一話 桃姫
むかしむかし、いつ頃かの話である。
まだ
島を治める鬼はまだ若い。溢れんばかりの活力で自ら民を鍛え上げ、狩りを行い、赤い
「姫様!」
男子のように結えた燃えるような赤髪に、人とは異なる鮮やかな色の瞳が陽光を受けて輝く。裸足姿で岩山を駆け、その都度黒い衣の
よく跳び、よく跳ねる、風のようなこの彼女こそこの島の鬼を束ねる鬼の姫君──
「
名を呼ばれてようやく、花の
名を桃姫──
桃と言えば古来から魔除けに使われるような代物だ。それなのに、魔に近い
彼女の父は生粋の鬼だが、母は
幸か不幸か、彼女は鬼として立派に成長した。
桃子の父の屋敷は都にほと近い山にあって、人を喰らう悪鬼としてそこそこに名を馳せていた。彼の元には金銀財宝がうずたかく、共に暮らす鬼たちもそれは豊かな暮らしをしていたそうだ。それがある日、食うはずだった人間に逆に討ち取られてしまった。金銀財宝も、命も、何もかも奪われたのだ。
一方で母はといえば、うんと前に風邪を
桃子とその弟
奪い、守り、命を繋ぐ。
桃子は既に一族の長として立派に責を果たしている。それは全て、弟の紗紗丸に頭領の地位を譲るまでの話──これが桃子の口癖だった。
「のう、紗紗丸よ、いつになったら姉に楽をさせてくれるのかえ」
「当分は叶わぬ夢かと。紗紗は未熟者にございます」
まだ幼い弟は、やはり出来すぎた姉と比べると少しばかり見劣りする。
父によく似た桃子とは反対に、彼は母によく似ていた。黒々とした髪に同じ色の瞳の容姿は人間らしいが、十分すぎるほどに麗しい。幼いながらに弓の名手であり、勤勉ではあるのだが、いかんせん鬼らしくない。動物であれ人間であれ奪うことを渋るほど、残酷さが足りない。それは紗紗丸自身も認識していた。他の鬼からも頼りなく思われていることは周知の事実だった。
とは言え、姉弟の仲は良好そのものだった。姉は弟を疎むことなく愛し、導いたし、弟も姉を慕いこそすれ、恨むことなどはなかったのである。
桃子はひらりと欄干に降り立つと、腰に手を当てて遅れてやってくる侍女たちを
「なんじゃなんじゃ、揃いおって」
仕事はとうに片付けた、そう言いたげな瞳で桃子は振り返った。鬼に仕える朝廷などないのだから、書類仕事などありはしない。あるのは生きるべく日々狩りに出かけ、城を強くし、兵と後継者を鍛えることだ。時折外来の書物を広げて議論もするが、最近は新しい書物の類は入って来ていないのでそちらの心配はないはずである。
「何ぞ足りぬのか」
考えられるのはそれくらいだった。
島でも作物などはいくらか育ててはいるが、やはり皆が満足に生きていくには心もとないものがあるのも確かだった。島で足りないものは
「仕方あるまい、ならば手近な人里に出向くか」
「いいえ、いいえ、姫様」
そう言って侍女たちを押し退けてやって来たのは、身の丈七尺ばかりの大男。桃子の師であり、父の代から仕える鬼である。
「なんじゃ、
「姫様、島外に不穏な動きがありまする。そう遊び歩いておられる暇などありませぬぞ」
「遊び歩いてなどおらぬ」
桃子は口を尖らせた。
「島を回るのもまた、我が職務ぞ」
「まあ、それもそれで良いのでしょうが……」
溜息混じりに返された。
「なんじゃなんじゃ、その
「いえ、失礼。話を戻しましょう」
「お主が始めたのだろうに」
「……急を要しておりまする、が、確かにちと、慌てすぎたのやもしれませぬ。なにぶん島の安寧を左右する話故……」
「ええい、仕様のない奴じゃ。わかった、歩いて話すぞ。阿良丸はついて参れ──主らは元の場所に戻れや」
桃子は侍女たちを帰すと、阿良丸と連れ立って歩き出した。
+++
鬼ヶ島は岩ばかりの島だが、それを切り出して城のようなものは建てられている。門があり櫓があり蔵があり本丸に天守もある。庭なども桃子が凝って造ったりなどして、石畳の左右で青々とした季節の草花が方々で背を伸ばしていた。
その中を二人は歩いている。
「人間どもに不穏な動きがございます」
そう言ったのは阿良丸だ。
「不足しているものはありますが、今は下手に動かれない方がよいかと」
「奴らは常に不穏ぞ。人間どもはこの世全てが己が世と勘違いしておるでな、我々をどうにか駆逐せんと必死なのよ」
くつくつと笑うのは桃子だ。
「常のこと──ええ、確かに仰る通りで、しかし、今回のは話が違う。他所での諍いなら良しとしましょう──しかし、わざわざこの島を目指して来る一行がいるのだと、そういった話ですからな」
「なに?」
桃子は眉根を寄せた。これまでもこの島を目指してきた人間はいないでもない──が、逃げてきた身寄りのない者や、迷い込んだ者がほとんどだった。彼らは食わずに住処と仕事を与えて居たのだが、まさかここに攻め入ろうなどという輩が居るとは。
「して、規模は」
「さあて……しかし百人も、その半数すらおりますまい」
「ふふん、随分と謙虚じゃの」
鼻で笑ったが、しかし、桃子は険しい顔を崩さなかった。あれだけ強かった父を殺したのもたった数人の男だ。人妖入り乱れの大規模な戦争などここ暫くは聞いていない。最近はどんなに強い力の鬼でも、人間の小賢しい策に陥って、たった一人に殺されることだってままあるのだ。
「ふん、気ままな旅か、
「ええ。なんでも
「ふむ、ふむ……」
直近では先月に近場の漁村に狩りには行ったが、そこでも特段強い抵抗はなかったはずである。生きる為に狩りをするのは人とて獣とて鬼とて変わらない。人と人との間にも似た行為は横行する。だのに、彼らはそれを理解しようとしないのだからかなわない。
「彼奴等も分からぬものよな」
「いや、まったく」
阿良丸も重く頷いた。
「いつも平穏を壊すのは小さな波紋から──そうさな、
「仰せの通りに」
「相手が少人数だとちと見廻が大変じゃが、相手は小さく弱い
豊かな海に囲まれ、甘酸っぱい花の香りと磯の香りに満ちたこの島を、桃子は愛していた。一から鬼たちで作り上げた島だ。鬼が暮らす鬼の為の島。
この島と生活を守る為ならばどんな手段も
「全く
桃子はそれを望み、その為に紗紗丸に
「早う楽にさせてもらわねばならんなあ──」
本気か戯れか──いずれにしても桃子の口癖だったので、全ての鬼に桃子の夢は伝わっていた。
そのことに、全ての鬼が好意的ではない。
現に阿良丸も眉根を寄せていた。彼は桃子の父を主君とし、桃子をも主君と認めた。しかし紗紗丸のことは認めていなかったのである。
「主君、本気で紗紗丸様に全てをお任せになるのですか」
「なんじゃ、いかんかえ」
こんな反応は日常茶飯事だった。故に、桃子は笑った。
「紗紗丸は良い男になる。じきに父のような──いや、父にはない性質もあるからな、もしや父を越えた頭領になるかも知れぬぞ」
「……弟君がそのお立場に相応しくあられるかは、甚だ疑問ですな」
「相応しくなく、弱ければ、淘汰されるのみよ。まあ、この桃子の生きているうちはそんなことはさせぬがな──」
「いや、そのようには。失言でござりまする……」
阿良丸は深く嘆息した。
「紗紗丸さまは──人の子であられれば良かった。人の社会でのみ生きるのであれば、あの方も大成されたろうに。長く生き、慕われたろうに」
阿良丸は別に紗紗丸のことを嫌ってはいない。嫌ってはいないが、主として認めてもいないだけだ。
「心配かえ」
「鬼の世はかような心持ちでは生きてはいけませぬ。力が無ければ生きてはいけませぬ。頭領が
「ふむ……」
「ただでさえ、不穏なる雲行きがあるのです。──桃姫様。なにもかも──今のままでは弟君に頭領の座を譲るなど叶いませぬぞ」
まあ……と桃子は弟を思った。
紗紗丸は弓の名手ではあったが、武器を厭うた。命を奪う時、彼は懺悔をしながら泣く泣く奪う。扱えばそれなりに強いのに、刀や槍のようなものは握らず、なんとか弓で離れたところから射殺す──まったく臆病な男である。それでも稽古を続け、生きることのなんたるか──即ち奪うことのなんたるかを説き続け、最近はようやく後継者の心持ちはできてきたらしいが……。
他の鬼たちの懸念も尤もなところはあった。
「あれが姉の首を落とせぬと思うか、阿良丸よ」
鬼の世襲は数多の形あれ──桃子が弟に望むのは己の首を落とすこと。万人に長と認められた力を持つ桃子を
「紗紗はやる子じゃ。
桃子はそう信じていた。どうしてもやらねばならぬ時、あの子が
「ああ、あの子ならできるともさ、阿良丸」
からからころころと桃子は笑った。
「じきにわかる」
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