さくらのはなのさくころの、

優木悠

第1話

 芝山栄太の住む大森の町の、マンションの前には桜の木がある。

 いまその木は満開の花びらにつつまれ、殺風景な都会の片隅で、人々の心をなごませていた。

 春であった。

 おそらく世界に生きる人間みなが将来にたいする期待をふくらませる季節であろう。

 だが栄太は憂鬱だ。

 今年に限った話ではないのだ。

 考えてみれば、春に希望をふくらませたことが一度でもあっただろうか。

 ない。

 彼には、いつの春も不安しかなかった。

 進学すれば、勉強に対する不安、人間関係の不安、社会に出れば仕事の不安、上司に叱責される不安。

 未来に対する希望など、これまでけっしてありはしなかったのだ。

 春は毎年、浮き立つ世間と沈みゆく自分との落差が露骨なまでに明瞭となって、彼の心の憂鬱をあおるだけなのだ。

 咲きほこるソメイヨシノのひとひらひとひらも、朽廃した男にとってすれば、たんなる鬱屈した心の断片の塊に過ぎない。

 しかし、このマンションが賃貸でよかった、などと今さらながら思うのだ。

 賞を受賞して、本もそこそこ売れ、調子にのって分譲マンションでも買っていたら、今頃は目も当てられない惨状であっただろう。

 芝山栄太は小説家であった。

 そこそこ有名なファンタジー小説誌のコンテストで優勝して作家デビューをはたした。

 最初はよかったのだ。

 単行本は、それなりに売れた。

 印税の振り込まれた預金通帳に大量のゼロが目まぐるしいほどにならび、調子に乗らない人間がこの世にいるわけがない、というくらいには本が売れた。

 田舎から東京に出て、マンションに住み、独り身ではあったが、なに不自由ない生活がつづいた。

 数年かけてシリーズは八巻つづき、彼は人生が順調に推移していると思えた。

 さあ、これからもうひとふんばりしよう。作家としての土台は盤石かたまったのだから、もうひといき頑張って土台からさらに高く跳躍するのだ。

 が、売れなくなった。

 出版社の編集者も、たちまち相手にしてくれなくなった。

 売れているうちは先生先生と、絢爛たる御輿に乗せてさんざん担ぎ上げ、売れなくなれば、はいさようなら。作家などしょせん使い捨て。役にたたなくなれば、また別の作家をみつけて書かせればいい。

 残酷なものである。

 栄太は、五十近くになって、はじめて人間のほんとうの冷酷さに触れた気がした。

 それでも、雑誌やウェブサイトの単発記事の依頼があって、どうにかこうにか文字を書いて、この何年か生きてきた。

 しかしそれも食っていくのでせいいっぱいの報酬しかもらえず、貯金もみるみる目減りしていった。

 彼は負けたのだ。社会に敗北したのだ。

 盤石と思いこんでいた地面はいつしか崩れ、気がつけば冥暗につつまれた道さえ見えぬ荒野に立ちつくしていた。


 栄太は田舎に帰っていた。

 両親が亡くなってからしばらく帰っていなかったが、久しぶりに帰郷してみれば、山に囲まれた狭隘な町の風景はいっぺんしていた。

 周囲の山は上はんぶん削られて工業団地になり、田畑はつぶされ無機質な工場が乱立し、掘っ立て小屋のような建物があちこちに増殖してスラムの感すらもよおしていた。

 家の近所の、子供のころ悪童友達とあそんだ空き地だった場所は、産業廃棄物業者がはいり、朝から深夜まで、なにかガンガンと町内全体に響き渡るほどの騒音を撒き散らす。その業者は神社の御神体ともいえる山をけずり、神を冒涜してはばかることをしらず、金もうけの前には道徳も信仰も無きに等しいありさまである。

 世の中は変わっていく。

 それも悪い方向にしか変わっていかない。

 そう思うのは、老境にさしかかった自分が世界の潮流についていけていないだけなのではなかろうか。若いころの自分なら、そうした時代変化も風景変化も受け入れられたのだろうか。

 そろそろ小説家人生の潮時しおどきに至った事実を心底に受け入れて、すべてを捨て去り、東京のマンションを解約して故郷に帰って骨をうずめようかと思っていたが、なんだかそんな気も失せた。

 故郷が自分の帰郷をこばんでいるような気すらした。


 東京にもどってくれば、桜が満開。

 無機質なマンションの谷間に咲く、あでやかな花模様。

 栄太の陰鬱に落ち込んだ心を、逆撫でするような眩しい光景がそこにあった。

 よどんだ目でその眩しくきらめく桜をながめ、眩しさのあまりに視線を下におろすと、ひとり、少女がたっている。

 セミロングの髪をふわりとなびかせ、パステルイエローの、色は明るいが地味なデザインのワンピースを着て、手を上にかるくのばして、スマートフォンで写真を撮っている。いや、画面に映った写真と桜を見比べているのかもしれない。

 少女は手をおろし、しばらくその画面を見ていたが、ふっと顔をあげて、こちらをみた。

 そして、目が合った栄太に、まるで数年来の知己のように、にこりと微笑んだのだった。

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