§3

「おーい嬢ちゃん、何処だぁ?」

「……嬢ちゃんじゃありません! マ・グ! 何度言ったら覚えるんですかっ! ……で、何か用ですか?」

「いや、もう寝るからさ。一緒にベッド」

「お断りですっ!」

 渋々とバッカスに対して敬語……いや、敬語のような語尾を無理矢理くっつけた言葉で応対せざるを得なくなったマグは、ただでさえ腹の立つ彼の態度と、自分に対するセクハラの数々に業を煮やしていた。

 あの悪夢のような出来事から10日が経過した。あの日以来、マグにとっては受難の日々が続いて居たが、バッカスは上機嫌であった。それはそうだろう、酒を飲みながら寝ていたら突然可愛い女の子が空から降ってきて、しかもその子が何故か自分の傍を離れず、言いなりになって動くのだ。いや、厳密に言えば『ほぼ』という言葉が前に付くのだが、

 一方、自分に直接害の及ぶ要求以外には従わなければならないマグは、苦悶の表情を浮かべながらその屈辱に耐えていた。彼女に拒否権が与えられているのは、添い寝の誘いや身体への接触等、主従の権限が及ばないプライベートな事のみに限定されていた。しかし、それすらもバッカスは無視し、侵害してくるのだ。最早、手の付けようの無い暴挙振りを、彼は発揮していた。

「全く……水浴は覗く、身体には触る、オマケに寝る時は抱き枕代わり……いい加減にしてください!」

「いいじゃねぇか、愛情表現って奴だよぉ」

「こちらには、アナタに対する愛情は一かけらもありません! アナタの愛情を受け容れるつもりもありません!」

「照れなくても……」

「本気ですっ!!」

 一事が万事、全てこんな調子だ。マグにとっては気の休まる暇も無いだろう。

(うぅ……契りの解除は、主であるこの男からしか発動できない……逃げたくても逃げられない……!)

 契りを解除する為には、もう一つ方法があった。しかし、それをやってしまうと、マグはもう二度と両親の元に帰る事が出来なくなるのだ。そう、その方法とは……彼女がヴァンパイアである事を辞めて一切の能力を放棄し、人間になる事である。そうなれば魔力の消滅と共に、契りによる制約や束縛は一切解除され、彼女は自由となる。しかし、この男から逃げる為だけにそれを行う事は、あまりに馬鹿馬鹿しい事であったし、種族転換の儀式には、高度な力を持つ魔族の協力が必要になる為、現実的ではなかった。よって、この男が自分に飽きる……という、絶望的に低い可能性に賭けるしかないのだった。

「……何処へ行く?」

「散歩です」

「こんな夜更けに?」

「私はヴァンパイアです、夜中に動くのが普通なんです」

「……ふぅん……あんまり人様に迷惑掛けるなよ?」

 その台詞、どの口が言った……! という文句をやっとの事で呑み込んで、マグはバッカスのアパートを出た。流石のバッカスも睡魔には勝てないのか、真夜中まではしつこく追って来ない……という事に気付いたのが、昨晩の事だったのだ。

(ふぅ……開放されるのはこの時だけね。ホント、最悪なのと関わっちゃったなぁ……)

 塔のてっぺんに腰掛けて、深い溜息をつく。マグは本当に疲れていた。なぜ私がこんな目に……と自問自答する事すら当に諦めた彼女は、もはやノイローゼに近い状態にまで追い詰められていた。

(……月がこんなに綺麗だなんて……私にも、こんな事で感動できる心があったんだな)

 マグは夜空を見上げ、抱えていた膝小僧を伸ばし、月明かりに身を溶かしながら呟いた。こんなにも感傷的になっている自分が、何となく可笑しくなったのだ。しかも、その原因があの男からのセクハラ攻撃なのかと考えると、もはや笑いしか出ない。ヴァンパイアとしての力を磨く為の修行の旅に出て、何故、こんな見当違いな事で悩んでいるのかな……と。

(お父様やお母様は恋しい。けど、マグはもう疲れました。力も素質も絶望的、ヴァンパイアとしてやっていく自信も、もはや無い……いっそ、上級魔族を召還して、ヴァンパイアである事を辞めて……)

 感傷的になっている時に独りになると、更にネガティブな思考に拍車が掛かるものだ。先程はリスクが高すぎると思って封印した『最後の手段』を、今は『そうしてしまいたい』と思い始めている。このままではまずい……と思い直したマグは、パン! と両頬を叩いて、その場から去ろうとした。例え帰る場所があの男の隣であっても、独りでいるよりは気が紛れるだろうと判断したのだ。が、不意に彼女は、背後から圧倒的な威圧感を浴びせられ、驚いて屋根から飛び立ち、身構えた。すると……

「へぇ、この街にも人型の魔族が居たんだね……アナタ、新顔ね?」

「あ、アナタは!?」

 黒いローブに身を包み、その肩に黒猫を乗せ、宙に浮いているその影は……顔はローブに隠されて見えないが、小柄な体躯と、その声から察するに、恐らくマグよりも年下の少女であろう。しかし、その小さな身体から発せられるその威圧感は、チンケな使い魔の物とは比べ物にならないほど強力……これは、単なる魔族なんかじゃない……と咄嗟に感じたマグは、恐る恐る、目の前の影に問い掛けた。

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