第参章 姫信長出陣
我が霞流に『松風』という技がある。
鍛え上げられた俊足をもって相手の脇を駆け抜けて背後を取る技だ。
無論、敵もむざむざと背後に回られるような無様はしない。
故に真っ向から突進すると見せかけて直前に速度を殺さずに進路を変えたり、必殺の気配を錯覚させるほどの斬撃を捨て太刀にするといった相手の虚を突く工夫が必要となる。
そして何より武器を構えた敵に向かって真っ直ぐに突き進む胆力こそがこの技の肝なのだ。
『小娘! 自ら死を選ぶか!!』
スタローグが巨大な棍棒を接近する私に振り下ろす。
私は僅かに横に跳んで予想上の棍棒の軌道から抜けつつ、着地の踏み込みを利用して更に加速した。
「ぐっ!」
予想を超えた衝撃の余波が私の背を襲うが、なんとか堪えて走り抜けスタローグの股下を滑り込んで背後に回った。
私の『松風』が巨人に通用したのだ。
恐怖は無い。相手の姿が見えない私は、戦闘において相手に臆する事はまずない。
「霞流『膝崩し』!」
本来、滑り込んだ低姿勢のまま片膝立ちに振り返って相手の膝の裏を横薙ぎに斬る技なのだけど、スタローグは呆れる程巨大なので私は跳び上がりつつ六角杖の仕込みを抜いた。。
自分でも怖いくらいに気分が高揚しているけど、頭はあくまで冷静を保ち続ける。
『ガァ?! お、オノレぃ!!』
跳びながらの抜き打ちなので威力はやや落ちてしまっているが、スタローグの甲冑の隙間を抜けて膝の裏に痛手を与える事は充分できた。
スタローグは片膝を地に着けて膝の裏をかばう。しかし、それこそが私の目的だった。
「霞流『兜潜り』!」
膝をついてスタローグの頭の位置が下がるのを見逃さず、再び跳んで甲冑の首の隙間に躊躇いなく刃を突き立てる。
そこはいわゆる『盆の窪』と呼ばれる部分で、私は渾身の力を込めて深く突き刺してスタローグの延髄を貫いた。
群雄割拠の戦国時代より伝わる我が霞流剣術は当然鎧武者の相手をする事を想定して試行錯誤した末に編み出された剣術。
それゆえにスタローグのように全身甲冑に身を包んだ相手は、霞流にとって相手の方から重りを担いで動きを鈍くしてくれているようなものだ。
「延髄は急所中の急所・・・・終わりよ。筑後(現在の福岡県南部)は刀鍛冶・
私が刃を抜くとスタローグの体はゆっくりと前のめりに倒れていった。
スタローグの体から飛び降りた私は、血振りをくれると杖の中に刃を納め、ゆっくり眼を閉じながら大きく息を吐いた。
「こ、これがユキコ殿の実力……これで勇者に選ばれなかったとは」
皇子の言葉はどこか強張っていた。しかし、それは無理も無いと思う。
私は段々と気持ちが鎮まっていく、いえ、どこか冷めていくのを感じながら言葉を紡ぐ。
「いえ、だからこそ選ばれなかったのではないでしょうか?」
そう…そうだった。
私は決して勇者に選ばれるはずが無い。勇者の資格すら無い事を失念していた。
自嘲の笑みが口の端を吊り上げる。
「「ユキコ様(殿)?」」
アリーシア様とアランドラ皇子が同時に私の名を呼ぶ。その声は僅かに震えていた。
「お二人とも私の本性をお察しになられたのではありませんか? だから、私にかけられるお声が強張る」
私は多分、酷く歪んだ笑みを浮かべている事だろう。
「私は他者の命を奪う事に躊躇いが持てないのです」
「ユキコ様……」
アリーシア様の哀しげな声が耳を打つ。
「アリーシア様、私は……」
私の言葉は、背中に与えられた強い衝撃によって遮られた。
『姉様、ダメです……これ以上、その事を云ってはいけません。放っておくと際限なくご自分を卑下されるのが姉様の一番悪い癖です』
「月夜……」
「ツキヨ様、その声……」
私の腰に抱きついた月夜の老婆の如く潰れた声に言葉を失う。
これこそが月夜が指の突く動き、歯の音で『言葉』を紡ぐ理由。
月夜は本来なら誰もが嫉妬するほどの美しい声を持っていた。
しかし二年前、ある“忌まわしい事件”のせいで自ら毒を飲んだ。
幸い発見が早くて命は助かったものの月夜の喉は潰れ、今の老婆のような『声』になってしまった。
「ごめんなさい……月夜」
私は自ら封印した『声』を使ってまで私を諫めてくれた月夜に返す言葉を持てず、ただその体を抱きしめて謝罪と感謝を全身で伝える以外何もできなかった。
「ユキコ様?」
アリーシア様の声に私の体がビクリと震える。
「私達はユキコ様の事は何も解りません。当然ですわね、私達は今日お会いしたばかりなのですから」
アリーシア様が月夜ごと私の肩を抱く。
そこから彼女の温もりを感じて私は何故か泣きたくなった。
「ですが、ユキコ様が信頼できる方ということは解りますわ。何故なら今のユキコ様の命がけの戦いを見れば、貴女の戦いが人を守る為の戦いという事が判りますもの」
「違います! 確かにスタローグと戦おうと決心したのは妹達や貴女達を守る為でした! でも戦っているうちに私は……戦うことが愉しくなっていたのです」
私の言葉は段々弱くなっていく。
いつもそうだった。剣術の試合でも初めは清々しい気持ちで竹刀を打ち合っていた。
それがいつしか相手を打ちのめしたい衝動へと摩り替わっていく。
数年前、目録を賭けた兄弟子との仕合。
「一本! 待て!! それ以上はいかん!! 待てと云うに、お前は既に一本取っているのだぞ!!」
制止の声。後ろから羽交い絞めにされる拘束感。相手を打てない苛立ち。罵声。血の臭い。
「貴様は誇り高き霞流を殺人剣にするつもりか?!」
鋭く走る痛み。熱くなる頬。頭を揺さぶられて朦朧とする意識。云いようの無い高揚感と憎悪。
「霞流は元々戦場で編み出された殺人剣だ!!」
誰かの叫び。重くなっていく体。
ああ、遠くで桜花が泣いている……
「目が見えなくて何が悪い!!」
仕合の発端となった言葉。強く食い縛った上下の歯。口腔に広がる血の味と臭い。
「やむを得ん! 許せ!!」
衝撃。
痛み? 胸が痛い? 息ができない?
あ、意識が……意識が遠のいて……い……く……
私はいつしか堪えていたはずの涙がとめどなく溢れていることに気が付いた。
「私は勇者どころか、アリーシア様に友と呼ばれる資格の無い浅ましい女なのです」
「ユキコ様、貴女は他者の命を奪う事に躊躇いが持てないと云われれましたが、ユキコ様は望んで死を与えられたのですか?」
アリーシアの問いに私はギクリと体を硬直させてしまった。
「いえ、私も初めから敵を屠るつもりで剣を振るった事はありません。しかし先にも申しましたが、途中で戦いが愉しくなり、気分が高揚し気が付けば相手が再起不能に陥っていた事など珍しくなく、この手で斬り捨てた命の数はもう既に両手の指では数えられません」
私の告白に流石のアリーシア様も呆れただろう。
もしかしたら、私を友と呼んだ事すら後悔しているのかも知れない。
「では、命を奪った事実に後悔をした事は? 罪の意識はありませんの?」
嗚呼、この御方はなんと残酷な事を訊くのだろう。
私の心は後悔や罪の意識に後押しされた絶望や恐怖に日々苛まれていると云うのに……
この時の私は自分本位の浅ましい怒りのあまり、アリーシア様の声に侮蔑も嘲りもない事に気付いていなかった。
「アリーシア様、私の心は既に壊れているのです。『戦い』が『怒り』を生み、『怒り』が『憎しみ』を生み、『憎しみ』が『暴力』を生むのです。私は剣の道を通じて人の道を説き、人を導く立場にありながらこのような衝動を内に飼っている救いようのない女なのです」
ダメだ。折角、月夜が諫めてくれたというのに再び自嘲の言葉が口から出ることを抑えられない。
「えい♪」
「は?」
私は一瞬、何が起こったのか判らなかった。
涼風が私のお尻を撫ぜた事で道着の袴が床に落ちたと理解できた時には悲鳴を上げていた。
「な、なに?!」
「えへへへ♪ 吃驚した?」
私の後ろで桜花の笑い声がした。
「お、桜花! 貴女の仕業なの?!」
私は慌てて袴を着けながら桜花に怒鳴りつけた。
「だって月夜姉様に怒られてもずっと沈んだ顔のまんまなんだもん。約束したでしょ? 雪子姉様は「自分で自分を苛めない」って」
私はハッと桜花の声がした方を向いた。
そう、いつでも一緒だと誓いを立てたその日、私達は誓いを強めるために、それぞれ自分の決めた約束もしたのだ。
桜花は「剣術の稽古で泣き言を云わない」、月夜は「霞家の者が悪に染まりそうになった時には体を張って歯止めになる」と。
そして私は日頃自虐的な発言が目立ち、それは道場主としては良くない事なので、「自分を苛む事を禁じる」と約束をした。
「だから今のは雪子姉様への罰」
私は桜花の愉しげな笑い声に自分の心の弱さを改めて痛感した。
「ありがとう、桜花」
私は多分、自然と微笑んで、桜花の頭を撫でた。
桜花は腰まである髪を全て後ろへ流しておき、お洒落のつもりなのか前髪を数条ばかり前に垂らすという難しい髪型をしているので、たまにどう撫でたものか考えさせられてしまうのが難点だけど。
「でも、もうちょっと他の罰を考えられなかったかしら? 近くに殿方もいらしたのに……今は道着だから腰巻も着けてないのよ?」
「姉様、痛い……それに、その笑顔、凄く怖い」
私の撫でる手に多少力が籠もっていた事くらいはご愛嬌の範疇だろう。
ただ怪我の功名と云うべきか、私を苛んでいた鬱屈した気持ちは幾分和らいでいた。
「ゆ、ユキコ様?」
「はい?」
「その、オウカ様の頭をこれ以上揺すると大変な事になりそうなのですけど……」
アリーシア様の云いたいことはよく判る。けど私はあえて惚けた。
「私は頭を撫でているだけですよ?」
「わ、私の目にはオウカ様の頭を掴んで前後左右に大きく揺さぶっているように見えるのですが……」
アリーシア様に云われて私は桜花の頭を撫でるのをやめた。そう私はあくまで桜花の頭を撫でていただけ。
私は呆気に取られたアリーシア様と皇子の前で自らの両頬を思いっきり叩いた。
「不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。アリーシア様、アランドラ皇子」
私はお二人に頭を下げた。
もう大丈夫。月夜と桜花のお陰で私は立ち直っている。
するとアランドラ皇子が私の手を取った。
「ユキコ殿、いえ、貴女達三姉妹はとても強いのですね。三人とも互いを必要とし、互いを支えあい、互いを慈しみ合っている」
「いいえ、私達は弱いです。だからこそ三人で力を合わせなければ生きていけないのですよ」
私はこの世界に来たばかりの時のように月夜と桜花を抱きしめた。
妹達の体温が私の冷酷な心を溶かしてくれるようで心地良く、それが嬉しい。
「フフ、それこそが強さですよ。確かに聖剣の儀は失敗しましたが、貴女達の強さはヴェルフェゴールさえも敵わないでしょう」
「そうですわ。私は、いえ、私だけではなくそこにいるアランドラも貴女達の絆の強さに希望の火を心に燈さずにはおれません」
「希望?」
私は勇者でなかった私達に落胆せず、そのような事を云う二人を不思議に思う。
「はい、ユキコ様はたった今、人の手で魔族を倒せる事を証明して下さいました。平坦な道ではないでしょうが、私達にも勝利の道があると知りました」
アリーシア様は何を思ったのか私の手を取って、ご自分の胸に押し当てられた。
「ユキコ様、貴女の苦しみは私程度の矮小な者には想像すらできません。確かにユキコ様は敵を屠る事に躊躇いはありませんでした。しかしです。ユキコ様がその事を悔いて恐れている事は私にも解りますわ」
私の掌にアリーシア様の温もりと鼓動が伝わってきて、何故か安心感を覚えた。
「我ら星神教とて五千年という長い歴史の中で血や死と無縁だったわけではありませんわ。むしろ他教の信徒を悪魔崇拝者として迫害し、土地から追い立て、哀しい事ですが虐殺まで行ってきた暗黒の時代があったのです。しかし、その事が他ならぬ太陽神アポスドルファの逆鱗に触れ、星神教徒は滅ぼされる寸前まで大地震や洪水、干魃といった神罰を受けたそうです」
言葉も無かった。
この慈愛の心そのものといったアリーシア様が巫女を務める星神教にも過ちの時代があったなんて想像すらできない。
「アポスドルファは許しを請う人々の前に金色の炎のような鬣に覆われた恐ろしいライオンの姿に化身して顕現なされ、『我を恐れる前に自らの罪を恐れよ。悔いよ』と叱責し、『太陽の光も星々の瞬きも誰にも平等に降り注いでおる。汝らは特別ではない』と諭されたそうです。これによって、自らの過ちを大いに恥じ自らの行為に恐れた祖先達は以来他教とも手を取り合い、罪を償うべく人々を正しく導くようになっていったのです」
アリーシア様は私を抱き寄せると耳元で、もうお気づきになられましたか、と囁いた。
「我ら星神教は自分達が正しいから教えを説いているのではありません。自らの罪を恐れ、再び同じ過ちを繰り返さないように最善を尽くしているのです」
私は金槌で頭を殴られたような衝撃を受け愕然とさせられた。
私なんて自分の内側に潜む『狂気』に怯え立ち止まってしまっていると云うのに、星神教の信徒達は自らの罪に真正面から向き合って償い、その上で幸福に至る道を模索している。
星神教、見事なり!
我、いかに剣の修行を重ね、数多の悪党を屠ろうと、未だ彼らの境地に達せずや!
私は後世へ連綿と受け継がれていく罪から星神教の信徒達が解放される日が来る事を願わずにはおれなかった。
「強い宗教なのですね。アリーシア様が信仰なさっているのが分かるような気がします」
不意に私の頭をアリーシア様に撫でられた。
私も月夜や桜花の頭を撫でることはよくあるけど、自分の頭が撫でられるのは何年ぶりだろう?
「思った通りですわね。やはりユキコ様は強い方です。いいえ、それよりも……」
その言葉の前には、私は涙を堪える事なんて出来なかった。
「貴女はとても優しくて良い子です。私はカスミ・ユキコと友になれた幸運を生涯アポスドルファに感謝を捧げ、誇りにしていきますわ」
私の額に柔らかく温かいモノが触れた。
普段の私であったならすぐさま赤面し、卒倒していたはずだけど、今に限っては嬉しく思っても、何故か恥ずかしさは微塵も感じなかった。
「太陽神アポスドルファよ。我らに希望をもたらした心優しき剣士に幸福を与え給え」
違いますよ。
私にとっての幸福は既に月夜と桜花、そして貴女から既に頂いています。
『グフフフフフ!! では、その希望とやらを拙者が砕いてくれよう!!』
突然の声に私達は一斉に振り返る。
「スタローグ!!」
『今のは確かに効いた……だが、魔族はこの程度では倒せぬわ!!』
迫りくる殺気に私はアリーシア様を突き飛ばして同時に倒れこんだ。
「ありがとうございます。ユキコ様」
「いえ! それより状況を!」
私は再び鬼鉢鉄を額に巻いた。
「し、信じられません……スタローグの兜が、ガントレットが、脛当てが……すべてバラバラになって襲ってきます!」
「何ですって?!」
驚愕する私を嘲笑うようにスタローグの声が轟く。
『さあ、ニンゲンよ! 絶望の中で逃げ惑うが良い! 我が切り札『マリオネット・アームズ』から逃れた者はおらぬ!!』
殺気の群れが私に向かって迫ってきた。
斃したと思っていたスタローグはなんとまだ生きていた。
しかも切り離された首や腕が宙を舞っているではないか。
これは如何なる絡繰りか。
このような状態でも生きているスタローグを討つ
それは次回の講釈にて。
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