心の鏡

県 裕樹

§1

 私はどうして、こんなところを飛んでいるんだろう……

 まるでミルクの中を泳いでいるかのような、ハッキリとしない意識。目は覚めているし、耳も聞こえる。勿論、視界も良好。だが、意識が……と言うより、気力が底を付きかけて、ふわふわと風に流されるままに、状況に身を任せて宙に浮いているのだ。

「幾ら弱種とはいえ、私だってヴァンパイア……人間ぐらい、簡単に御し切れると思っていたのに……」

 ひとえに吸血鬼と言っても、様々な種類がある。有名なところでは、蝙蝠の姿を借りて夜の地上を闊歩する、ドラキュラ伯を筆頭とする種族。彼らには日光に弱いという弱点があり、行動できる時間帯は夜間に限られるが、その身体能力は人間の比ではなく、逆に夜間であればほぼ無敵と言って良かった。ニンニクや十字架に弱いという弱点が伝えられているが、それは誇大表現であり、彼らに『ただの』十字架を見せたところで怯みもしないし、ニンニクの臭いも『苦手』と云うだけで、深刻なダメージに繋がる訳では無い。

 その他、人型を持たない獣型、果ては昆虫型なども存在しているが、その何れもが、力関係では人間を凌駕している。そう、人間は吸血鬼に敵わない……これはもはや常識であった。ところが……

「まさか、あんな小さな女の子すら従えられないなんて……私って、一体なんなのかしら……」

 彼女達の一族も、確かにヴァンパイアの一種ではある。が、吸血『鬼』と名乗る事が憚られるほど、弱い種族だった。無論、その体力や腕力には個体差があり、単純な力量では人間を凌駕する者もいる。だが、肝心な吸血鬼としての能力は『蚊』に近く、殆ど無力と言って良いほど弱かった。無論彼らには、変身能力も備わっていない。

「空は飛べる、他の種族の血を吸って栄養に出来る……だから、人間より優れているはずなのに……」

 彼女は、襲い掛かった相手にことごとく返り討ちに……と言うより、殆ど相手にされず、酷い時には存在にすら気付いて貰えずにあしらわれ続け、それを繰り返すうちに、ついに自信を喪失してしまったのである。

「皆が外界に降りた後、帰って来なかった理由がやっと分かった……帰りたくても帰れなかったんだ。みんな、人間や他の種族に負けちゃったんだ……」

 彼女の想像は強ち外れではなかったが、少々オーバー気味であった。現に、彼女と同じ種族の者でも、キチンと帰還している者も居るのだ。彼女の両親も然りで、立派に人間を従えた経歴を持っている。その話を幼い頃から聞いていたからこそ、臆病者の彼女も異界へ旅立つ気になったのだ。しかし現実はこの通り。これでは両親の居る、元の世界に戻る事はできない。彼女達の掟として、一度外の世界に出たら、異界の種族を一度は従え、主従の契りを交わさなければ、元の世界に戻る資格を得られない……というものがあったからだ。

 彼女も最初のうちは、何とか帰還を果たそうと必死になり、狙う相手を男性から女性、大人から子供へと……段々と弱そうな者に変えていったが、先刻ついに、小さな女の子を相手に契りを交わそうとして、退けられてしまったのである。これは最早、能力が云々と語る以前の問題であった。彼女達の力量は、そのモチベーションに比例して変化する。すっかり自信とやる気を失った今の彼女では、たとえ赤子が相手でも御せはしないだろう。

「もう、帰るのも無理……何だか疲れちゃったな。ああ、このまま泡にでもなって消えてしまえたら……」

 そんな感じで、彼女はすっかり空気と同化しながら、風任せにフワフワと漂っているのであった。

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