とざきとおる短編集
とざきとおる
狭間の喫茶店
第1話 お嬢様との別れ
目の前にいる少女の髪をとかしながら、鏡に映るその顔を見た。
「……もうすぐ婚約だというのに、暗い顔をなされていますね」
「だって、相手がどんな人かもわからないのに婚約だなんて。お父様は勝手すぎます。せめて一度くらい会わせてくださってもいいのに」
「それはご容赦くださいませお嬢様。古くからのしきたりでございます。あなたの姉上様もそのようにして婿を迎えられたのです。お嬢様ももう年は十五なのです。お覚悟をお決めください」
「嫌。そんなの嫌だもん」
鏡に映った、まだ幼さの残る顔には、涙が浮かんでいた。
この顔は、あまりいい顔ではない。見るたびに自分まで悲しい気持ちになってしまう。
「リュシエル、本当に辞めちゃうの?」
「……」
「私、嫌だよ。ずっと一緒にいたいよ」
返す言葉は思いつかなかった。ここで、何といえば良いのか分からなかった。
「何で……よ」
目の前で泣き崩れた彼女を見ることほど、自分にとってこの世の地獄はあろうか。比喩表現などではなく、本当に息苦しくなってきた。このままでは死んでしまいそうな気がしてならない。
しかし、このまま彼女に同情してしまうわけにはいかなかった。
「お嬢様は……もうこの領の人間ではなくなります。私はこの家に仕える身。故にお嬢様が嫁ぐと、わたくしはお嬢様に仕える権利がなくなります。……ご安心くださいませ。アルバート家には優秀な執事がおり、その方がお嬢様のお世話をさせていただくという話になっております。今までどおりとはいかないかもしれませんが。少なくとも不自由ない生活が、あちらでも送れるかと」
自分を繕うのも大変だ。特に、相手を思うがために非情になるというのは、決して報われることのない、自分にとっては何の意味のないことだ。
本当は言いたい。私だって離れたくない。ずっとそばに居たい。何故なら、私はあなたのことが……。
しかし、その思いを言うことは許されない。執事として一番に考えるべきは、この家の未来のことなのだ。
「お許しください」
彼女に向けることができるのは、その一言だけだった。
髪留めをつけ終わり、支度が整う。アルバート領は、ここから少し遠く、婚約の儀を行うためには、今日の昼には、出発しなければならない。
ノックの音が聞こえ、部屋のドアが開いた。
「ミリア、準備はできたか」
入ってきたのは、領主のルフナンド二十世だった。
「うっ……うう」
彼女の涙はまだ止まっていないようで、答えられる様子にない。代わりに私が答えることにした。
「ご支度は終わりました。いつでも出発できます。
「ご苦労さん、リュシエル。……しかし、この様子ではまだ出発できないな。せっかく、街の者が祝いに家の前に来てくれているというのに。泣き顔を晒すわけにはいかん」
確かに、先ほどから、外が騒がしいように聞こえた。出発の日は街の掲示板に貼って、広く伝わっていたと思うが、特にイベントを用意していた訳ではない。しかし、それでも多くの人が集まるのは、この領主の人気のおかげなのだろう。
「……少し待つか。その間にちょうどいい。リュシエル。少しこちらへ」
呼ばれたので、一度部屋の外へ向かう。
「お嬢様、一度外させていただきます」
彼女に背を向け、部屋の外にでて、一度部屋のドアを閉める。彼女のなく声は、ドアを閉めてもまだ聞こえていた。
「リュシエル君」
「はい、どのようなお話でで?」
このようには言ったが、大体予想はつく。
「今日まで、よく頑張ってくれた。……父の後を継ぐ君は、何とも良い働きをしてくれたよ」
「いえ、父にもよく言われていました。我が家系の一人として、ルフナンド家の繁栄のために尽くすのだ、と」
「いやあ、まだ若いのに、君の父に引けを取らない働きぶりで、ワガママ娘のミリアも、何とか最低限の品位を持った淑女に育った。おかげで今日を迎えられたのだ。本当に感謝している」
「はい、大変……喜ばしい限りで」
ルフナンド二十世は急に驚いたような顔をした。
「どうした、良くない顔をしているが……」
その言葉で自らの失態に気付き、すぐさま唇の端を釣り上げた。
「いえ、お嬢様が心配で。向こうでもきちんとできるか……」
「そうか」
何とか、ごまかすことができたのはよかったが、もう少しいい言い訳ができなかったかと、つい思ってしまう。
「さて、前も言った通り、君は今日から自由だ。今までの家系の伝統を気にすることなく、自由に生きてほしいと思っている。大事な子供時代を君から奪ってしまったせめてもの償いとして、君には多くの謝礼を支払う。一生食べるに困らないほどはあるだろう」
「あの、私は……そんな」
「まあ、そう言うな。私としても、ずっと君を自由にしてあげたいと思っていたのだ。妻に先立たれ、娘も二人結婚した。執事ももうほとんど必要なくなるだろう。ちょうどいい機会だったんだよ」
違う、自由なんて望んでいない。
そう反論しようとした。しかし、その言葉を口にすることはできなかった。職業病だ。主人に対して反論できないような体になってしまっているのだ。
それでも、この思いだけは伝えたい。口を動かそうと必死になった。
「私は……」
そこまでしか出なかった。
「ミリアに最後にお別れを言ってあげてくれ」
そう言って、領主は私に背を向ける。
その背中を向けながら、この時、初めて領主に不満を覚えた。
しかし執事である自分は、黙ってその背中を見続けるしかない。
「リュシエル、いる……?」
ドアの向こう側から、彼女の声が聞こえた。
「は……はい、ただいま」
その言葉とともに、ドアを開けると、目の前に彼女がいた。
「……聴かれていたのですか?」
「うん」
彼女はまた泣きそうな顔になりながら、抱き着いてきた。
「はう!」
不覚にも、彼女のこの行為を受けて、ドキドキしてしまう。
「お、嬢様。髪が、乱れてしまいます……」
「リュシエル、行かないで」
はう。
もうすぐお別れなのだ。もう会えなくなるという悲しい状況だと言うのに、その言葉は、飛び上がりそうなほどうれしい。
だがここで、ここまで突き通した執事としての意地を捨てることはできない。
「そうはいきません。もう決まったことですから」
「……」
彼女は私のことを離してくれそうにない。できるならこのままでいたいが、そういうわけにもいかない。
「……今まで、ありがとうございました」
「やっぱり、居なくなっちゃうんだ」
その声は、いつものような活力を併せ持っていなかった。
彼女は賭けていた圧力を解き、体を離した。そして、私を見る。決して明るい表情とは言えないその顔を見て、自分が罪深い事をしてしまったかのような感覚に襲われる。
「申し訳……ありません」
深々と彼女に向けて頭を下げた。
「いいの」
彼女の声を聴き頭をあげると、彼女は笑っていた。
「もう、ワガママ言わないから……」
「お嬢様、あの」
「ねえ」
言葉を続けようとしたが、彼女の声でとめられる。
「私のこと、好き……?」
急な問いかけだったけれど、その答えはもう決まっている。
「はい、もちろん。大好きです!」
きっとこの言葉の本当の意味も、彼女には届いていないのだろう。
「ありがとう。リュシエル」
この時、彼女は大きな笑顔を見せてくれた。彼女を見たのは、これが最後になったが、それだけでもよかったのかもしれない。
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