Ep.4 HARUNA 2

(そうか。そうだったんだ――)


 二歳か三歳のあたしは、眼の前に落ちかかる前髪も気にせず、スケッチブックの上で握ったクレヨンを一心不乱に動かしている。


「ああ、そうじゃないよ。ちゃんとひと煮立ちさせてからだって……」

 ばあちゃんの後ろから、あぶなっかしそうにじいちゃんが口をはさむ。醤油の一升瓶の口を握ったばあちゃんが、あわてて大鍋の上から手をひっこめる。


『オフクロが醤油やみりんをオタマでチビチビはかってるのなんか、見たことがなかったな。ぜんぶ目分量で、手早く豪快に作ってたもんさ。なのに、出来上がってみれば、まごうことなき老舗〈味乙〉の佃煮になってるんだ』

 おふくろオトシマエは、よくそう言っていた。

 懐かしんでいるわけではなく、自分が調合したタレを味見しながら、いかにも不満足そうに顔をしかめた。


 おふくろが店を継ぐ決心をしたのは、煮つまったタレがモウモウと煙を上げる大鍋の前で、ばあちゃんが呆然と立ちつくしているのを目撃したときだったという。

 具材を投入するタイミングを間違ったのだというが、おふくろはばあちゃんのボケがかなり進行してしまっていることを思い知らされた。


〈味乙〉の佃煮がなければメシがのどを通らないというほどの常連客が何百人といる。

 おふくろは迷うことなく即日退職届をミホ母さんに手渡し、店の厨房に立った。

 一日として手伝いさえしたことがなかったおふくろだが、毎日食べつづけてきた味なのだから、なんとか自分の手で再現できるはずだと信じていた。


 しかし、なじみ客の舌はなかなか納得させられない。「なんかこう、深みが……」とか「もっとふくよかな……」とか、微妙な言い回しでクレームをつけられる。

 おふくろ自身もそれは痛感していたが、何度作り直してもばあちゃんの味にならない。そうしているうちに、客足はしだいに遠のいていった。


 おふくろはとうとう方向転換せざるをえなくなり、シジミと昆布とシイタケだけだった品数を増やし、下町の老舗〈味乙〉のネームバリューを欲しがる高級スーパーやデパートなどにも卸すことにした。

 そうやってなんとか店を維持していけるようにはなったが、どうしても満足のいく味を出せないと今も嘆いている。


「じゃあ、もう一回説明するよ。まず最初にだね……」

 じいちゃんが諭すように優しい口調でばあちゃんに語りかけた。ばあちゃんは不安そうにいちいちうなずきながら聞いている。

 おふくろからずっと聞かされていた〝やり手の肝っ玉かあさん〟と〝尻に敷かれっぱなしの能なし亭主〟の夫婦像とは、どこか違和感のある構図だ。


 そこに、横の空間からフワリと湧くようにローレンスの姿が現れた。

「なんとかそれらしい出口を見つけられたようだ――」

 ローレンスは、ようやくたどり着いた二歳児のあたしの記憶から、例の悪夢の元となった事件の場面へとつながる道を探しに行っていたのだ。


〝記憶〟というのは、ローレンスに言わせれば、本人が自覚している以上に空間的な広がりを持っているという。

 具体的に眼に見える範囲でなくても、例えば住み慣れた家や学校なら、自分がいる位置から無意識のうちに別の部屋の気配や周りの人が作り出している雰囲気などを感じ取り、かなりしっかりと記憶に留めているものなのだ。


 本人は、いわばその記憶の中心に拘束されているようなものだから、そういった見えない周辺部へと移動することはもちろんできないが、記憶に入り込んだ他人ならば記憶を客観視できる分だけ歩き回れる自由がある。

 ローレンスはそれを利用することを思いついた。それに、長年記憶の旅を重ねてきた彼だからこそ持っている鋭利なカンのようなものがある。


「行けそうなの?」

 あたしの声に緊張感がにじんだ。

 ついにあの悪夢と向き合うことになりそうだ。

「試してみる価値はある。いずれにせよ、出口を開くカギはきみだ。きみがそれに感応すれば、扉はきっと近接する印象的な記憶へとみちびいてくれるだろう」


 ローレンスがクレヨンを握ったあたしの手を取ろうとする。

 別の記憶に移行するには、幽体離脱のようなことをして周辺部にぼんやりと存在している気配のような出口へとおもむく必要がある。無理に自力でやろうとすると、最初のランニングのときみたいに勝手にどこに飛んでいくかわからないのだが、ローレンスが手を添えて導いてくれれば、それほど不安定な状態になることはない。移行をくり返すうちに、そういうこともだんだんとわかってきた。


「ちょっと待って。今、じいちゃんが、秘伝のタレの作り方を教えているところなんだ」

「ほう。〈味乙〉の佃煮は、私も大好物だったはずだよ」

 記憶をなくしたローレンスも、厨房いっぱいに漂う芳香に思わず鼻をヒクつかせている。

「ちゃんと憶えていって、おふくろに教えてやらなきゃ――」

 あたしはあらためてじいちゃんの話に集中した。


(そうだったのか……)

 だんだんとわかってきた。

 おふくろは、ばあちゃんが店も家事もいっさいを切り盛りしていたように思い込んでいるが、老舗と称されるほどの定評を得ていた繊細な味を決めていたのは、実はじいちゃんだったのだ。


 調理はすべてばあちゃんが引き受けていても、肝心な場面ではじいちゃんの的確な判断と指示が必要だったってことだ。

 分量とか、火加減とか、タイミングとか、やっぱり独自の手順やコツがあったんだ。ちょっとでも聞きのがしたらマスターできそうにない。あせって頭に刻み込もうとする間にも、じいちゃんの話はどんどん先に進んでいく。


「これは、驚いた……」

 ローレンスは、なぜかあたしの手元のほうをのぞき込んで感嘆の声を上げた。

「ほら、ちゃんとメモしてるよ。きみ自身が」

「え――?」

 人物像をあらかた描き終えたあたしは、背景の色塗りに取りかかっていた。

 何十年も佃煮を作りつづけてきた厨房は、油煙ですっかりアメ色にススけている。コゲ茶色のクレヨンでその壁を塗りつぶしているように見えた。

 だけど、手の動きを注意して見ると、たどたどしい筆使いではあるけれども、たしかに文字を書きつけているのだった。


「あっ!」

 ばあちゃんが厨房に貼っていたというあたしの絵は、秘伝のタレをこしらえるための大切なレシピだったのだ。じいちゃんが亡くなった後、ばあちゃんはそれを頼りに佃煮を作りつづけていたにちがいない。


 じいちゃんとばあちゃんが並んだへったくそな絵が、しだいにビッシリと細かい字で埋めつくされていく。ばあちゃんのタレの味は最後までカンペキだったとおふくろは言っていた。てことは、この絵さえ見れば本物の〈味乙〉の味が再現できるってことだ。


 おふくろにこのことを伝えたら、どんなに喜ぶことだろう。

 そして、その味がじいちゃんとばあちゃんのまさに〝合作〟だったという事実をあらためて知ったら、きっと涙を流して感動するにちがいない。


 幼いあたしに絵の完成をまかせ、あたしとローレンスはその場を後にした――


「どうしよう、ローレンス! いきなり事件のまっただ中に出ちゃったみたい」

 転移したとたん、そこが緊迫した状況であることがわかった。


 壁のむこう側では、ガタン、ドスンと乱暴な物音が轟きわたっている。

 しかも、あたしは、その音に急かされるようにイスを踏み台にして机にはい上がり、おぼつかない足でそこに立ち上がろうしていた。

 壁のフックにカギの束が引っかけてある。あたしはせいいっぱい背伸びし、必死に手を伸ばしてそれを取ろうとしているのだった。

「がんばれ、ハルナ!」

 冷静なローレンスが、やっているのが幼いあたしだってことさえ忘れて叫んだ。


 ところが、何十本ものカギは子どもには重すぎた。つかみそこねて、アッと思ったときにはもう机に衝突する寸前だった。ローレンスがとっさに手を差し出したが、幽体みたいな彼に受け止められるわけがない。幻の手をあっさりすり抜けたカギ束は、机に激しく衝突した。


 ガッシャーン――

 思った以上にひどく大きな金属音がして、しかも、衝撃でストラップが外れ、何十本というカギが机いっぱいに散らばってしまった。

(し、しまった!)


 耳をすますと、壁のむこうから聞こえていた物音がピタリと止んでいる。

「チッ。気づかれたか……」

 ローレンスが悔しそうに舌打ちし、あたしは机の上で凍りついたように立ちつくした――

 

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