リンゴ一つ分の痛みの代償は

 思った以上に、自分は空腹だったらしい。

 アリスはカリカリに表面が焼かれた分厚いベーコンをペロリと平らげ、トロリとした半熟のスクランブルエッグを黙々とかき込む。それをメイド長がまんまるとした眼を更にまん丸にして見つめているのが目に入り、慌てて佇まいを正した。


「あ、ごめんなさい……かなりお腹が空いていたみたいで」


 へへ、とごまかすように笑いながら、皿の上のミンスパイを手に取り齧り付いた。

 サクリとした生地の中に、ナッツやベリーの風味がなんとも言えない。いくらでも食べられそうだ。


「これはうま……じゃない美味しい。レシピを教えてもらえます?」

「あら! お嬢様がそんな事を言うなんて初めてだわ! これはね、私の祖母の代からのレシピでピーカンナッツとブラックベリーを……」


 止まらない糸車のように喋り始めたメイド長に、アリスは内心胸を撫で下ろした。


 それからは、細心の注意を払いながら一週間を過ごした。

 殆どを自室で過ごしたが、家人の目を盗み屋敷内を探検する事ができた。満月の夜ならランタンや燭台が無くても何とか歩ける。


 あまり家族や使用人たちを不審がらせる行動は慎むべきだとこの数日感じていた。あまり粗野な物言いをすればあの嫋やかで優しげな母親は卒倒してしまうかもしれないし、最悪の場合は精神病院に入れられてしまうかも知れない。身体を借りている身ではあるが、この未来ある美しい少女の将来を潰したくは無かった。


 それはそうと。

 思いがけない災難で、アリス・ガーフィールドとなったアーサーにはどうしても耐えられない事が一つあった。


「マーサさ、マーサ! お願い、そいつ、いやそれだけは勘弁してくれ!」


 悲鳴混じりの嘆願が爽やかな朝の屋敷に響いた。


「お嬢様!何ですかそのダウンタウンのバーの酔っ払いみたいな物言いは! だめですよ。お出掛けになるならきちんとした装いじゃなきゃ」


 マーサがアリスが着けたコルセットの紐をぎゅう、と引っ張った。

ウエストが物凄い力で締め付けられ、息が詰まった。

 食った朝飯が全部出てしまいそうな馬鹿力だ。良家の子女たちは毎朝こんな拷問を受けているのかとぎりぎりと歯を食い縛りながら耐えていた。


「痛い痛いいたたたた!」

「奥様はウエストをリンゴ一つ分まで絞られましたよ! ほら!我慢してください!」

「冗談だろ!? 人間はそんな風に出来てないんだ! いたたたたた! 痛い痛い!」

「まあお嬢様! 伏せっている時に何か悪い妖精にでも誑かされたんですね! 」


 マーサは顔を赤くしながらまたぎゅう、と紐を引っ張った。


「せめて、せめてリンゴ三個分にしてくれ!」


 あまりの苦しさと痛みに、アーサーは良家の子女として取り繕う気すら無くなっていて。


 その声を、ドアの外で険しい表情で聞いている者がいる事など知る由もなかった。

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