第百九十七夜『究極の精神安定剤-peace on heart-』

2022/12/12「黒色」「車」「燃えるカエル」ジャンルは「サイコミステリー」


 樽編だらむ大学の森教授と言えば、その道の人で知らない人は居ない傑物けつぶつだ。恐らく彼と分野が交わる人は、何かしら彼の著作や論文に必ずや触れているだろう。

 森教授の研究分野は犯罪心理学で、彼はこの道の権威とまで言われており、彼の研究分野はミンメイパブリッシング社から出ている心理学や法学の教科書にもっている。即ち、間接的に森教授の世話になっていない学生は居ないと言っても過言では無い。

 森教授は現在、犯罪心理の無くなる薬と言う物触れ込みで共同研究者と共に研究を行っている。大層な表現を用いてはいるが、その実作っているのは鎮静剤だとか精神安定剤のたぐいだ。

 まず普通の鎮静剤や精神安定剤は、頭痛だの疲労だの注意力の低下だの眩暈めまいだの、ともすれば日常生活を健全に送るのも危うい副反応が有る。そもそも鎮静剤と精神安定剤は別種の薬であって、ごっちゃにしてはいけない物だ。それを何故ごっちゃに表現しているかと言うと、彼の考案した究極の精神安定剤はその垣根かきねを超越した画期的な薬剤なのである。

 例えば車をよく運転する人が居て、ハンドルを握ると人が変わる様な人だとしよう。しかしこの究極の精神安定剤があれば一安心、ハンドルを握っても狂暴な性質があらわになる事は無い。今日こんにちでは交通事故やき逃げやあおり運転が社会問題になっているが、これらを理論上一掃する事が出来るし、疲労や眠気や倦怠感けんたいかんも副反応として発生しないよう調整しているのだ。まさしく夢の薬と言えよう。

 そもそも人間の心とは、リバーシの石の様に白と黒の両面で出来ている。いや、白と黒の両極端りょうきょくたんで出来ていると言うべきか。冷静に犯罪を犯す者が居り、理性を失って犯罪犯す者がおり……人間の心とは局地的状態が好ましくない構造をしており、いわばグレーゾーンの柔軟性じゅうなんせいを常に心がけるべきなのだ。即ち、究極の精神安定剤とは心をグレーゾーン一色にする薬剤と言い換える事が出来よう。

 具体例を出すとしたら、無邪気な心で虫や動物をバラバラにしたり燃やしたりする様な行動も、怒りで何も考えられない状態で衝動的しょうどうてきに他人を刺す様な行為も、自意識を一色にりつぶしてしまう様な心理状態におちいらなくなるのだ。

 動物実験もクリアーしている。この薬剤を与えたマウスは健康状態になんら問題を起こしておらず、心拍数や挙動も正常そのもの、恐らくは人間に投与してもなんら問題は発生しないだろう。

 森教授はプロジェクトの発起人として、自ら薬剤を飲んだ。恐怖は無かった、それよりも彼は自分の研究への絶対的な自信に満ちあふれており、この究極の精神安定剤の実態を自分の身で体感してみたいと言う強い欲望が背を押していた。

「森先生、どうですか? 薬を飲んだご感想は? 何か気分が悪かったりはしませんか?」

 自ら薬剤を飲んだ森教授に、共同研究者が心配そうに尋ねた。これに対し、森教授はつまらなさそうに答えた。

「いやはや、実験は成功だよ……全くもって何も嬉しく感じない」

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