独尊というか。

 自分本位というか。

 前向きで自立心の強い人だった。

 時々、母について行ったら僕の人生ももう少し変わっただろうか? と妄想することがある。

 自由に生きるための足かせになるのを嫌ったのか。父の血を引いている僕のことなど眼中になかったのかは知る由もないが、結果として僕は捨てられた。

 求められていなかったという、それだけのことなんだ。


「そういえば、都くんのお母さんって、怒ると怖い人だった気がする」

「そうだっけ?」

「うん。でも、顔はまったく覚えてないんだよね。どうしてなんだろ?」


 真人はともかくとして、家が近所の光莉ですらこれだもんな。渋面になりそうなのを抑えて、「でしょ? うちの親は、学校行事に殆ど参加しない人だったからね」とアンニュイに返した。


「参加は任意なのだから、忙しかった親を責めるつもりはないけどね。でも、一度くらいは授業参観に来てくれても良かったのになあ、と思っているのも事実かな」


「真人くんの家と、涼子ちゃんの家はほぼ毎回来てるもんね。嫌でも顔を覚えちゃうよ」と光莉が羨ましそうに言うと、『うちは特別!』と真人と涼子の声が揃った。

 微妙な顔になって、二人が顔を見合わせる。


「いや。でも、実際羨ましいよ」


 僕は、親の愛情ってものがよくわからないからな。

 真人から話を聞いたとき、どうしてすぐ出発しようと思ったのか。その時の気持ちを因数分解すると、わびしい自分の姿が浮き彫りになる。僕は愛情に飢えている。他人から依存されることでしか自分の価値を見いだせない僕は、誰かが消えてしまうかもしれない、という現状を恐れている。平穏な今が損なわれることを恐れている。

 僕を好きだと言ってくれた涼子。島に戻って来たとき、我先にと話しかけてくれた光莉。もしかすると、ちょいとばかり嫌われているかもしれないけれど、僕のことをライバルとして認めてくれる真人。

 誰一人欠けることなく、全員顔を揃えて戻って来たい。それを証明するための、旅でもあるんだ。

 欠けちゃならんのは、夏南だって同じこと。


 チラっと視線を頭上に向けると、プカプカと浮きながら、「なあに?」と首だけを夏南が向けてくる。

 もっとも、夏南の話は誰にもしない。

 神様の存在なんて、言ったところで信じてもらえるはずもないから。


「しっかし驚いたな。まさか都にも見えているなんてな」


 ただ一人。コイツを除いて。

 女子二人に気づかれないよう声をひそめた真人に、苦笑いで応じた。


「その言葉、そっくりそのままお前に返すよ」



「で? いつから見えているんだ」と小声で真人。

「この島に戻って来て、まもなくのころかな。最初に夏南を見たのは、花咲神社だった」


 三年半ぶりとなる故郷。

 木枯らし吹きすさぶなか、島のなかを探索して歩き、花咲神社で出会ったのが夏南だった。

 あの日、神社の境内には他にも何人かの参拝客がいて、周りの反応を見ているうちに気がついた。

 胸に手を当て、歌声を虚空に響かせる彼女の隣を、参拝客が何事もなかったかのように通り過ぎていったから。

 彼女が人ならざる存在であることも。

 僕だけにしか、その姿が見えていないのも。

 そして彼女が、幼いころに出会った、あの女の子であろうことも――。


 もっともコイツは認めないのだが。


「ああ。花咲神社の神様とか、のたまっていたもんな」


 そんな、頭オカしいみたいな言い方しないで! ちゃんと神だから! という夏南の苦情が真上から降ってくるが、真人は華麗にスルーした。


「というか、じゃあさ、それなりに長い付き合いになるんじゃないか。もっと早く教えてくれりゃ良かったのに」

「言ったら、信じたか?」

「いや、バカなんじゃないの? と笑い飛ばす」

「だよなあ。お前、目に見えるものしか信じない性質たちだもんなあ」

「そうなんだよー。甘酸っぱいこの交際が始まってから、もう一年にもなるんだよね。それなのに、キスもまだ済ませてないなんて、もしかしてボクたち倦怠期かしら?」


 ずっと無視され続けるのが不満なのか、夏南が無理やり会話にわりこんでくる。


「盛り上がったこともないのに、どうやって倦怠期が来るんだよ。そもそも、お前に触れないし」


 しまった。構ってしまった。


「やっぱ、人間の女の子がいいのかあ。触れない美少女より、触れる手近な女ってか」

「自分で美少女設定とか作るか? 傲慢な神だなあ。それに、身近な相手に惹かれるのは、むしろ自然なことなんじゃ? 遠距離恋愛は長続きしないってよく言うだろ?」

「こんなに近いのに?」

「人と神の時点で遠い」


 夏南はだいたいいつもこんな感じだ。

 いったん喋りだすと、止まずずっと喋っているというか。

 もっとも、夏南の声は俺と真人にしか聞こえていないので、女子ら二人の視点では、俺たち二人が小声でぶつくさ言い合ってるように見えるんだろうけど。


「ふーん、オカしいなあ。ボクと都の距離は近いはずなんだけど」

「近くないだろ」

「ううん。近いよ」


 横柄に返した呟きに、ひどく真剣な声を重ねられる。僕は意味がわからなくて顔をしかめた。

 茶化してみたり踏み込んできたり、なんなんだ。頬を膨らませると「さっきから何ぶつぶつ言ってんの」と涼子に突っ込まれる。「独り言」とうやむやにしておいた。


「変な奴。ま、いいや。もうすぐ私のおばあちゃん家に着くよ」

「お、おう。そ、そうか」

「声、うわずってる」


 大人しくなったな、と不審に思い頭上を見やると、すでに夏南の姿は跡形もなかった。


 ――わたしが、見えるの?


 あの日、悠久の木の下で出会った女の子が、本当にこう言ったのかはわからない。

 あの日の光景は、曖昧な記憶の海に沈んでいて、いまひとつ像を結ばないのだから。

 出会った場所が違う。

 着ていた服も違う。

 それでも僕は、あの子が夏南だと信じている。はにかんだ時の目元や、透き通るような白い肌に、あの子の面影が朧気にあるから。

 だがしかし、夏南は認めない。それとなく何度か探りをいれたが、知らぬ存ぜぬの一点張りだ。

 あの女の子は本当に夏南と違うのか? なぜ夏南は、僕ではなく真人に話を持ち掛けたのか? いくつかの疑問が、小骨のように喉元に引っかかっている。

 本当はわかっている。知らずにいたほうが、いいんじゃないかってことも。

 これが、身分違いの報われない恋なんだって――ことも。

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