目隠しの鬼

まなみ つるこ

目隠しの鬼

リーンリーンと涼やかな音で恋の歌を奏でていた虫たちが、急に何かに怯えるように、一斉に羽根をたたんだ。

耳を澄ませば、サク、サクと何かの軽やかな足音がする。

弓のように痩せ細った頼りない月の光は、森の木々に遮られ、辺りは漆黒に包まれている。

それなのに、その足音には迷いがなく、一定の間隔で真っ直ぐに、こちらに向かってくる。

―――追手だ。

少年は息を殺して、夜露の宿り始めた草の中に、身を伏せる。

足音は一つ。

何故そんなに真っ直ぐ、こちらに向かってこれるのかは、わからない。

ゆっくりとだが、確実に向かってくる足音に、少年は唾を飲む。

その音でさえ、周りに響くのではないかと思うほど、森は静寂に包まれている。

虫だけではない。

いつの間にか動物たちの気配までなくなり、木々すら息をひそめているようだ。


呼吸の音すら聞き取られそうな静寂。

サク、サクという音だけが、鼓膜を揺らす。

―――気付かないで………!!

少年は震えながら草の中で口を塞ぐ。

「……ん?ここかえ?」

しかし願い虚しく、少年の真横で足音が止まる。


少年は目だけ動かして、足音の方を見る。

そこには暗闇でも燐光を発しているかのような、真っ白な足が立っていた。

その足は地面よりも、かなり高い位置にある。

「………………っっ」

叫びそうになって少年は、自分の口を強く押さえる。

白い足が履いているのは、一本しか歯のない、高下駄。

―――天狗だ

こんな漆黒の森で、そんな物を履いているのは、それ以外あり得ない。

口を押さえた手も、手の下の歯も、恐怖で小さく痙攣するように震えている。


涙で歪む視界の中で、ゆっくりと高下駄が少年に向きなおる。

「これ、そこな坊、夜分にこの山に入ってはならんと聞いておらんのかえ?」

上から降ってきたのは野太い男の声ではなく、この森の空気のように、冴え冴えとした女の声だ。

驚いて見上げると、それほど大きくない人影。

「…………っっっ〜〜〜〜」

そしてその左右にある、フラフラと漂う青白い光の塊。

人魂だ。

もう存在はバレているというのに、恐怖で凍りついた手が、少年の口から出る悲鳴を封じた。


「……ふむ?どうしたのかのぅ。口がきけんのかの?難儀じゃのぅ」

恐怖で動けない少年を前に、人影は何やら首を傾げている。

「困ったのぅ。口がきけんという事は耳も聞こえんのかのぅ。生憎、筆の1つも持って出てきておらん。どうやって意思疎通するかのぅ」

呑気に人影は呟いている。

「……御方様。どの道、この闇では文字は読めませぬぞ」

「おや、そうじゃのう。では、アレかの。『ぼでぃーらんけーじ』じゃ」

唐突に人影は何やら奇妙な動きを開始する。

サッと両手で山を表すように三角を作り、次いで、手を交差させ見せる。

「また、そのような西洋かぶれな事を……」

人魂が嘆くように揺れる。

「仕方なかろう。夜は危ないのじゃ。早う里に返してやらんと。ほれ、体が冷えて震えておるではないか」

震える少年から見れば、なんとも呑気な会話だ。


少し落ち着いた少年は頭を上げる。

「ケケケケケケケ」

すると耳の横からけたたましい笑い声が響く。

「御方様、コイツ、臭う、臭うぞ。この粘っこい臭い!!血と、憎しみと、呪いの匂いだ!!」

「ひっ!!」

いつの間にか、人魂のうちの一つが、顔の横に来ていたのだ。

横に来て初めて、それが小さな狩衣かりぎぬを着た犬である事に少年は気がついた。

二つ足で立ち、狩衣の後ろから、大きな火の尾が出て、先で二股に別れている。

顔を見れば人間のように白目があって、嘲笑う顔まで人間のように歪んでいる。

「ケケケケケケケ!!!コイツ、耳も聞こえているぞ。俺の声に反応した!!」

そして少年の耳を、毛むくじゃらの、形だけは人間と同じ手で、容赦なく引っ張る。

「ひっ……いたっ………!!」

耳より小さな手なのに、力強くて耳が千切られそうだ。


その耳を引っ張る犬に、白い手が伸び、くるりと巻き込む。

「これ、右太郎。坊が痛がっておるじゃろう。おやめ」

その時、犬の光る尾に照らされて、初めて相対している相手の顔が見えた。

相手は頭から薄い紗の被衣かつぎを被っているが、犬の光がその中を照らす。


闇夜を切り取ったかのような、艶めく黒絹の髪。

その髪に縁取られる、淡く輝くように見える白い肌。

唇は犬の光を弾き、赤い水を湛えているかのように、輝いている。

そしてその双眸には真っ黒な布が巻かれている。

この暗闇で布を被り、目隠しをしている姿は異様だ。

しかも隠された双眸以外の部分が、整いすぎている。

―――ものだ。間違いない。物の怪だ。

少年は魅入られるように、物の怪を見ながらも、震える。


目隠しをした物の怪は、ゆっくりと少年の前にしゃがむ。

「やれ、すまんの。怪我はないかえ?」

幾重にも重ねられた衣の中から、真っ白な手が少年に向かって伸びてくる。

―――食べられる

そう思った瞬間、少年はその手に噛み付いた。

否、噛み付く寸前に手が衣の中に引き込まれたので、衣に噛み付いた。


「「御方様!!」」

火の玉たちが叫ぶ。

「おやおや……どうした事かの。坊や、わらわは食べ物ではないぞ。噛みついてはならん」

色めき立つ火の玉たちに比べ、その『御方様』は、やはりのんびりとそう言って、優しく少年の頭を撫でる。

その手は物の怪の物だとは思えない程、温かく、柔らかい。

少年の口の力が緩んだところで、『御方様』は満足気に頷いて、衣を引き抜く。

その肩に乗った火の玉が揺れる。

「御方様!この無礼者の処理、私にお任せくださいませ!!」

こちらは猫の怪だ。

犬と同じく狩衣を着ていて、その後ろから二本の細長く、先端に青い火の灯った尻尾を生えている。

瞳孔を細くして、猫が威嚇する時の顔をしている。

「待て、待て。この坊は腹が減っているのじゃ。そう怒らずに、少し食べ物を分けてやっても良かろう」

すぐにでも飛びかかりそうな猫の怪を押さえて、やはりのんびりと彼女は言う。


「何か持っておったかの……」

憎々しげに少年を睨む二つの火の玉など、気にせぬ様子で、胸に下げた小袋を彼女はゴソゴソと探る。

「おや、良い物を入れておった。これはこの前、左太郎が買ってきてくれた金平糖じゃ。ほれ、坊や。これは甘〜いぞ。お食べ」

誰が物の怪の食べ物など。

そう思った少年だったが、猫と犬がさっさと食えとばかりに、牙を剥き出しにしている。

「………あ……ありがと……」

渋々受け取り、威嚇する二匹に押されるように口の中に入れる。

「………甘い………」

すると口の中にこれまで感じた事のない甘味が広がる。

思わず目を輝かせた少年に、女の物の怪は嬉しそうに、唇を綻ばせる。

「甘かろう。甘かろう。左太郎の買ってきてくれる物はいつも甘くて美味しいのじゃ。ほれ、もっとお食べ」

そして何個も手の平に星型のお菓子を乗せる。


猫は自分の買ったお菓子を褒められて、嬉しそうに目を細めてヒゲを上げるが、犬は歯を剥き出したままだ。

「御方様、このチビに馴れ合っちゃいけませんぜ。コイツの体にはびっしり呪いの臭いが染み付いてやがる!!臭うぞ……死の怒り、憎しみ、恐怖……コイツは巫蠱ふこの民だ!!」

少年はビクリと肩を震わせる。

犬からは憎しみに近い激しい敵意を感じる。

そして少年は自分の素性が既に知れていることに、恐れが倍増する。


犬は正に噛み付かんと、ヨダレを出して牙を出している。

「右太郎、気持ちはわかるが、この坊は幼い。巫蠱の一族であっても、巫蠱には加担しておらんじゃろ」

しかし女の怪は、のんびりとした調子でそう言って、犬を両手で優しく包む。

そして犬の耳のあたりをこちょこちょと撫でてやると、犬は蕩けそうな顔になる。

火の尾が激しく揺れている。

「この辺りで巫蠱と言えば生津いきつの一族かの?しかし妙な……あの一族は巫蠱を捨て真っ当に生きてくれると約束してくれた筈。三代前に廃業してもう今は秘術を継ぐ者がおらんはずだがのぅ……?」

犬を撫でながら、女は独り言をこぼす。


甘い金平糖を沢山もらった少年は、何となく事情を話さねばならないような気分になる。

「あの……確かにじい様の代で術は捨てたらしいんだけど……去年は酷い雨で。作物が全部ダメになって……食うに困って、とう様やおじ様たちが……」

「フン、人間は腹が減れば、自らが禁じた物もあっさり破る。御方様が心を砕いて説得しても、見ろ!コレが結果だ!」

女に撫でられて尻尾を振っていた犬が、薄っすらと目を開けて吐き捨てる。

「……あれは使えば使うほど富を呼び寄せるが、同時に業を呼び込む。あの子らには……健やかに生きて欲しかったのじゃが……復活させてしもうたか……」

物の怪とは思えぬ、哀しみを声に宿らせて、女は呟く。


「かあ様も寝込んで、弟たちも動けなくて……お金がどうしても必要だったんだ……」

胸が痛くなるようなあやかしの嘆きに、少年は言い訳のように付け加える。

無駄に富を求めたわけではない。

飢饉に覆いかぶさるように、村では病気が流行り、他に方法がなかったのだ。

食料に薬が無ければ、冬を越す事も出来なかったはずだ。

「フン。で、目先の富に飛びついて結局全て失ったと言う事だろう?臭ぇ……酷い呪いを含んだ血の匂いだ。……女子供関係なく嬲り殺しだな」

気持ち良さげに撫でられていた犬が口を開けて嘲笑う。

「愚かな。大方呪いだけ復活させたのだろう。呪いと祓いは二つで一つ。祓いなき呪いはただの自滅にしかならん」

猫の怪も冷たい声で切り捨てる。

「違う!!!ちゃんとやってた!!村では祓えは毎年やってたし………依頼主にも祓えに来させてた。……でも………今年の祓えに……」

少年の脳裏には凄惨な光景が浮かび上がる。


毎年春の終わりと同時に行われる『祓え』のお祭り。

祭りと言っても派手なものは何もない。

決められた供物を捧げて、清水を振りまくだけだ。

村では毎年の恒例行事だが、巫蠱を使った依頼主も七年は参加するのが習わしだと、少年の父は言っていた。

しかし祭りの準備をしていた小さな村に、呪いの依頼主は来なかった。

依頼主の代わりに祭りに来たのは、金で雇われたと思われる下卑た男達だった。

何故、と、叫ぶ父。

娯楽の全くない村での唯一の祭りを楽しみにしていた弟の体から噴き出した血飛沫。

子供達の手を引いて逃げようとして、男達に引きずり倒された母。

気が狂ったように「逃げろ」と繰り返す村の男達。

「一人も逃すな!!皆殺しにしろ!!」

無慈悲な怒号に追い立てられるように、少年は夢中で走った。


そして振り返った時に見てしまった凄惨な光景を思い出して、少年は口を押さえる。

胃が痙攣して何かを吐き出そうとするが、胃の中には固形物がなく、喉に焼くような痛みを与える胃液だけが撒き散らされる。

「とんだ阿呆じゃな。蟲達が戻ってくる事も知らんで、『祓え』を金の無心とでも思ったか。庇護を自分から捨てるとは……」

嘆きのように呟いて、物の怪は吐き続ける少年を自らがかづいていた布で包む。

「………っ!!!」

少年は悲鳴になり損なった声を上げる。

少年を抱きしめた物の怪の、赤い唇が微笑む。

「安心おし。坊やは妾が守ってやろう。蟲師への恨みは深いが、そなたは呪法に直に関わっておらんようじゃ。妾の付け焼き刃の祓いでも何とかなろう」

何故か目隠し布の下の目が優しく笑みをたたえている気がして、強張った少年の体から力が抜ける。

女の声は穏やかに澄んでいて、夏の涼風のように凄惨な記憶を運び去る。


「御方様!!!私は反対いたしますぞ!!このように呪いに塗れた人間を庵に引き入れるなど!!」

「そうだ!!呪いを作った奴等なんか死んで当然だ!!地獄に引きずり込まれて業火で焼かれ続ければいい!!」

彼女の左右の火の玉が一斉に反対を口にする。

「何とまぁ……情のない事をお言いでない。このように小さな坊を捨て置けるわけがなかろう?彼等のやった事はならん事じゃ。しかし今世の無残な死で十分償われておるはずであろ?……坊や、怯えんで良いぞ。そなたの家族は妾が弔ってやるからの」

火の玉から守られるように、少年は抱きしめられる。

物の怪なのに、その腕は柔らかくて暖かくて、急に涙が目の奥から湧いて、溢れ出す。

「おや……泣き出してしもうたぞ。これ、泣いてはならん。そんな状態で泣いたら干からびてしまうではないかえ」

驚いた物の怪は、慰めるつもりなのか、ブンブンと左右に少年を揺らし、パンパンと勢い良く少年の背中を叩く。


「ほら、左と右が意地の悪い事を言うから泣いてしもうたぞ!あやせ、皆であやすのじゃ!」

「あやすったって……」

「御方様、見たところ、ソレは小さいですが、あやすような年ではないかと……」

「小さいではないか!ほら、坊や、金平糖をもっとやろう。甘〜いぞ」

少年は口に次々と金平糖が詰め込まれて、目を白黒させる。

「物で釣るのが一番良くねぇよな」

「子供をダメにする育て方の見本のようですぞ、御方様」

「ええい!!妾の努力をくさすなら、お主らが何か良い方法を出すのじゃ!!」

二匹に否定されて女は膨れる。

「チビ、泣き止まんと頭を半分に齧ってやるぞ」

「それは脅しではないか!!」

「乾涸びるまで待ちましょう。死ねば泣き止みましょう」

「乾涸びさせたくないから泣き止ませたいのじゃ!!」

ここの物の怪達は兎に角騒がしい。


ふと気がつけば、そんな彼等を包むように、虫たちが涼やかな音を奏で始めている。

「……ほら、御方様。虫たちがそろそろ引き取れと言っておりますよ。探し物の為に随分長く待ってもらって、彼等の恋路を邪魔しました。そろそろ戻りましょう」

「しかし坊が……」

「水が出て困るなら、家に帰って水に浸けとけよ」

「頭から水に突っ込めば強制的に飲みます。帰りましょう」

犬と猫がそういうと、少年を抱えた女の怪は、嬉しそうに笑う。

「ほほほ、右太郎うたろう左太郎さたろうも、坊を連れて帰るのに賛成してくれるのじゃな。感謝するぞ」

そしてポンポンと胸に抱いた少年を叩く。

「坊や、妾が守ってやるからの。美味いものもたんと食わせてやろう。甘いお菓子もあるからの。……もう、お泣きでないぞ」

物の怪なのに、その声は優しさに満ちているのがわかって、少年の目から止めどなく涙が流れ落ちる。


虫が恋歌を奏で、木々が気持ちよさそうに夜風に葉を揺らしている。

その中をサク、サクと足音を立てて女は歩く。

目隠しをしているにも関わらず、山の起伏の激しい道でも、淀みなく歩けるのが不思議である。

「御方様、その小僧、名はどう致します?」

主人の肩に乗った猫が問う。

「はっ、どうするも何も、人間ならもう名前はあるだろうがよ」

少し後ろを漂ってついてくる犬が、面白くなさそうに吐き捨てる。

「そうじゃな、坊や、名前は何じゃ?」

聞かれて少年は止まってしまう。

あやかしたぐいに名前を明かしてはいけない。

名前を知られれば容易に取り憑かれてしまう。

そう、聞いたことがある。

「ふむ。ふむ。そうじゃな、妖に名を与えないのは賢い事じゃぞ。しかし呼び名がないと不便じゃの……」

言い淀む少年を責めもせずに、妖は考え込む。

「うむ!中太郎ちゅうたろうじゃ!左と右はもうおるでの。そなたは中太郎じゃ。しばしの間仲良くしようではないか、のう、中太郎!」

そして名案とばかりに何度も頷き、楽しそうに笑った。

「あ〜あ、馬鹿だろ、お前。ちゅーって……鼠じゃねぇかよ…」

「……御方様の名前のつけ方は独特なのだ。迂闊に名前を隠した罰と思って甘んじて受け入れろ」

自分たちの名前に納得していないらしい、右太郎と左太郎は深々とため息を零した。

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