令嬢アリス・ガーフィールドの華麗で奇妙な事件簿

片栗粉

悪夢の目覚めは美しいものとは限らない

 バケツをひっくり返したような雨の中に、雷鳴が響いていた。

 一年の殆どが鉛色の雲か雨というロンドンでも、この日は一際に酷い天気であった。

 稲妻が去り、いくつもの警笛が真夜中の嵐の中微かに聞こえた。

 掛かったのだ。

 大きな獲物が。

 その笛の音を頼りに、叩きつけるような雨の中をひた走る。

 警笛を鳴らしていた巡査の姿が見えた。手にしていたランタンを掲げて名乗る。


『見つけました! 埠頭へ向かっているようです!』


 後から来る人員を埠頭へ向かうように指示し、走り出す。

 年経た巨大な狼を追う猟師の如く、長い時間をかけて準備をしていた。

 周到に、用心深く。決して気づかれぬように。

 自分を含めて、今日まで皆が追って来た【獲物】は用心深く狡猾で、人を殺し、凌辱し、切り刻む、人食い狼なのだから。

 三ヶ月前、サウスエッジ通りのクリーニング店で使用人を含めた一家七人が惨殺された。

 そして、その場を巡回していた警官が一人。

 数日後に結婚を控えていた、若い巡査だった。


 銃を抜き、埠頭へ踏み入る。

 真夜中の埠頭はランタンの光でさえ飲み込むかのような闇に包まれていた。

 足を進めると、靴の裏に何かを踏んだ感触があった。

 屈んで、それを確かめようとした。

 大きな破裂音と共に激痛が背中から胸へ貫いた。

 息が出来ない。

 酷く眼が霞む。

 地に落ちたランタンの光の中、黒い長靴が見えて、そこで意識は途切れた。



 ロンドン警視庁殺人課のアーサー・バートレット警部補が酷い悪夢から目覚めると、ホワイトチャペルにある自宅の安っぽくて古いアパートメントの天井が一変していた。

 あの嵐の日から、記憶が曖昧だ。


(俺のいないうちに改装したのか? なら家賃も上がるだろうな。あの強欲ババアの事だ)


 溜息をついて、身体を起こそうとした時、異変に気付いた。

 もしも目覚めるとしたら、病院の筈だ。そして、此処は自宅のオンボロアパートでもない。

 横たわったまま、周りを見る。

 白を基調とした内装、繊細で優美な曲線を描く椅子やテーブル。金細工が施されたチェスト。花瓶にはピンク色のバラやカスミソウが品良く飾られていた。


 がばり、と身体を起こした。

 両手を見つめる。若いころからボクシングで鍛えられた筈の拳や節くれだった指はチェリーの若枝のようにか細く、見た事も無い上等のシルクで飾られた袖からは真っ白なミルク色の腕が見えている。

 自宅の硬いベッドとは天と地ほどの差がある上等なそれから降りようとして、がくんと足を取られた。


「痛ぇ!!」


 足をすっぽり覆い隠すレースの寝巻の裾が纏わりついている。

 いや、その前にだ。

 へたり込んだまま、信じられない思いで自分の口元と喉に手をやる。

 酒と煙草で掠れた声がセクシーだと酒場の女達に喜ばれていた自慢の声が、駒鳥のように愛らしいものに変わっていた。

 すぐ傍に姿見が目に入った。

 金髪に、青い瞳。それだけなら同じだ。

 だが、ライオンと猫ほど違うのだ。背中までを覆うウェーブがかった長い金髪、バラ色の柔らかな頬と唇、長い睫毛で彩られた瞳。

 華奢な白い肩や首はさぞや男達の庇護欲を誘うであろう。

 年の頃は、十六、七だろうか。

 美しいとしか表現できない少女がそこにいた。


 姿見を見つめたまま茫然としている少女の背後で、がちゃりと扉が開く音が部屋に響いた。

 大柄でふくよかな中年のメイドが、まん丸な眼をさらに大きくして、叫んでいた。


「大変、大変! 旦那様、奥様! アリスお嬢様がお目覚めになりましたよ! 誰か!」


 どたどたと言う足音をどこか遠くに聞きながら、アーサーは再び意識を失った。


――――――

『テメェ! 待ちやがれ!』


 怒声が裏路地に響く。転がっていたバケツが蹴り飛ばされ、生ごみを漁っていた猫が悲鳴を上げる。

 前を走るやせっぽちの小男が振り返り、恐怖に眼を見開いた。

 無理もない。6フィート超えの筋肉質の男が怒りに歯をむき出して、猛然と追いかけてくるのだから。

 傍から見れば、ギャングの用心棒が哀れな男に借金を取り立てている光景にしか見えないが、追いかけている方はれっきとしたスコットランドヤードの捜査官、アーサー・バートレットである。

 意外にもすばしこい小男は器用に路地の隅に置かれた樽に飛び乗り、板切れで出来た塀をひょいと飛び越えた。

 だが、アーサーはそのままのスピードで身を低くし、板塀をぶち破った。

 激しい音に驚いた男が足をもつれさせ転倒する。

 分厚く節くれだった手が男の襟首をむんずと掴んだ。


『昨晩だ。昨晩、お前があのバーにいたのは判ってるんだ』


 顔を近づけ、飢えた野犬のような唸り声で問うと、男の唇が震えながら何かを言った。


『何だって?』


 もう一度問うと、大きな眼をぎょろぎょろさせて口を開いた。


 ————目を覚まして。アリス!



 がばりと身体を起こした。

 大きな窓からは陽光が真っ白な天井に差し込み、ただでさえ眩しい部屋が余計眩しく感じた。

 ちかちかする目を瞬かせながら周りを見ると、ベッドの周りに、ずらりと並んだ人垣にびくりと肩を震わせる。

 先程大声を上げた大柄なメイド、灰色の髪と髭の老執事、ミモザ色のドレスの美しい貴婦人と、十四歳くらいの大人しそうな男の子、仕立ての良さそうなベストとシャツを着た紳士が、皆一様に涙を浮かべてこちらを見ていた。

 貴婦人が紳士の手を握り、涙を流した。哀しみではなく、驚きと、喜びに。

 アーサーにとっては全員が見知らぬ人間である。

 酷く奇妙で、まるでずっと覚めない悪い夢を見ているようだ。


「あ……」


 自分の口から、駒鳥のように可愛らしい声が聞こえた。

 ぺたぺたと顔を触る。メイドが怪訝な顔をしたが知った事ではなかった。

 すべすべとした磁器のような肌だ。当然、其処にはざらついた無精髭なんて欠片も無い。

 それでも何とか、これがまだ夢ではないかと声を絞り出す。


「あの……」

「アリス!!! 良かった!」


 視界が一面ミモザ色になった。高価そうな香水の香りに頭がくらくらする。温かな体温に、自分がようやく貴婦人に抱きしめられているのだと分かった。


「ああ、アリス。私の愛しい娘……」


 残念ながら、この悪夢が現実なのだという事をアーサー・バートレットは理解するしかなかった。

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