第3話
奈緒子はいつも栄太のことを、先生先生、と呼ぶ。
「先生と呼ぶな」
彼はいつもそうたしなめる。
だが奈緒子は反駁するのだ。
「わたしにとってあなたは先生なのですから、是を非としてでも先生と呼ばせていただきます」
「だめだ。私は、先生と呼ばれていい気になるような権威主義者でもないし、俗物だとも思っていない。それにもとより先生と呼ばれるほどの業績はなにも残してはいないのだ」
「他の誰でも、自分を先生と呼んでもらいたいのです。呼んでもらいたくってたまらないのです。しかし先生は先生と呼ぶなとおっしゃる。それはあなたが貪欲ではない証拠なのかもしれません。だけれども、その貪欲でないがために、あなたはこの文筆界で伸び悩むのではないでしょうか。どこまでも貪欲に栄光を希求せずして、あなたの理想を掌裡におさめることができるでしょうか」
栄太はたしなめるつもりが、いつも必ずといってよいほど叱咤されるのだ。
仲野奈緒子をこの2LDKの狭い家に住まわす決意をしたのは、栄太の心にちょっと去来した気まぐれであったのかもしれない。
人間五十にもなれば、自分の寿命という得体の知れない黒い影が道のさきに見えてくるものだ。肌を通してすぐそこにせまる死を感取できるのだ。
そうなってみると、栄太は自分がこの世界になにも爪痕を残していないことに気がついた。
たった数冊の、低俗な著作など、やがて絶版になり、いつか世人の記憶から忘却されるであろう。
結婚もせず子もいなければ、自分の遺伝子も意志も後世に残せはしないのだ。自分のこの世に生きてきた意味などまるでありはしないのだ。
そうなのだとすれば、なにか自分の生きた軌跡をこの世に残しておきたい。
小説家としては無能であったけれど、ひょっとすると、人の才能を開花させる能力は持っているかもしれない。
小説家としての人生を切望する奈緒子を立派に育成し大成させることができたならば、それは自分の遺伝子を未来に残すと同様の結果をもたらすものではなかろうか。
彼女に給金を与える余裕など栄太にはありはしないので、家に住まわすことを報酬に、アシスタントをさせることにした。たいした仕事ではない。彼が書く記事の、調べ物をさせたり、電話の応対をさせたり食事を作らせたりして、住み込みの家政婦のような仕事をさせたのであった。
それでも彼女を食べさせることはできない。
なので、アルバイトに出すことにした。週のうち五日ばかりは、奈緒子はファミリーレストランで給仕をしている。ああいうところであったなら、人間観察にはことかくことはあるまい。小説家としてのよい勉強になるであろう。
彼女は当初に彼が思ったほどの少女ではなかった。
もう二十歳であるという。
されど、その心は見ため同様に少女のようであった。
最前のように、栄太を励ますようなまるっきり大人の言動を口にのせると思えば、なんともすっとんきょうな会話を、彼に、突飛に、なげかけてくるのだ。
「みかんの裏の点ってなんでしょう」
ある日彼女は、みかんをむきながら言った。
「ヘタのほうはわかるんですよ。枝にしがみついていなくっちゃいけないんですもの。立派なガクをこさえて枝と連結しなくてはいけませんわ。でも、裏の黒い点に意味はあるのでしょうか。まるでここから指を入れて皮を剥いてくださいって、みかんが言っているように思えてしかたがないのです」
そんな時、栄太は黙って彼女の口中から流れでる無意味なお喋りを聞いていた。相槌すらろくにうちはしない。
青森県の弘前市にほど近い藤崎というところの出身の、ときどき青森なまりのでるそのお喋りは、細かくひびわれた栄太の心に深く染み込んで、割れた隙間を埋め、崩れかけた心の壁を繋ぎ合わせてくれるようであった。
そうして過ごす一年ばかりのふたりっきりの生活のなかで、栄太が奈緒子に惹かれていったのは当然であったかもしれない。
ふたりがそうなったのは、偶然であった。
男と女がひとつ屋根のしたに暮らせば――または、ひと晩をともに過ごすだけでも――男女の関係にならないのはおかしい、と昔日に誰かが言った。
だが、栄太は違った。
そんなものは、情欲にこりかたまった知能指数の低い、自分を律することもあたわない人間性の低い凡俗の、自己を正当化していう屁理屈だ。そう思っていた。
栄太のその理論の通りに解するならば、栄太もその人間性の低い凡俗ということになる。
もうすぐ年も改まろうかというある日の寒夜の、就寝前のひと時、ソファーに座ってつまらないヴァラエティー番組の流れるテレビの画面を眺めながら、栄太は何の気なしにローテーブルに置かれた雑誌に手をのばした。奈緒子も同時に手をのばした。手と手が触れあう。その時、栄太が彼女の手を握ったのは、やはり彼女に、自分でも気づかぬうちに惹かれていたのであろう。
彼女は手を握り返した。
ふたりは見つめ合った。
その冷たくて繊細な指先は、まるでたんぽぽの茎のように容易く折れそうなほど繊弱で、上気した赤い頬は、木陰から垣間見た木漏れ日のように眩しいほどに栄太のまぶたに焼きついた。
おたがいの感情が高ぶり、それでも無表情で、ふたりは見つめ合った。
栄太は奈緒子を自分の胸に引き寄せた。
彼女はこばまなかった。
そうしてたった一度、ふたりはそういう関係になったのだった。
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