三話 敵襲

 この日、阿良丸が血相を変えて部屋に飛び込んで来たのは、夜を少し回った頃合いだった。既に桃子は着替えを済ませ、ゆるりと酒を飲んでいる。

 いつも冷静なこの男がこうも興奮するとは珍しいこともある──そう思っていると。

「なに、敵襲じゃと!」

桃子は持っていた杯を投げて、立ち上がった。

 夜闇に紛れて少数が船で乗り付けたらしい。不穏な噂はあったものの、明確なはなかった。絶えることなく常に気を張り詰めることなど出来ようもない──その隙を狙われたか。

「は、見廻衆がやられましたッ!」

阿良丸が声を張り上げる。


 頭上で厭な鳥の鳴き声がした。不気味な声だ。

 外を見れば、確かに浜のほうが騒がしい。馬が嘶く。そして微かにだが、人間臭い。

 桃子は部屋から半分身を乗り出して、深く息を吸うと、声を張り上げた。

「敵襲じゃ! 敵は浜におるぞ!」

不思議なことに、銅鑼のように島中に桃子の声が響いていた。空気を揺らし、風に乗り、誰も彼もが彼女の咆哮を耳にした。すぐにあちらこちらで篝火が灯され、鬼たちが動き始める。騒がしくなった島にさらに吼えた。

「皆のもの、武器を取れい!」

桃子は自らも身の丈ほどの薙刀を握った。

「子らは洞窟へ! 動ける者は我に続け!」

女も男も手に武器を取る。秋葉をはじめとする乳母役が子供を連れて身を隠す。瞬く間に戦の準備が進んでいく。


 人間たちは、やはり少数で攻めてきたようであった。大軍を予測したが、辺りの海は静かである。それだけに、誰も彼もが油断していた。

 桃子は赤い髪をたなびかせて島を駆け抜けた。

 行く手に立つ人間に薙刀をぶんと振るえば容易く吹き飛ぶ。とどめは背後を追う阿良丸に任せ、逃げ遅れた子らを城に匿う。

「紗紗丸ッ!」

「姉上ッ!」

呼べば、弟はすぐに跳んできた。既に矢筒の中身は減っていた。

「お主の腕なら問題なかろう。子らを守れ」

「はい」

「万に一つも、この城が落ちるようなことがあったら、子らを連れて島を出よ。我が一族の血、絶やすことは許されぬぞ」

「あ、姉上は……」

「時はないぞ、行け!」

「……ッ」

半ば蹴るようにして紗紗丸を送り出すと、再度桃子は走り出した。

 彼方此方で火薬が爆裂する。この時代、爆弾などというものはない。

「妖術か⁈」

爆音にそんな叫びが聞こえる。教えてやるまでもなかった。驚いたその首に刃を走らせる。

 他の鬼も奮闘していた。棍棒で、太刀で、その腕で、奇襲を仕掛けてきた人間たちに応戦していた。桃子や阿良丸も走り回った。


 ──それなのに、戦況は膠着こうちゃくしている。


 何かがおかしい。体格で勝る鬼の力は人間の比ではないし、地の利、数の利もこちらにある。ならば何故、こうも苦戦するのか。次々に鬼たちが骸となって積み重なるのは何故なのか。

 くん、と鼻先に漂う甘酸っぱい香りに桃子は気がついた。風にのって島中を取り巻くその香りは、間違いなく桃の香である。


──ああ、皮肉よな。母様の名前のおかげかよ。


 名前にの字を持つからか、魔封じへの耐性がついていたのか。はたまたなのかは分からない。に、桃子の動きを止めるほどの効能はなかった。それでも着実に思考を鈍らせているこの香り。桃子は顔を顰めた。


 焚かれていたのは、鬼封じの香である。


 退魔の力、天の力までもが人間に味方をしていた。風が吹く。唸りをあげる。

「おのれ、おのれ、おのれ、小賢しや、人間どもめが!」

桃子は吼えた。無謀な争いにいたのは、鬼たちであったのだ。無力に奪われていたのは鬼たちであったのだ。

 薙刀を乱暴に振り回して、人間を吹き飛ばす。構えていた弓ごとその腕を断つ。まさに鬼神の如き奮闘を見せる──だが、分が悪い。野犬や野猿、野鳥の類をも人間たちによって、瞬く間に島は荒らされていた。

 生活の跡は容易く崩されていく。もう二度と、鬼がこの地に住めないように、入念に壊されていく。

 桃子は赤い髪を振り乱して戦った。総力戦で抑えつけようにも、これだけ分の悪い試合だ。

「誇りで飯が食えるかよ」

食えぬ者もいる。ならば、誇りよりも生きることを取るべきだと、桃子達かれらは考えた。生きて繋ぐべきだ。そうしないと、それこそ

「ここは任せて下がれや!」

桃子は駆け抜けながら、鬼たちを退がらせる。

「姫様!」

逃げ始めた鬼の背に人間は

「敵を前にして逃げるとは卑怯なり!」

斬りつけた。矢を射った。


 これが戦の常。


 ならば、その報いを戦で受けるのもまた、当たり前のことだろう。

 桃子は一足跳びに駆け抜けて一振りでその首を落とした。降り注ぐ矢をかわし、太刀をいなし、盾を砕き、回し蹴りを頸筋くびすじにぶつけてへし折る。それだけなのにこんなにも疲れるとは──香をたっぷりと吸わされた他の鬼たちは既に這う這うの体だった。

 火の手が既に上がって城へとじわりじわりと近づいている。桃子一人では狩り切れない敵兵たちが城へと攻め入る。

「クソ……ッ」

舌打ちをしながら、手近な人間の背後に回り込む。一人倒して、その次の男に斬りかかる。

 その男の方は中々に目敏かった。男は素早く身を捻り、桃子の薙刀を掻い潜るように太刀を振り回した。

「父の仇! その首討ち取ったり!」

桃子が身を捩って避けた。チリリと火花が如く髪が散る。

 

 そのすぐ側を、びゅん、唸り声を上げて矢が疾るのが横目に見えた。


 見遣れば、対峙していた人間の喉笛に矢が突き立っていた。狙いは完璧──桃子に傷ひとつつけることなく、ぶしゅりと血飛沫があがり、男が倒れる。

「……紗紗」

姉は溜息混じりに名を呟いた。

「姉上! わ、私も戦います!」

紗紗丸が弓を手に太刀を腰に、駆けてきていた。弟は口早に、子らは他の女衆に任せて既に退却をしはじめていると語った。それなら何故、紗紗丸は此処にいるのか。桃子は睨め付けた。

「私が次期頭領になるならば、ここで一族のため戦うべきでしょう」

「愚かよ、愚か者めが。戯けるなよ」

 す、と冷たい視線が紗紗丸に向けられた。

 ぐう、と唸って彼はたじろぐ。

 彼とて姉の言い分は理解していた。紗紗丸に託されたのは、一族を長らえさせること。ここで途絶えてはならない。それならば、彼はここに居るべきではない。なのに、彼は姉の元に戻ってきた。

「それが主のやることか。それが長たるべき者のやることかよ」

「姉上の仰せのことも理解しておりまする。しかし、守る為、長が矢面に立つのは当然でしょう! 私がいなくても彼らは逃げおおせましょう!」

「守る為に戦うことは結構、奪う為に戦うことも結構、同時に一族を生きながらえさせる為に逃げることもまた一つの長の使命だと心得よ。私が戦う、お前は退と言うておるのじゃ!」

だから戯けるのはよせ──桃子はそう言うのである。


 本土に着いたら、鬼たちは散り散りに逃げるだろう。各地で息を潜めて、機会を待つことになる。人の油断はきっと早い──その隙を狙うべきなのだ。

「主が皆を引っ張れ。理解せよ、その為にお前を本土に向かわせるのじゃ。この桃子と紗紗丸、互いがやるべきことを見失うな」

「姉上」

ひどく冷たい声だった。しかし視線は柔らかいものになっていた。その口元にわずかに微笑みが浮かんだのを、紗紗丸は見逃さなかった。


──生きろよ、紗紗。


それから、暗闇に呼びかける。彼が此処に来たのなら、きっと彼女も追ってきているだろう。秋葉あれは己の使命に忠実な鬼だから、決して主人を一人にはしない。

「秋葉よ」

案の定、近くから声があがる。

「──ここに」

「紗紗丸と子らと共に本土の──くだんの場所に行け。そこなら、身を潜められるじゃろ」

「はい。──紗紗丸様、失礼いたします」

「……!」

紗紗丸が息を呑む。秋葉が紗紗丸を抱えたからだ。なんとも、秋葉は忠実な鬼だ──。

 紗紗丸は暴れるがどうともできない。秋葉は女だが、滅法力の強い鬼だった。幼い紗紗丸は簡単に抑え込まれてしまうのである。

「姉上! 姉上! 何故ですか! 共に戦わせてください! 一人は嫌だ!」

泣き喚く紗紗丸はやはり、鬼らしくない。

「姉上の御首は紗紗にくださるのでしょう! 嫌だ、お一人になどさせとうありませぬ!」

大きくため息をひとつ。その間にも秋葉は歩き始めていた。二人の距離は広がる。

 紗紗丸の悲痛な声を聞きながら、桃子は笑っていた。ああ、なんとも愛おしい、愚かな弟!

「すぐ会えるさ、莫迦者が。──行けよ、秋葉、紗紗丸! 生きてまた会おうぞ」

 紗紗丸はしゃくりあげて、それでも動けない身と、姉の意志を理解したのだろう。

「桃子姉様」

もう一度だけ、名を呼ばれた。

 振り返る。

 黒い瞳と視線がかち合った。

「絶対に……紗紗の元へ、必ず来てください。必ずです──それまで、それまでは、この紗紗丸が一族を守って見せましょう」

情けなく抱えられて、涙で顔を汚くして、それでも力強い光が目の奥で燃えていた。


 ──これが見たかった。


 桃子としてはもっと別の時に見たかったのだが、我儘は言っていられない。

「ご無事で、姉上」

「誰にものを言うておる」

桃子は歯を見せて笑った。

「我は鬼の桃姫ぞ。お前の為のこの首じゃ──むざむざ死ぬつもりなぞあるものか」

 

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