硝子の歌声

奔埜しおり

硝子の歌声

 今から十年ちょっと前。

 歌うことが好きだった私は、毎日のように誰かの歌をカバーしては動画を上げていた。

 誰かに評価されたいだとか、そういった願望がなかったわけではない。

 でもそれ以上に、歌を歌うこと、それを聴いてもらえることが嬉しくて、楽しかった。

 一度だけ、頑張って作った曲を投稿してみたことがある。

 あまり再生回数は伸びなかったけれども、それはそれで楽しかった。


 夢中で歌い続けていたある日、その人は現れた。


『湖に透ける、で湖透こすけです。妹がつけてくれました』


 紹介文に書かれた一行と、曲名などの情報。

 初投稿のその動画は、すぐにランキングで一位をとった。

 気になって再生して、私は衝撃を受けた。


 澄んだ湖を思わせるような、深くて透明な歌声。


 私の歌声も、透明感がある、とよく言ってもらえたし、自分でも思っていた。

 だけど私のそれは、例えるのなら硝子のような脆さを含んだ透明感で、こんなに安定したものではない。

 もしもこの歌声で歌えたらきっともっと楽しい。なにより歌の幅が広がる。


 それからは来る日も来る日も練習して、練習して、録音しては、全然違うと削除した。

 声が掠れて出しづらくなっても、必死で歌って、歌って、歌い続けて。


「……っ」


 歌おうとして、喉が塞がれるような感覚と共に声が出なくなった。

 話すことは出来た。でも、歌おうとするとストップがかかる。


 歌えない。


 その事実に絶望すると共に、安堵したことを覚えている。



 私はあれ以来、動画を上げていない。

 一人、動画を上げるたびにコメントをくれていた人がいた。

 その人に対して申し訳ない気持ちはあったけれども、歌えないのだから仕方がない。


 気がつけばもう三月最終日。

 私の家から少し歩いたところに、桜の木が一本だけ生えている小さな公園がある。

 ほとんど散ってしまっただろうけども、お散歩がてらそこに花見に行くことにした。


「……?」


 公園までの最後の角を曲がろうとしたときだった。

 風に乗って、柔らかな歌声が聴こえてくる。

 透明感のある歌声は、どこか記憶の中のそれと似ているようで違った響きがあった。

 上手い。だけど、どこかあどけなさのある拙い響き。どこまでも広がる、伸びやかな歌声。

 例えるのなら人類未踏の地でまだ誰も見たことのない宝物を見つけたときのような、そんな高揚感に胸が高鳴る。


 角を曲がった先にいたのは、桜の下で大きく腕を広げて歌う、二十歳前後の女性だった。


 なんて、楽しそうに歌うんだろう。


 ガツン、と頭を殴られたような衝撃と共に、胸の奥底から懐かしい衝動が湧き上がる。

 その衝動に、歌を手放したのに、まだそんなものが私の中に残っていたのだと驚いた。

 歌いたい、とそう思ったのだ。


「どうしました?」


 声をかけられてハッとする。

 彼女はいつの間にか歌うのをやめていた。


「いや、あの」

「あ! もしかして、ご近所の方ですか!? ご迷惑でしたよね、すみません! 桜が綺麗で、歌いたくなっちゃって、それで――」

「ち、ちが、違うの! 違います!」


 顔を青くした彼女に、私は慌てて両手を振って否定する。


「お花見をしたくて公園に来たんです。そしたら歌声が聞こえたから」


 すると彼女は、ほっと笑顔になった。


「そうなんですね」


 彼女は下唇を噛むと一度大きくうなずいてから、あの、と私を見上げた。

 覚悟を決めたような強い瞳に、面食らう。


「な、んですか?」

「私の歌、どうでしたか?」

「どうって?」

「私、歌を歌いたくて。でも、親や姉からはすごく反対されてて。それが嫌になって、一人暮らしを数日前に始めたんです」

「歌手になりたいってこと?」


 彼女はうーん、と斜め上を見上げるように首を傾けた。


「わからないです」

「でも、歌を歌いたいんですよね?」


 彼女は今度はにっこりと微笑んで、大きく縦にうなずいた。


「はい! 歌うことだけを考えたら、歌手以外にもいっぱい選択肢があるじゃないですか。だからまだ、どれを目指すのかって決められなくて。ただ、大好きな歌が歌えればなんだっていいんです。それでお金がもらえるのなら、更にいいなって」


 若いな、と思った。

 だけど、その若さが眩しくて、そして懐かしかった。


 歌を歌えるのなら、それを聞いてもらえるのなら。

 それがどれだけ嬉しくて楽しくて、幸せか。


「どこかに歌、上げてたりするんですか? 動画サイトとか」

「これから上げようと思ってて。この人の曲をカバーしたいんですけど、カラオケ音源がないからアカペラにするか、ほかの人の曲にしようかって悩んでて」


 彼女が見せてくれたスマホの画面を見て、私は固まった。

 なにか彼女が言っているけれど、自分の心臓の音がうるさくて耳に入ってこない。


「……私、この曲のオケ、持ってます」


 震える声で、なんとかそれだけ絞り出す。

 え、と彼女が私を見る気配を感じたけれど、私はスマホから視線を動かせない。


「お知り合いの方、とかですか?」


 言えない、それは私が歌った曲だなんて。

 だから、ええまあ、なんて濁してしまった。


「私、この人の歌声が本当に大好きなんです。すごく綺麗で繊細で……私にも、私の姉にも出せない歌声で」

「お姉さんも、歌ってるんですか?」

「湖透って名前で。仕事が忙しくて辞めちゃったんですけど」


 心臓を握られたような気がした。

 私が欲しい歌声を持っている人。

 辞めてしまったんだ。


 そうか、もう、十年も経ったんだ。


「よかったら、オケ音源、お渡ししましょうか?」



 帰宅後、そっと部屋の片隅にしまっていた機材を取り出す。

 どうしても捨てられなくて、大切に大切にしまっていた。

 パソコンを起動しつつ、機材をセットしていく。

 ヘッドホンから、懐かしい音が流れてくる。


 口を開いて、そっと息を吸う。

 十年ぶりの歌声が、私の鼓膜を震わせた。

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