第3話 誘惑ゲーム

 あの負けず嫌いな瞳はどうだろう。空港では直前の予約でビジネスシートしかとれなかったのを、信楽が持っていたエコノミーと交換すると言って聞かなかった。じゃあ帰りは君がビジネスにのりなさい、と言うと、そっぽを向いてしまった。きっとあの回転の速そうな頭でいろいろと仕掛けてくるに違いない。信楽は未知の敵に挑むように身構えていた。

 しかし、彼女は拍子抜けするほど静かだった。

 サンフランシスコ経由でポートランドに着くには十五時間近くかかる。飛行場でレンタカーを借りてその足で英語版を作っているティントーイズ社に向かったが、彼女は始終押し黙っていた。

 ミーティングでの彼女の瞳は一転、強い光を放った。大学で英文を専攻していたと言うが、プログラミングや契約にも及ぶ専門的な話は、それだけで理解できるとは思えない。しかし彼女の瞳は全てを吸収しようとするかのように、くるくると動いた。寝不足のはずなのにあくび一つせず、白熱する議論をじっと観察していた。

 一日目の夜、信楽の部屋に電話をかけてきた。パジャマになる予備のTシャツを持っていないか、と言うのである。あるよ、と言うと、信楽の部屋に取りに来て、渡したTシャツを赤らんだ顔で胸に抱き、戻っていった。作戦だろうか。あまりにもさりげなさすぎて、真意を聞くすきがない。

 いかんせん出張先の夜はメールの処理で二時間は仕事しなければならない。

 小林から、八嶋のアメリカ出張について説明せよ、とのメールが来ていた。まったく怒っていない文面から考えると、よほど怒っているのだろう。それが彼女の常だ。「八嶋美紗緒は信楽組に入れる。つまり俺が上司だから、説明する必要はない」火に油を注ぐような返答を書いて悦に入った。

 信楽組というのは、とまほーく内の呼び名で、坂巻が入社してから社内を信楽組と坂巻組に分けている。もっと会社らしい部署名をつけてもよさそうだが、楽しげなところが気に入っていた。

 次の日も美紗緒は神妙にしていた。いったいいつゲームを始めるつもりだろう。俺からハンドルを奪った大胆さは一時のもので、この神秘的な静けさが本来の彼女なのだろうか。

 社長のジョン、営業のサイモンとの四人で夕食に行き、ホテルに帰ると、彼女は部屋に戻る別れ際に手紙を渡してきた。部屋に戻ってから見てくださいね、と念を押しながら。ホテルの便箋を使った手紙には美しい字がびっしりと並んでいた。今日の昼間はそんな暇は無かったから、昨晩、書いたに違いない。


信楽武司 様

 誘惑しろと言ったら手紙を書いてくるなんてと鼻で笑われているところが目に浮かぶようです。昼間の信楽さんはお忙しすぎて、他に方法が見つからなかったのです。

 それにしても信楽さんのゲームの熱狂的なファンであり、本人にお会いしてもっと好きになってしまった私に、誘惑してみろ、僕は指一本触らない、だなんて本当に意思の強さに自信がおありなのですね。それとも、私は信楽さんにとってよほど恋愛対象外の女なのでしょうか。

 いいえ、信楽さんは今日、私がジョンさんと握手したとき、恐ろしい顔でジョンさんをにらんでらっしゃいました。後藤さんのときは握手させませんでした。信楽さんがあまたの女性にそんな正義感をお持ちだなんてことあるのでしょうか。ご自分は私の手をひどく一生懸命握ってくださったのに?

 信楽さんの大きくてひんやりした手が私を包んだときの感触が今でも指に残っています。私はどこか別の場所に触れられたような、不思議な感覚に陥ってぼんやりとしてしまいました。

 信楽さんは、私に触れても何も感じられなかったのですか。

 感じられたからこそ、他の男性に私の指を握らせまいとされていると思いたいのです。

 今回の仕事を命令されるまで、男の人を誘惑するなど考えたこともありませんでした。そんなことをしなくても、いつか誰かが私の事を見つけてくれ、求めてくれて、私も一目見たとたんにその人が運命の人だってわかるに違いない。そんな出会いをじっと待っていたような気がします。

 ええ、笑ってくださって結構です。

 でも、もし私がその運命の人を先に見つけてしまったら?

 私が誘惑すべきなのでしょうか。いったい誘惑と恋愛は違うことなのですか。愛してください、ではなくて、抱いてください、とお願いすることですか。

 でも、私は両方欲しいのです。

 …私を愛して、抱いて欲しい。

 こんなみもふたもない言葉を、面と向かって言ったら、もっと真剣に考えろって、怒るかもしれません。私の新しい上司として。でも、ただ素直な気持ちを伝えること以上に、効果的な方法はあるのでしょうか。

 お借りしたTシャツ、ちょっと袖を通してみたのですけど、信楽さんの匂いがしてなんだか悲しくなって、脱いでしまいました。ごめんなさい。でも、この仕事が終わるまで指一本触れていただけないなら、信楽さんの匂いなんて遠ざけておいたほうがましだって、思ってしまったのです。

                                八嶋美紗緒


 二人が宿泊しているのは、巨大な吹き抜けがある十五階建ての大型ホテルで、客室が吹き抜けを取り囲んだドーナツ状の構造になっている。各階の廊下が吹き抜けに沿って最上階まで並び、一歩客室を出れば全ての階から一階のホールが見下ろせる。ホールはカフェテラスである。二階にまで届く背の高い観葉植物に囲まれ、水の底からライトアップされた噴水がホールの真中で美しい光を放っている。

 手紙を読んだ次の朝、八階の自分の部屋から出た信楽は、見下ろしたホールで朝食に向かっている美紗緒の小さな姿をまばたき一つで見つけてしまった。そして足が重くなる自分に気づいた。なぜか彼女に会いたくない。

 ばかな!勢いよくエレベーターに向かって歩き出した。

 彼女の手紙のせいで動揺しているって?

 確かに美しい字や大胆な文章に感心はしたが、一度読んだだけでテーブルにほおってしまった。その後はメールの処理でてんやわんやで、寝たのは二時だ。手紙の事なんか今日起きるまで忘れていた。

 忘れていた?本当にそうだろうか。仕事をしながら何度も手を止めてぼんやりしたのは誰だ?頭では彼女の作戦だと分かっているのに、もう一度読み返して真実と作り事の境目を見極めたかったのは誰だ?

 「おはよう」料理のトレーを美紗緒の前に置いた信楽は、ベーコンをナイフで切っていた彼女が、ゆっくりとまぶたを上げた時、このゲームを早々に終わらせたほうが身のためかも知れないと思った。美紗緒はあいまいで、心を一生懸命隠したような微笑を浮かべた後、何かを言いかけて口を半開きにした。

 私を愛して、抱いて欲しい。

 手紙の言葉が唇から流れ出る錯覚に陥ったとき、彼女は勇気の無さを悔やむようにうつむいた。まつげの先がふわりと揺れ、口の中から出なかった言葉を恥じるように頬を染めた。なんという可憐さだろう。

「よく眠れた?」

「はい。信楽さんは?」小さな声。まだ、頬に赤みが残っている。

「うん。来る前に徹夜してたから、すっかり西海岸時間だ」

 しばらく無言で食事をしていたが、昨日の手紙について何もコメントしないのは仕事として頼んだ以上、自分の動揺を示すのに他ならないことに気づいた。

「ああいう誘惑の仕方があるとは盲点だった」

 称賛の声音を作ると、悲しげな笑顔に目眩がした。地雷を踏んだ。それも自分で埋めたやつを。

「説明は必要ですか」

「いや」

「そうですか」彼女はほっとしたように微笑すると、ジュースを飲み干した。コクン、とのどが鳴る小さな音が耳に飛び込んできた。

「お先に失礼します。八時三十分にロビーでしたね」するりといなくなった。彼女にこの仕事を頼んだとき、いったいどんな展開を予想していたのだろう。すっかりわからなくなっていた。

 信楽の運転するレンタカーの助手席で、美紗緒は静かに窓の外を見ていた。

 演技なのだろうか、本当に沈んでいるのだろうか。あの手紙の内容を完全に作り事だと扱っている俺に?わからないなら、聞けばいいじゃないか。仕事なのだから。しかし、聞いたとたん、またあの悲しげな顔で切り返されるような気がする。もう見たくない。心臓に悪い。美紗緒のトラップに自らはまっているのをうすうすは感じながら、彼女のふるまいが自分の心に起こすさざなみに感動してもいる。新作ゲームのために全てを受け止めたい。彼女に誘惑されたい。


 オレゴン州ポートランドは比較的小さな都市である。治安は良く美しい町並みが続く。信楽たちが向かったのは、小さな企業が長屋のように同居したビジネスエリアだ。情報関連のベンチャー企業が多く、ティントーイズもその一つ。社員は五人で、非英語圏のゲームを英語化するのを専門とした会社である。一日目、二日目とプログラム上の問題や、販売方法の打ち合わせなどに費やしてきたが、三日目は翻訳家との打ち合わせだった。

「グッドモーニング!」

 信楽は大声で挨拶し、自分の会社のように遠慮なく会議室に入った。殺風景な部屋に小柄で痩せた三十代の男と、少し太めだが、グラマーな女性が並んで座っていた。ロブとナンシー、この仕事のためにティントーイズがスポットで雇った二人である。ゲームに合わせて専門家を雇うやり方を信楽は気に入って、ティントーイズと契約したのである。ほぼ同い年の社長・ジョンとは友達のようにつきあっている。

 ナンシーは信楽に駆け寄ると、「信楽さん、お久しぶりね」とゆっくりした日本語で挨拶した。「うん、ナンシーさんも元気だった?いつもメールありがとう。おかげで素敵なゲームになりそうだよ」きつく握手を交わした。ナンシーと会うのは三度目だ。日本語を学んだ後、ポートランド駐在の日本人の英語教師を生業としている気さくな女性である。

『あなたが、ロバート・ゴースさんですね』

 信楽は隣の茶色い髪に口ひげをはやしたおとなしそうな青年に目を移し英語で話し掛けた。

『ロブです。お会いできてうれしいです。今回の仕事は楽しかったです』

『こちらこそ。作詞家であるあなたがこんな仕事を引き受けてくださったことに感謝しています』

 二人を比べるとロブのほうが背が低く、またシャイで物静かであり、典型的な日本人とアメリカ人を逆にしたような具合である。

「美紗緒ちゃん、ナンシーさんは日本語から英語への翻訳を、ロバート氏はその英語をさらに詩にする仕事をしてくれたんだ」

「詩に?」美紗緒が興味深げに目を見開いた。ナンシーがひどくうれしそうに、腰に手を当てて信楽を見上げた。

「信楽さん、彼女があなたが見つけたプリンセスなのですか?」

 信楽はあわててエヘンと咳払いをした。

『うー、僕は君にそんな話をしたっけ?』英語でこそこそと話し掛ける。

『あら、初めにサウザンドトゥームスの説明をしてくれたとき、僕はこのゲームを作っているときに現実でも気が狂いそうなくらいある女性を探していた。でもついに見つけたんだって言っていたじゃない』

 ああ、そういえばこの移植の仕事を始めたとき、ちょうど美紗緒ちゃんから履歴書が送られてきて、有頂天になってナンシーに口を滑らせてしまったんだ。

『いや、彼女は新しいゲームデザイナーなんだ。八嶋美紗緒さんだ』

 美紗緒は二人と握手を交わした。彼女がロブと握手をすると、自分の顔がこわばっているのに気付き、慌てて知らん振りを装う。

『ごめんなさい。日本人が女性をファーストネームで呼ぶのは奥様か恋人だけだって思っていたものだから』

『僕は普通の日本人じゃないからね。よし、早速仕事にかかろう』

 ナンシーの鋭い指摘に内心冷や汗をかきながらも、全員を会議机につかせた。

 途中でデリバリーのサンドイッチの昼食をはさみ、午後まで議論は続いた。美紗緒はすっかり二人と打ち解けて、ロブの作ったセリフのニュアンスを詳しく聞き、自分なりの意見を言ったりもした。

『美紗緒は英語がうまいのね』

『大学で英文学を専攻していました。ただ私の英語はイギリスなまりだと思います。短期留学していたので』

『そうね。でもアメリカではみんななまってるから、気にならないわ』

『ふーん。じゃあ、僕の英語は何なまりなんだろう』信楽が聞いた。

『あなたのは演説なまりよ』

 ナンシーの指摘に皆が大笑いし、『そういえば前にも高校生のスピーチみたいだって言われたことがある』ぶつくさした。常に人を説得しているような大仰な英語なのは自認している。それより笑いの後の明るい顔になった美紗緒にほっとした。

 信楽は四人で夕食に行こうと誘い、ナンシーが、ならダウンタウンの洒落たレストランを予約するわと提案した。自然な流れとはいえ、美紗緒と二人きりになるのから逃げている気がする。

「信楽さん、私、ナンシーさんの車で、後からホテルに行きます」

 会社から出て、美紗緒はナンシーの横に立って言った。

「どうかした?」

「いえ、ちょっと」

「女同士の話よ。七時にホテルのロビーで待ち合わせしましょう」

 他に何かやばいことをナンシーに言っていなかったかと記憶を探ったが、思い当たらなかった。ナンシーと美紗緒は濃緑のポンティアックに乗り込み、さっさと出発してしまった。ロブは白いオープントラックに乗り込もうとしている。

『それが移動用の車ですか?』

『僕はスノーモービルをやるんです。それで』

『いいなあ、いつか僕を誘ってくれませんか』

 ロブは親指を立てて了解の合図をした。こんな約束が社交辞令に終わることもあれば、本当に楽しいつきあいが始まることもある。信楽は一期一会を大切にする男だ。ただ、今日はどうも心が入らない。自分と外界との関わり方がゆがんでしまっている。ゲームの世界に入り込んでしまったかのように。


 七時、ロビーのソファに体を預け、ホテルの入り口を見ていた信楽は、ナンシーの車がエントランスに止まり、ポーターが開けた助手席のドアから姿を現した美紗緒を見て息をのんだ。薄いクリーム色のききょうのつぼみのようなワンピースを着ている。肩は細いひもだけで、剥き出しになったきゃしゃな首筋を薄いショールが申し訳程度に隠している。複雑なドレープの入ったフレアスカートはすそがすぼまって脚の線を際立たせている。

 それに素足だ。白いミュールからぴょこんと突き出た桃色のぺティキュアが目の前に近づき、信楽さん?と呼びかけられるまで、目をあげられなかった。

 「ああ」初めて気づいた、というように美紗緒の顔を見る。神妙な顔がドレスに引き立てられ、目の前に存在することが信じられないような美しさだ。迷い込んでしまったのだろうか。自分の頭の中の世界に?

「どこの令嬢かと思ったよ」現実世界との接点である外側の自分がお愛想を言った。

「ナンシーさんにお借りしたんです。しゃれたレストランに行くような服、持っていなかったから」

 美紗緒はすぐさま踵を返し、信楽も後ろについた。優雅に揺れる丸い肩から目が離せない。肩甲骨のふくらみのために背骨に沿って服に隙間ができている。胸の谷間よりもよっぽど色っぽいかもしれない。

「急な出張だったからな。必要な服があれば買ってあげようと思っていたのに」

「買ってあげる?」

 美紗緒はとまどった目で信楽を振り仰いだ。そうか。女子社員に服を買ってあげる社長なんてめちゃくちゃ怪しいな。

「私が一番好きな恋愛映画、なんだかわかりますか」

「美紗緒ちゃんの世代で?わからん」

「マイ・フェア・レディです」

 これもゲームの一部なのか?

「うん。僕も好きだ。でも、僕はヒギンズ教授みたいな年寄りじゃないぞ」

「別に信楽さんにヒギンズ教授になってほしいなんて言っていません」

「じゃあ、何でその話を?」

「服を買ってくれるなんておっしゃると、そういうこと考えますよってことです」

 つんと怒ったような美紗緒は助手席にすべりこんだ。後部座席にはロブがいて、信楽もその横に体を押し込んだ。

『ナンシー、彼女に服を貸してくれてありがとう』

『かわいいでしょう。私が着てもこんなに上品じゃないわ』ナンシーが確かめるように信楽を振り返る。

『うん。かわいいね。君もとても素敵だよ。ナンシー』えんじに黒の花柄のワンピースで大人の雰囲気のナンシーは肩をすくめた。『あなたはそういうことが言える珍しい日本人ね』車がゆっくり発進した。

 四人が向かったレストランはダウンタウンでは有名な店の一つだった。しかし日本の高級レストランのように格式ばっておらず、町のカフェといった趣である。路上からガラス張りの店内が丸見えで、食事を楽しむ客がびっしり席を埋め、その間を白いエプロンをした若いウエイターが縫うように行き来している。

『今日は私がドライバーだから、どうぞワインも召し上がってね。ミサオ、タケシは酔っ払うととてもおもしろいのよ』

 信楽は何を言われるのかと、顔を上げた。

『普段の倍以上しゃべりだすの。ゲームの話とか、映画の話とか、皆に変なゲームをやらせたり。止まらないの。ティントーイズの人たちと飲んだとき、タケシが一番しゃべっていたわ』

 その論評を甘んじてうけている信楽を、美紗緒は口元に笑みをためて、ちらりと見た。見てみたいわ信楽さん、と言っているようで、別にいいけどさ、と肩をすくめた。目で会話をしたことだけでうきうきする。

 たっぷりワインを楽しんだ信楽とロブはすっかり詩に関する談義に花を咲かせてしまい、美紗緒とナンシーは聞き役になった。詩の話からゲームの話になり、信楽の口はますます滑らかさを増し、無口だったロブもつられて饒舌になった。

『新しいゲームを作るにはいろいろな才能を吸い込む必要があります。今回はあなたの詩の力を借りたし、主人公のポーズを作るのに振付師に頼むこともある。僕は自分のゲームにそういう才能を吸収したとき、最高の幸せを感じるんです。』

『それが理由ですか。あなたはゲームの利益を関係者に全て還元してしまうと聞きました』

『全てといっても、僕もたっぷりいただきます。でも、答えはそうです。たった一作だけに関わった人にも、たとえ会社の社員でなくても、きちんと報酬を得て欲しい。ただ、映画業界なら、最初からもっと報酬を出すでしょう。そして失敗すれば企画者はひどい損害を受けるでしょう。僕は儲かったとき初めて出すのだから、大層なことではないのです』

『うん。うまいやり方だね。僕も今回のゲームが売れたら期待していいのだろうか』

『もちろん。ジョンとそういう契約をしています』

 男達はうれしそうに笑いあった。皆が食事を楽しんだことを確認しナンシーがおもむろに割って入った。

『さ、そろそろお開きにしましょう。タケシ、明日の予定は?』

『広告代理店とE3についての打ち合わせ。午後はジョンと最後のミーティング。そうだ。そこにミサオは同席できないから、彼女を観光に連れて行ってもらえないかな』

『えっ、そんなご迷惑おかけできません』

『迷惑じゃないわ。私は日本語を話したいもの。明日一時にティントーイズを出発しましょう』

『じゃ頼んだよ。ナンシー』

 勝手に答えると美紗緒はうらめしそうに信楽を一瞥し、寂しげな顔をした。ふっと酔いがひいた。

 ホテルに戻ったのは十時すぎだ。ロビーには人影がないが奥のバーにちらほらと客が見える。

 エレベーターの狭い空間に二人きりになると自分の鼓動が妙に速いのに気づいた。「美紗緒ちゃんは五階だったね」彼女は目を伏せたままこくんとうなずいた。五階でドアが開き、彼女は一歩踏みだしてから勇気をふりしぼった声で言った。「後で、お部屋に行ってもいいですか?」一瞬つまったが、ここで逃げることは許されない。

「いいよ」誘惑ゲームはまだ終わっていないのだ。


 部屋に戻って三十分ほどで遠慮がちなノックが聞こえ、ドアを開けるとやはり彼女は仕上げにかかっているのだと知れた。Gパンに信楽のTシャツを着ている。シャワーを浴びたらしく髪がぬれており、石鹸の香りがただよう。

「なんだ、シャワーを浴びてくるならそう言ってくれれば僕も浴びてしまったのに」

「どうぞ。私、テレビでも見て待っていますから」

 彼女は抑揚のない声で言って、手前のリビングにある大きなソファに腰掛けた。二部屋に分かれた客室は、奥がベッドルームになっている。日本なら四人は詰め込まれそうな部屋の大きさである。

 明かりはスタンドライトが二つだけでソファの後ろから部屋全体を照らしている。

 信楽は落ち着かない気持ちのまま、美紗緒を残してバスルームに入った。いったい、彼女はどんな手をしかけてくるのだろう。わくわくするのと同時に自分がどこまで正気を保っていられるのか不安になる。そもそも俺は女を相手に正気を失ったことがあっただろうか。相手に迫られて据え膳を食うような恋愛しかしてこなかったんじゃないか。つまり、正気を失ったらどうなるかなんて、自分でも分かっていないってことだ。

 シャワーを浴び終わって小さく毒づいた。着替えを持って入らなかった。荷物を置いたベッドルームに行くにはリビングを通らなければならない。さっき着ていたものをまた着ようかとも思ったが、いたずら心がむくむくと湧きあがった。もしかしたら彼女が逃げ帰ってくれるかもしれないではないか。

「エクスキューズミー」

 冗談めかした声で言って腰にバスタオルを巻いただけの姿でリビングを横切った。映画を見ていた美紗緒が目を丸くして、恥ずかしそうに目を伏せるのを見ると、一瞬楽しさを感じたが、すぐに間違っていたことを知った。頬を染めた美紗緒に動揺するのはむしろ己の方だったのだ。

 ベッドルームに飛び込みドアを閉め、深呼吸する。

 靴を脱いでソファの上に横座りしていていた彼女の裸足のつま先が、つんとのびてソファにめりこんでいた光景が、一瞬のうちに目に焼き付いていた。ぎくしゃくとTシャツとGパンを身に付けると、いやおうなくしわ一つ無く整えられた大きなベッドが目に入ってきた。

「誘惑するってこういうことですか」などと言ってベッドルームに入ってくる美紗緒を想像してしまい、いたたまれなくなる。

 ドアを開けるとはたして彼女はベッドルームに入ってこようなどとは夢にも思っていなかったようだが、ドアのすぐ横にあるカウンターでコーヒーメーカーのスイッチを入れたところだった。まっすぐな黒髪はまだ濡れていて、数束に分かれて間から首筋がのぞいている。大きすぎる襟ぐりのためにその細さが強調され、だぼだぼのTシャツの中のいったいどこに体が入っているのか、さわって確かめたい誘惑にかられる。

「もう、服、着ましたか?」

 美紗緒は振り向かずに言った。ぴんとのばした首が次にどうしようかと迷ってぴくりと動く。

「いや、さっきのままだと言ったら、君はそのまま振り向かないのかな」

 美紗緒は勢い良く振り向き、かわいらしい目でにらんだ。

「うそつき」

 信楽は飛びのくように後じさった。もうだめだ。このゲームは続けられない。

「美紗緒ちゃん、ここに来たのは、僕が頼んだゲームをするためだよね」

 また、あの悲しげな顔で小首をかしげる。喉の奥に後悔がこみあげる。

「負けた。降参する。頼むから君の部屋に帰ってほしい」

「途中で止めるってことですか?そんなのずるいです。私、信楽さんの理性を剥ぎ取るにはどうしたらいいかって、真剣に考えたんですよ」

 両手を握り締めて、本当にくやしそうに言う。

「もう十分、一歩手前だよ」

「そんなふうに見えません。まだ指一本触れていません」

 美紗緒が一歩近づき、信楽は一歩下がり、背中が壁に当たった。

「じゃあ、触ってくれ、それで僕の負けにしよう」

 手のひらを美紗緒に差し出した。

「だめです。それじゃあ、私が触ったことになって、私の反則負けみたいなものです。信楽さんが私に触ってください」

 触ってくれだって?勘弁してくれ。心臓が止まりそうだ。それにしても、なんて勝気な子なのだろう。おまけに純粋ときた。男の理性がふっとぶってことが全然わかってない。

 美紗緒は挑むように近づいてきた。彼女の茶色い瞳の虹彩がゆらゆらと揺れ、美しい鼻筋がつんと持ち上げられる。観念して鼻梁を指でなぞった。触ったよ、と言おうとしたのに声が出ない。この、なめらからな骨の感触。だいたい俺はどうして鼻なんかに触ったんだろう。手でも、どこでも良かったじゃないか。それに、なんで目を瞑っているんだ、この子は。そうか、鼻っ柱を触られると目を閉じるよな。でも、まるでキスを待っているみたいだ!

 ああ、理性がふっとぶっていうのはこういうことだ、と燃えかすのような理性が頭の中でつぶやいた。右手が勝手に美紗緒の首をつかむと、反対側の首の付け根に唇を押し当てていた。信楽の体の勢いに、後ろに倒れそうになる彼女の腰を無意識に左手で支えてやる。

 握りつぶせそうな細い首と薄い肌、唇から伝わってくるしっとりした感触、洗ったばかりの髪の香り。男物のTシャツの中に隠された腰の曲線。見ているだけでは妄想でしかなかった生々しい情報が激しい衝撃になって襲いかかってきた。唇を動かすと、美紗緒の体がかわいそうなほど硬直し、血のうねりが指先に伝わってきた。濡れた髪が頬に冷たく、信楽は髪をたどるように耳の後ろまで唇を這わせた。頬がやわらかい耳を押しつぶした。このまま耳たぶを通って、唇に達すれば彼女は抵抗できずになすがままになるに違いない。その後に待っているあまりにも魅力的な行為さえ最後まで見渡すことができる。

 ひゅうっと美紗緒ののどが鳴った。

「だめ」

 かすれた声が言った。拒否などではなく、もっと男を誘い込むようなつぶやきに聞こえなくはなかったが、信楽のわずかに残った使命感をかろうじて呼び起こしてくれた。理性ではない。作品への執着だ。そうだ、ここでやめなかったら、俺はすべてを棒に振ってしまう。あえぎながら自分を引き剥がした。美紗緒のうるんだ瞳と睨み合い、信楽は心の底から懇願した。

「この愚か者を許してほしい」 

「私も、愚かでした」

 震える唇がつぶやいた。

「ゲームオーバーだ」

「はい。私の、勝ちです」

 ふたりはかろうじてこれを現実ではなく、ふたりが作り上げた誘惑ゲームの中の出来事だと、落とし込むことに成功した。

 彼女は逃げるように出口に向かった。ドアを開きながら後ろを振り向き、「これ、私の作戦メモです」あわただしいしぐさで長いTシャツをめくり上げ、Gパンのポケットから折りたたまれた紙を引っ張り出し、信楽に押し付けた。「おやすみなさい」小さな声と共にドアが閉まった。


 信楽さん誘惑作戦

 恋が生まれるには、シチュエーションと心と体(視覚)が相互作用すると思われる。全ては、無いものねだりから始まる。見えないから見たくなるし、わからないから知りたくなる。触れられないから触れたくなる。そんな心理を利用しよう!

 1.無口にする。私が何を考えているのか、わからないようにする。不言実行。

 2.純愛路線で。ただ体が欲しい、というのでは彼は落ちないと思われる。愛しているから、体が欲しい、という論法に終始すること。

 3.状況を逆手に取る。信楽さんが仕事として私に「誘惑」を依頼した。私は仕事で誘惑しなくてはならないのを悲しんでいる。なぜなら、本当は彼を愛しているから、という設定で。



 夕刻の深い色の空が広がっていた。明るく晴れ渡った空より陰り始めた空のほうが奥行き深く広く見えるものだ。観光で訪れたバラ園からティントーイズに帰るナンシーの車で、美紗緒は延々と続いていく雲の連なりを見ながら、涙の訳を考えていた。

 バラ園の片隅で美しく品種改良されたクリーム色のバラを見た時、突然涙があふれた。

 可憐な一輪が、自分に重なった。本当の自分ではない。信楽武司とのゲームに勝つためだけに作り出された幻想のような自分。物静かで、憂いがあって、美しく着飾って。

 信楽はまんまと罠に落ち、降参すると言い出し、しまいには美紗緒の首筋に唇を押し付けた。「だめ」と言ったのは自分に対してだ。彼に触れようとする自分を止めた。

 私は愚かだった。

 誘惑してみなさいと言われたのを逆手に取って、むきになって彼の心を奪おうとするなんて。

 彼の激情をひと時でも勝ち取った偽りの自分に嫉妬するなんて。

 あの能天気な作戦メモを見せ付けて、全ては偽りだったと証明したことに自分自身がひどく傷ついているなんて。

 愚か者と言わずしてなんと言おう。

「次のゲームでまた会えるといいわね」

「はい」

 ナンシーは情緒不安定としか見えない美紗緒を気遣ってくれ涙の訳は聞かなかったし、別れ際に励ますようにハグしてくれた。

 次のゲームにどう関わることになるのだろう。信楽には、どう接すれば…

 勝負に勝って、何かに負ける。負けず嫌いの美紗緒には、これまでにもそんなことが何度もあったような気がした。

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