第2話 2人の少年
(どうしようっ、まさかこんな事になるなんて……っ)
いくつもの見覚えのある風景を走り過ぎながら、アウルは心の中で困惑の声をあげた。
はっはっ、と乱れる息。だらだらと頬を流れ行く汗。
体力の限界は当に来ている。それでももつれそうになる足を叱咤しながら、アウルは道なき道をひた走り続けた。足を止めてはいけない。止めたら最後、それが自分の『最期』になる――、ただその必死な思いだけで足を動かし続ける。
そんなアウルを追うように、彼女の遥か後方からバサバサと羽音が聞こえてくる。アウルを追ってくる『奴ら』のものだ。バサバサ、バサバサと激しく鳴る羽音。その合間を縫うように、『奴ら』の声が林の中に木霊する。
――ドゴ゛ニ、行ッダ゛ァ……、小娘、ドゴ゛ニヒッダァ……。
焼き潰され、ただれた喉で無理やり声を出そうとしているかのような声。
長年雨風にさらされ、誰にも気にかけられる事なく朽ち果てかけている、そんな錆だらけの金属がこすり合う音にも似ている。きっと誰もがその声を耳にした瞬間、生理的な嫌悪感に見舞われる事だろう。
実際、アウルもその声を耳にした瞬間、背筋を冷たいものが走り抜けていくのを感じた。ぞわりと、悪寒にも似た感覚。明確な恐怖の2文字が、アウルを襲う。
――……オカした、小ムズメ……。
――殺ゼェ……、ゴロゼェ゛……。
――ニガジナァアア……、逃ガギナァァアアア……。
――ツガマエロ゛ォ゛オ゛オ゛……、ヅガマエ゛ロ゛ォ゛オ゛オ゛……。
「っ、」
(まずい、どんどんアイツらとの距離が縮まって来てるっ)
だんだんとはっきりと聞こえてくる『奴ら』の声に、アウルの中の焦りが増幅する。
このままでは『奴ら』に捕まるのも時間の問題だ。早く、どこか逃げ込む場所を探さなくては――、そう考えた瞬間、アウルの脳裏に数刻前に後にしたばかりの『家』の姿が思い浮かんだ。
暖かな『家』。アウルとアウルの大事な相手が住まう場所。数刻前に出てきたばかりのその場所が頭に浮かんだ途端、あそこなら、とアウルは漠然とそう思った。あそこまで逃げ切る事ができれば、きっと大丈夫な筈だ、と。
明確な理由や根拠はない。
だが不思議な事に、そこが自分の住まう『家』だというだけで絶対の信頼をおける。
そこが自分の住む場所なのだと、帰る場所なのだとそう思うだけで、そこに帰る事さえできればなんとかなると、そんな漠然とした安心感が彼女の中にわきあがる。
だが次の瞬間、ハッとアウルは我に帰った。
ダメッ、と慌てて首を横に振る。
(あそこには、お母さんが居る……っ)
アウルの脳裏に母の姿が思い浮かんだ。
あそこはアウルの住処であるが、同時に母の住処でもある。アウルがこうして『奴ら』から逃げている間も、母はあの『家』でアウルが帰宅するのを待っている。
もしアウルが『奴ら』を引き連れた状態で『家』に帰れば、母をこの事態に巻き込む事になるのは明らかだ。その光景を想像した途端、アウルは己の顔から血の気が引いていくのを感じた。
(そんなの、絶対にダメっ)
これはアウル自身が招いた事だ。母は関係ない。
母を巻き込まない為にも、どうにか『家』に帰り着く前に『奴ら』を巻かないと……、そうアウルが考えた、
――その時だった。
ガッ、と勢いよく、アウルの足が何かに引っかかった。
「あっ⁉」
アウルの地面の上に倒れゆく。そのまま勢い余って、ズサーッ! と少しばかり体が地面を滑った。
「うっ、いったぁ……」
ヒリつく痛みが、アウルの鼻の頭や、めくれたスカートから見えている膝の部分を襲う。思わず目尻に涙をにじませながら、アウルは体を起こした。
一体何が起こったのか。状況を判断しようと、自分が転んだ場所を振り返る。
すると、苔だらけの地面の中で、一部盛り上がっている地面がアウルの目の中に飛び込んできた。
よく目を凝らしてみると、それは地面ではなく木の根っこであった。近くの木のものだろう。野太い根が、小さなアーチを描くように地面から顔を出している。どうやらあれに足を引っ掛けてしまったらしい。
と、次の瞬間、根っこが慌てたように地面の中に引っ込んでいった。
まるでアウルに見られている事を恥ずかしがるかのように、その身をくねらせながら地中に引っ込む根っこ。どうやらいつも地上に出ているタイプの根ではなかったらしい。アウルが地面を踏んだタイミング、もしくはそれより前から、たまたま顔を出していただけの根っこだったようだ。
なんと間が悪い事か。思わず、アウルが何もいなくなった地面を睨みつけた。
と――、
「見ィィイイイイヅゲ、ダァァァアアア……」
「!」
これまでの比ではない至近距離から、『奴ら』の声が聞こえてきた。
途端、アウルの周囲が暗くなった。
アウルの頭上から、バサバサと、大きな羽音が聞こえてくる。次いで、ひらひらと数枚、アウルの顔よりも大きい黒い羽が舞い落ちてきた。
ハッとして、アウルは顔をあげた。
そして飛び込んできたその光景に、ひゅっ、と喉を小さく鳴らす。
アウルの頭上――、そこに居たのは鴉だった。
光すらも飲み込むような、漆黒の闇色に染まった巨大な鴉が、アウルの頭上を飛んでいる。
アウルの顔程の黒い羽達で覆われた、驚異的な巨体。アウルの何倍もの大きさのそれは、鴉というよりも『
頭部には、これまた常軌を逸した大きさの嘴があった。下顎がパクパクと揺れており、口端から白い泡のような涎が、ぶくぶく、だらだらと溢れ続けている。
そしてその嘴の上には、3つの目があった。
体躯との境界線がわからなくなる程に見開かれた瞳孔を携えた3つの血眼。そこにアウルの姿が映し出されている。
恐怖の2文字をその顔に浮かべ、地面にへたり込んでしまっている、アウルの姿が――。
(に、逃げないと……)
立ち上がろうと、アウルは己身体に力をいれた。が、上手く力が入らない。それどころか、まるで動き方を忘れてしまったかのように体中が硬直している。「あっっ……、あっ……」と無意味な声だけが、口から小さく吐き出される。
バサバサ、と新たな羽音が聞こえたかと思うと、化物の後方、林の奥から続々と鴉達が現れ始めた。目の前の大鴉ではないが、皆一様に、鴉にしてはあり得ない大きさである。アウルと同じぐらい、それかアウルよりも一頭程大きな鴉達が、林の向こうから、続々と湧き出るようにこちらへ向かって飛んでくる。
気がつけば、アウルの周囲の木々は鴉で埋め尽くされてしまっていた。
多くの葉を茂らせている木々の上を巨大な鴉達が占拠し、その3つ目でアウルを見下ろす。薄暗い森の中、血走るように目を光らせ、アギャァ、アギャァ、と鴉とは思えぬ鳴き声をあげ始める。
――見ヅベダ、ミヅベダァ。
――ユルズナ、許ズナ゛ァ゛。
――オガジダモノヲ゛、ユルズナ゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ア゛……。
何重もの声がアウルの頭上を飛び交う。
鳴り止む気配のない化物達の合唱と自らに向けられる大量の殺意に、アウルは、あぁ、と心の中で声をこぼした。
(ここまでだ。もう逃げられない)
ごめんなさい、お母さん。私もう――……。
これから訪れるであろう絶望的な未来に、諦めの境地に達したアウルは静かに目を閉じた。
そんなアウルを貫かんとするように、大鴉の鋭い鉤爪のついた3本足が彼女に向かって放たれる。
――そのとき、だった。
「
聞き覚えのない声が、アウルの耳に飛び込んできたのは。
「え――?」
今のは何? 思わず閉じた目をアウルが開いた瞬間、ガキィイイイインッ‼ と激しい衝撃音がその場に鳴り響いた。
「きゃっ!」
あまりの音にアウルは耳を塞いだ。耳を覆い隠している己の短い白髪ごと、ぎゅっと手で覆いながら、反射的に音がした方へ顔を向ける。
そこに居たのは、1人の人間だった。背中を向けられている為、顔はわからない。だが見たところ、アウルと同じ年頃――、15、6歳ぐらいと思われる背丈の少年だ。
黒とも焦げ茶ともつかぬ色の短い髪と、纏っている茶色く薄汚れた布、そしてその片手に握られた、やけに錆びていて古びた雰囲気のある銅板が、次々とアウルの目の中に飛び込んでくる。
(だ、誰??)
アウルの頭の上に疑問符が浮かぶ。
だが少年の方はアウルの視線に気づいていないらしい。アウルには背を向けたまま、その顔を前方――、あの大鴉が居た方へ向けている。
ギャアアア、ギャアアアアアアッ、と鳴き声があがった。それにハッとしたアウルがそちらを見れば、地面の上で仰向けに倒れた状態で悶え暴れている化物の姿が目につく。周囲の鴉達も何事かとばかりに、ギャァアア、ギャァアア、と鳴き声を合唱させている。
(まさかさっきの音って……。あの化物の爪が弾かれた音?)
てことは、この人があの化物を弾き飛ばしたってこと? 再び、アウルは少年の方へ目を向ける。
しかしどう見ても、あの爪に対抗できそうな物は何も持っていない。
一体どうやって――……、再びアウルが疑問を持った瞬間、
「YeeeeeeeHaaaaaaaaaaaaw!!!! その頭、貰ったぁあああああああああああっ‼」
「へ⁉」
1人の少年が、大鴉の上に降ってきた。
――1振りの大剣と共に。
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