519.踏み台と甘えた鳴き声〜ミハイルside
「見よ」
王女の頭上から、疲労困憊な様子のピヴィエラが黒蛇を尻尾で指す。
かなり弱っているようだ。
「……赤黒い……靄?」
王女が訝しげに呟く。
俺の瞳にも王女の障壁を締め上げている黒蛇の長い体躯から、赤黒い靄が漂っているのが視えた。
「ワフ」
(ミハイル、何か視えるか?)
こちらを覗き見るレジルス。
ラルフも小首を傾げているから、恐らく
「困った夫よ。
いつの間にか悪魔の力を植えこまれたらしい。
それ故に感情のコントロールもできず、怒りと憎しみに支配されて魂を堕としかけておる。
悪魔め。
妾が夫に聖獣の素養を見出し、育てておったのに気づいたか。
妾の産卵に合わせてアッシェの小倅や王太子をけしかけ、妾と夫の隙を突いてきたのであろう」
「……悪魔って本当に存在していたんだ?」
「ああ、ベルジャンヌは悪魔の片鱗を見たのは初めてであったな。
悪魔は魔法呪を食らう事で顕現化する。
いつの頃からか存在し、顕現する機会を虎視眈々と狙っておるのだ。
今、夫からは異なる力を感じる。
聖獣になる事ができる程の魔力と、妾や子への愛に目覚めて聖獣になれる程の器となった。
その魂が、そして肉体が堕ちれば悪魔にとっては格好の
ふと、在りし日の鎧鼠が思い出される。
夏に学園の男子寮の屋上で魔法呪になりかけていた。
この場にあの日、妹が持参していたハリセンも札もない。
過去に飛ばされる前、レジルスが明らかに端を切り取っていたハリセンを持っていたが、犬の手には握られていなかった。
もしこれが本当に過去にあった事なら、この後に黒蛇は聖獣ラグォンドルへと昇華するはずだ。
そして聖獣ピヴィエラは……。
「ベルジャンヌ。
まずはキャスケットと共に夫を浄化しておくれ。
聖獣の力を使えば、悪魔の異なる力を打ち消せ……クッ」
突然、王女の頭上でピヴィエラが呻いた。
「ピヴィエラ?!
アッシェの爺め、罰を発動させたな!
え、じゃなくてベル?!」
キャスケットが途中から戸惑う。
ピヴィエラが痛みからか身を固くしたばかりか、王女の髪を鷲掴みにした。
かと思うと、王女が頭から血を流し始めたせいだ。
「ワン!」
(公女?!)
思わずだろう。
レジルスが王女の方へ一歩踏み出して吠える。
公女と王女を呼び間違えたのか?
もちろん公女である俺の妹と王女は別人だ。
「ん、私じゃないよ。
コレ、ピヴィエラの血。
でも髪がブチブチ切れてるから、ピヴィエラは手を離して?
育毛剤の開発しなきゃいけなくなる。
この年で禿げ散らかすのは、ちょっと嫌」
王女は痛みよりも禿げるのを忌避する。
気持ちはわかるが髪を引き千切られている割りに、随分と静かに伝えているな。
年齢の割りに落ち着き過ぎだ。
もしかして暴力に慣れているが故か?
先程、王女に石を投げつけた王太子が、母親に言いつけて仕置きがどうと言いかけていた。
王太子の母親は……スリアーダ……。
それにしても端から見ると、王女が頭からダラダラ出血しているかのようだ。
落ち着き具合とのギャップが、妙にシュール。
「わ、わかって……ベルジャンヌ、良い。
妾の治癒に魔力を使うな。
ただでさえ魔力を減らしておろう」
自分の髪から手を離したピヴィエラを、王女は頭から腕へと抱えて治癒魔法で癒やす。
腹に手を触れているから、出血の出所は腹だろう。
キャスケットの言葉からも、ピヴィエラを傷つけたのは契約主であるアッシェ公爵だと容易に想像がついた。
生まれたばかりの王女を助けた時のように、アッシェ公爵が罰を与えたに違いない。
「ラグォンドルの浄化は私とキャスケットがする。
昇華も……するから」
王女の藍色の瞳が僅かに揺れたように見えた。
王女の表情が変わらなくとも、悲哀を含んでいるとわかる。
「ピヴィエラは、その時がくるまで……」
「ワン!」
(俺が守ろう)
うぉい、レジルス!
お前はいつの間に障壁の中に転移していた?!
犬だが魔法は使えたのか?!
「……犬?」
「ニャオン!」
(だとしたら俺も王女の助けになれるはず!)
「……猫?」
王女がレジルスを見てから、俺の声にも反応……痛ぁ!
「キュイ!」
(俺も手伝う!)
「……んー、小さい……兎?」
ラールーフー!
いくら小さい兎だからって、俺の背中を踏み台に後頭部を蹴り上げてからの、ジャンプで存在感をアピールするな!
随分と甘えた鳴き声出しやがって!
ラルフに怒りを覚えつつ、俺は手始めに小首を傾げた顔面血みどろの王女に清浄魔法をかけてみた。
どうやら俺は魔法を使う事はできないらしい。
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