オタクは天使の翼の下で眠る

古都瀬しゅう

第1話 灰になった魔女

 1999年1月 プレイステーション全盛期。


美紗緒みさお、東都銀行の縁故採用、受ける気になったって今、母さんから聞いたんだが」

 強めのノックと勢い込んだ父の声がして、慌てて机の上の雑誌を本棚に押し込んだ。ドアを開けると、帰宅してすぐらしいスーツ姿の父が厳しい顔で立っていた。

「ええ。急に気が変わってごめんなさい。まだ間に合う?」

「ちょうど佐伯常務に会う予定がある。たぶん問題ない…が、本当にいいのか?」

「うん。就職が決まった同級生はほとんど縁故採用だってわかったの。それにお父さんが言っていたでしょう。私みたいな箱入り娘は就職先もそれを承知してくれているところじゃないとどんな嫌な目にあうかわからないって。確かにそうだなって思ったの」

 大学三年の冬を迎え、縁故採用を勧められた。バブル崩壊で求人倍率が1を切っている中で、証券会社の重役である父の言は強硬だった。「就職先は自分で決める」と頑として断り続けていたのに、急に気を変えたのだから、不審に思われても仕方がない。父は人を見る目が厳しい。

「ほかに何かやりたいことがあったんじゃないのか」

「ううん」

 表情を変えず首を振った。

「銀行業務について調べたわ。私数字が好きだから適性があると思う。それより就職を決めたら短期の語学留学に行かせてくれるって約束。覚えている?」

「ああ。卒論以外の単位は取り終わったと言うし。行ってくるといいが…」

「ありがとう。お父さん」

 ただし厳しいのは娘を除いてだ。満面の笑みを浮かべると父は安堵したのだろう、気を変えるなよと言い残し階下に去った。

 大きく息を吐いた。本当のことなんて絶対に言えない。尊敬する父の自慢の優等生でいたい。だからこそ、あまり一般受けしない趣味を明かせないできた。今さっき本棚に押し込んだパソコン雑誌を取り出し、わが身の行動を思い出して笑ってしまった。まるでエロ本を隠す中学生みたいだったじゃないの。

 何度も開いたページが花開くように目の前に広がる。

 漆黒の闇。足を開いて立つ大人になりかけの少年。右手に中世風の剣を、左手に未来的な銃を持ち、物憂げな顔で空を見上げている。

 ――いっそのこと殺してくれ。ゲームオーバーじゃ逃げられない、ノンストップRPG・虹の鍵、1999年4月発売予定

 血のように赤い大きな文字が並び、その下に「信楽武司プロデュース三作目」と銀の文字が躍っている。

 信楽武司しがらきたけし。美紗緒が敬愛するゲームクリエイター。

 彼の一作目「エクスプローラー」を友人の家で見て、親に内緒でスーパーファミコンとそのソフトを買ったのは高校一年の時である。惑星開拓というSF世界を背景にしたシミュレーションゲームは、高度な数学的バランスと、それを感じさせないドラマティックなストーリーが見事な調和を生み出していた。数学に才能を発揮すると同時に文学も愛してやまなかった美紗緒はその両方が融合したビデオゲームの世界に魅せられてしまった。

 パソコンを買い、プログラミングを独学し、いくつかのフリーウエアゲームをホームページで公開すると、ユーモラスで多少エロチックなミニゲームは結構な数のファンを得た。

 アマチュアプログラマー、KOGUコグ。それが美紗緒のもう一つの顔なのである。美紗緒はゲーム会社に就職することを夢見ていた。信楽武司に近づくために。けれど、軽率で幼稚な自分に愛想を尽かす事件が起きてしまった。

 ウォークインクローゼットの扉を開けると中にはパソコンラック、小型テレビとゲーム機、毒々しい背表紙のパソコン雑誌やゲームカセット、フロッピーディスクケースなどが所狭しと押し込められている。その騒々しさはお嬢様の部屋然とした表の顔とは正反対だ。まるで秘密基地である。

 昨年末、信楽武司のゲーム広告の載ったまさにその雑誌に、KOGUが取り上げられた。先立つ十月、インタビューをしたいという編集者の要望と好奇心も手伝って、美紗緒は編集部を訪れた。結果として、「KOGUさんは目が合っただけですみませんと謝りたくなるような美しいお嬢様だったのです!」といった面白おかしい記事が掲載された。それ自体にはこそばゆく、呆れしか感じなかったものだ。写真が載ったわけでもない。

 しかし雑誌発売後、KOGUのホームページのヒット数は十倍となり、異常な内容のメールが舞い込み始めた。KOGUが若い女だという情報が加わっただけで、その創造物を集めたホームページは男の妄想を喚起させる温床となってしまったのである。妄想に引きずり込もうとする言葉の羅列。それらを書いて送ることで欲望を果たそうする男達の下品さ。メールの数は日を追って増え続け、とうとうパソコンの電源を入れる手が震えるようになった。

 自分の心の脆弱さを知り、ある意味、メールの差出人たちに通じるオタクっぽさが彼らをひきつけたのだと思うと、自分からKOGUという裏の顔を引き剝がすしか立ち直るすべを持たなかった。

 ゲーム会社に就職したいという夢も世間知らずな自分の妄想だったとしか思えなくなった。

 今日こそKOGUのホームページを消してしまおう。インターネットには突然跡形も無く姿を消すアドレスがいくつもある。ある日前触れも無く「ページを表示できません」というメッセージがブラウザから返されるのだ。ホームページを閉める理由は人それぞれだろう。だがそのいさぎよい消え方は、このいたたまれないむかつきを癒してくれるはずだった。

 パソコンを立ち上げると、メールソフトが勝手に大量のメールの到来を告げた。ふん、読んでなんかやるものですか。心で毒づいて、マウスを動かし続ける。

 ホームページの解約はあっけないほど簡単だった。一瞬にして、KOGUのページとメールアドレスは消えうせ、ネットの向こうの見知らぬ男達に向けて開いていた窓は閉じられた。メールでやり取りしていたパソコン雑誌の編集者でさえKOGUとの接触はできなくなった。

 椅子の背にもたれ、喪失感にぼうっとする。

 もう一度、信楽武司のゲーム広告を開いてみた。彼の新しいゲームを待ちわびる幸せな気持ちは変わらず美紗緒の中に残っていた。この気持ちだけあればいい。

 居間にプレステを持っていって、家族の前でゲームをやったら?優等生な長女の意外な趣味に驚く皆の反応を想像すると、口元にほんのりと笑みが浮かんだ。ふたつに分かれていた自分をひとつにすればいい。ただのゲーム好きな女子大生になればいいじゃない?




2001年9月 プレイステーション2発売から一年半後


偉大なる魔女・ジェイド

彼女に会ったとき僕はまだ少年だった。


邪悪な魔法使いグリエインに滅ぼされた国の

最後の一人の無力な少年。

グリエインを倒すため伝説の魔女を探し求め、

数ヶ月の旅の末に見つけ出した彼女はしかし

戦いとは無縁の清らかな乙女だった。


けれど彼女の力は強大で

僕の来訪と彼女に託さんとしていた運命を予見していた。


いくつもの国を荒らしまわるグリエインを追って旅するうち

僕らは定めのように恋に落ち

いくつかの月の無い夜と、いくつかの河のせせらぎを

ただ共に星を見上げ、共に耳を澄ませ、

同じリズムを奏でる鼓動で幻の未来を夢見た。


グリエインとの戦いに、彼女は勝った。

勝ちながらも生きて戻ることはできなかった。

力を使い果たし、グリエインの最後のあがきに身を焼かれ

彼女の体は灰になった。


千に分かれたその灰は

グリエインの死と共に飛び散った百の悪意によって

世界の隅々に持ち去られ、

二度と復活できぬよう巧みに強固に封印された。


            「サウザンドトゥームス」オープニング



 東京、品川にある真新しい高層ビルの24階に「とまほーく」がオフィスをかまえたのは一年半前のことである。社員数46名の中小企業にしてはずいぶん贅沢なオフィスだ。社員一人一人にパーティションを与え、主要メンバーには個室がしつらえられている。それだけ事業がうまくいっていると言えなくもないが、実体はまだ製品が二作しかないゲーム会社である。とても正気な経営判断とは思えない。なのにむしろ聞こえてくるのは過去二作で充分な利益を上げた才能への賞賛と、このままどんどん会社を大きくしようという社員達の前向きな意欲だけである。

 信楽武司は新幹線が見下ろせる窓に面した広い社長室で、副社長の小林玲子こばやしれいこと向き合い、このクールで辛らつなビジネスウーマンさえ疑問を抱いていないのだろうかと不思議に思った。社員を二倍に増やしたことも、見栄えのいいオフィスを借りたことも、もしその意味するところを知ったら社員達は皆、絶句するに違いない。目的を果たした今となってはまるで笑い話のようだ。

 不敵な笑みを口元に浮かべると、不思議とどんなストレスにも負けない図太さが戻ってくる。185センチ、70キロを越す巨体である。図らずして男くさい外見を与えられた信楽は、中学半ばで本来の繊細さを表に出せなくなっている自分に気づいた。回りの人間達が賞賛するリーダーシップや大胆さは、自分のコアの部分とは相容れないのだ。とはいえ、それら能力に長けているのを認められるのに、やぶさかではない。男なんて皆そうやっていきがっているものさと開き直っている。

 小林のカールさせた長い髪が、数束こめかみから垂れ下がり、窓からの光ですっきりとした頬に影を落とした。

「いつ髪型を変えたんだ?オスカルさまって感じだな」

 ふざけた賞賛の言葉を投げかけると、小林は鼻で笑って顔を上げもしなかった。

「銀行には発売日の変更はないって報告するわ。返済はその三ヶ月後でいいわね」

「ああ、今度は絶対に大丈夫だ」

 自信たっぷりに頷くと、こればかりは百パーセントはありえないと自分の中の技術者がぶうたれた。発売まで三ヶ月。新作「サウザンドトゥームス」はほぼ完成し、バグ出しの作業に入っていた。大きなバグが出ない限りはクリスマス前の発売に間に合う計画である。

 ゲーム一作の制作期間である二年間に銀行から借り入れる資金は数億円に達する。ハードウエアメーカーや大手ソフトウエア企業の傘下で資金を得る中小ゲーム会社が多い中、とまほーくはかろうじて独立を保っていた。作りたいものを作ることは何にも変えがたい必須条件で、スポンサーが無いに越したことはない。だが前作「虹の鍵」では発売が三ヶ月遅れ、つまり返済が遅れて、小林は銀行屋の陰険ないやみに一人で耐えていた。それを知った信楽は激怒して大喧嘩し、取引銀行を変える羽目になった。結果として小林が新しい銀行との交渉に骨を折ったのは言うまでも無い。今回は意地でも発売日を守る、というのが信楽のけじめなのである。

「サウザンドトゥームスのラストはどうなるの?魔女は生き返るの?あれ、叙事詩って言うのかしら、信楽が書いたのでしょ?」

 小林の意外に興味深げな言葉に目をむいた。誰だ、彼女にそんなものを見せたのは!

「そうだよ。もしかして全部読んだのか?」

「後藤さんに見せてもらったの。いけなかったかしら」

 もちろん彼女に秘密の文書なんてこの会社にありはしない。だが小林と自分の創作物について話すのは苦痛だった。彼女はロマンチックなことに鳥肌をたてる超現実主義者で、それが男の頭から出てくることに拒否反応を示している。特に彼女がかつて一目惚れした筋肉質の大男、信楽武司の頭から出てくるってことに。

 とまほーくを設立する前、二人は恋人同士だった。だが会社設立にあたって仕事とプライベートの両方でコンビを組むには互いがしっくりくる相手ではないと気付き始めていた。どちらか一方ならと、つまり会社運営を選んだ結果、とびきり上手くやっているのである。

 ソフトウエア会社では版権、販売契約などに絡んで一歩間違えば大きな損失を被る場面が多様にある。法律事務所に勤める法務スタッフだった彼女はそのような渉外に絶大なる能力を発揮している。と同時に人事や経理などの総務機能も全てこなして「何でも屋よ」とひょうひょうとしているのだから頭が上がらない。

 信楽より四才年上の小林は、三年前に年上の男と結婚して、見た目も言動も柔らかくなり、それは信楽をほっとさせると同時に、わずかな嫉妬も感じさせた。

「ちょっとずるいと思うね。あの詩はステージを一つクリアするごとに四行ずつ出てくるんだ。百ステージクリアしてやっと全ストーリーが明らかになる。ゲームもしないで全部読んじまうなんて職権乱用だよ」

 内容に話が及ばないよう冗談めかして声を荒げると、小林は顔をしかめた。

「じゃあ私に百ステージクリアして読めって言うの?私にできると思う?」

「思っちゃいないけどさ。だいたい君は虹の鍵だってクリアしてないだろう」

「ごめん。実はオープニングしか見てない」

「何のためにプレステ買ったんだよ」

「だって、夫がいる時はできないもの。出すのも面倒ならしまうのも面倒なのよ。だいたい、アレを買ったのは、言ってみれば、えーと」手の中のボールペンをくるくる回し「酔ったいきおいだったのよ」びしっと天を指した。

 以前「うちにもプレステぐらいあるわよ」と言った時のばつの悪そうな顔を思い出した。彼女は酒豪で時々記憶を無くしているらしいから、そんなときにでも上機嫌で買い込んだのだろう。

「じゃあ今度はプレステ2を買ってくれ。サウザンドトゥームスはプレステじゃできないからな」

「そのくらい知ってます。でも、しらふじゃゲーム機なんて買えないもの」

「君に言わせると俺達はみんな、酔って無くてもしらふじゃないってことだ」

「まあ、そういうことね。ああ、そうだわ」

 小林がノートの下に重ねていた一枚の履歴書を取り出すと、のどが鳴って、自分ながらにぎくりとした。

「とてもしらふそうな新入社員が来るわよ。八嶋美紗緒さん。一昨日内定通知を出しました。今日連絡があって実際に転職できるのは来年の四月ということよ」

「四月!半年も先じゃないか!」

「何?何か予定でもあったの?赤池さんがどうせサウザンドトゥームスがアップするまでは欠員が出ないだろうから、それでもいいって言ったのよ。今、東都銀行に勤めているのだけど、しがらみがあって二年は勤めないと辞められないのですって」

 半年も先だって?なんて残酷な魔女だろう。毒づきたいのをこらえると、うーっとうなってしまった。

「だいたい、なぜ彼女の面接に出なかったの?今まであなたが面接せずに採用した事なんてなかったのに。よほど今回の採用には興味が無いのかと思ったわ」

「忙しかったんだ」

 すねたような声を出すと、小林は鼻息を荒くしてノートを開き直した。

「あなたが忙しいのはいつものことじゃないの。いいわ。もう少し早く来られるか電話してみます」

「待った。いいよ。四月で」

 慌てて遮った。有能な小林にかかったら、黒いものでも白くなる。それに期待したい気持ちも無くはないが、実際、あれの開発が終わってから来てもらったほうが都合がいいではないか。もう彼女は逃げも隠れもしないのだ。

「もしかして、彼女と知り合いなの?」

 さすが、するどい。ここは隠しきるより適当に情報を出すことだ。信楽は唇をなめた

「いや。ただ、彼女がアマチュアの頃の作品を知っているんだ。結構面白いフリーウエアのゲームを作っていてね。その筋じゃ有名だったんだよ」

「いやだわ。私達そんなこと何も知らないで面接しちゃったじゃないの」

「彼女言わなかったのか。普通ならアピールしそうなものだろ」

「全然。まあ、いいわ。それより」小林は、ふふっと思い出し笑いをした。

「彼女、赤池さんをあなただと思って、面接が始まるまで見つめっぱなしだったの。その後、違うって聞いて顔を真っ赤にしていたわ。うちへの志願者はほとんどあなたのファンだから珍しくも無いけど、ずいぶん会うのを楽しみにしていたみたいよ」

「ふうん。かわいい子だった?」

「ええ。とびきりね。どう?そろそろ女子社員あたりで手を打つ気になった?」

「人事の君が承認してくれるなら、喜んで」

 茶化した言い方に小林は呆れた顔で腕を組んだ。いいかげん身を固めなさいよ、と目が怒鳴っている。三十三になる信楽が今だに独身なのは、しばしば社内の冗談の種になるほどだが、あらかた独身を楽しんでいるのだと解釈されていた。仕事ばかりで女を必要としない人間ではないかと疑われてもいる。現実には、小林も含めて過去数人の恋人が存在したが、最後の恋人とは一年以上前に別れてしまった。

 それというのも君が今、お見合いばばあよろしく俺に勧めている運命の姫君に心を囚われてしまったからだというのに、ここらで手を打てとは、ずいぶんじゃないか。信楽は小林が机に乗せた履歴書の小さな写真をちらと見ると、それを奪い取りたくて手がむずむずした。

「信楽さん。終わりましたか」

 おざなりなノックで社長室のドアを開け、顔をつっこんできたのは、赤池耕介である。とまほーくの技術監督でプログラミングに関する総責任者。信楽にとっては学生時代からの気のおけない友人でもある。眼鏡をかけた地味な顔つきの、性格もまた地味な男で、八嶋美紗緒が自分と間違えた、と思うと少しばかりむっとした。俺のゲームと奴が重なるって言うのか?

「じゃ、私は退散するわ」

 席を立って出て行こうとする小林を赤池がのそりと片手を上げて遮った。

「ちょっと待ってください。信楽さん、イスラエルから返答が来ました。一台の価格が三万五千ベイドルだそうです」

「三万五千米ドル?イスラエル?何の話なの?」

「納期は?」

 振り返る小林の視線を無視して声を張り上げた。

「一ヶ月です」

「小林、一ヵ月後にその金額をイスラエルに振り込むから、用意しといてくれ」

「説明して下さる?また私には理解できないとか言うたぐいの開発費なの?」

「次のゲームに使う開発用機材だ。軍事用に開発された画像増強プレートとカメラをボンディングした奴」

 技術オンチにはわからないだろう、という口調に、眉を吊り上げながらも、小林はすでにどうやって四百万円を工面するか考え始めているようだ。彼女がぶつぶつ言いながら出て行くと、信楽は壁際に立っている赤池に歩みより、きわめて平均的な中肉中背の彼を見下ろし自分自身にも言い聞かせるように言った。

「RTACは来年の四月までに完成させる」

「こういう開発期間のあやふやさは知ってますよね。四月というのはどれくらい重要なのですか」

「目標を決めなかったらいつまでたっても完成しないってのもこういう開発の常じゃないのか。四月にはRTACを使って次のゲームを作り始める。必要なら何人でも人手を回すよ。俺も自分の時間の半分はそっちに使うつもりだ」

 赤池は眉をしかめて灰色のスラックスのポケットに手をつっこんだ。赤池はいい家のぼっちゃんである。いつも上等な生地のスラックスにアイロンのきいた黒だの紺だののワイシャツを着ていて、地味な顔でなければ、気障このうえないスタイルだ。時々これまた毛玉一つ無い光沢のいいセーターを着ていると、あまりに「ぼっちゃん」というかんじで吹き出したくなる。

「カメラまわりのハードウエア設計はお任せしますが、ソフトウエアは私に任せてください。プログラミングには手を出さないという約束を反故にさせるつもりはありませんから」

 そしてこの会社で信楽に対して最も強く意見するのもこのぼっちゃんだ。

「わかってるよ」

「それから、一日の半分はせいぜい五時間です。十二時間ではありません」

「わかってる」

 信楽はいまいましく赤池の後ろの壁を足の先でこずいた。商社のサラリーマンをやりながら大手ゲーム会社コントラの下請けとして作った「エクスプローラー」で、信楽は大学院生だった赤池をさんざんこき使った。しかしそれ以上に、信楽のチャンスを物にしたいという意気込みは壮絶で、ほとんど不眠不休でプログラミングをし続けた。「エクスプローラー」が成功して得たロイヤリティでとまほーくを設立することになった時、赤池は信楽に、プログラミングからは手を引くようにとの条件を出した。信楽の際限のない没頭は周りの人間を巻き込みながら彼自身をも破滅させかねない。それは認めざるをえず、大企業の研究所に就職の決まっていた赤池を自分の弱小ゲーム会社に引っ張り込むという後ろめたさもあって、条件を呑んだのである。

「では、私は坂巻さんとミーティングがありますから」

「あっちの進み具合はどうだ」

「青木さんはがんばっています。が、から回りしているところがあります。坂巻さんにきちんと監督してほしいのでその話を」

「俺も出ようか」

「いや。私達だけでまず話させてください」

 赤池は逃げるように出て行った。

 はん、どうせ俺が出ればまた仕事が増えるとでも思っているんだろう。

 とまほーくは設立から四年間、信楽のゲームを作るためだけの会社だった。そこにもう一人のゲームプロデューサー、坂巻薫さかまきかおるを雇い、開発部門を二系列にしたのが一年半前である。会社の規模は二倍になり、信楽は初めて自分のゲームではない開発を社長として見守っている。それはなかなか歯がゆい作業だった。

 坂巻のゲームは一年後、来年の秋に発売予定だ。開発期間は二年半。長い。一つの仕事をやりつづけるには本当に長い時間だ。しかし決して充分な時間でもない。気を抜けばあっという間に大金を掛けたゲームが無に帰してしまう。開発中止になるゲームもあれば、駄作に終わるゲームもある。信楽がこれまで二年に一作というペースで新作を発売しヒットさせてきた事を奇跡だと言うものもいる。もちろんそれは信楽にとっても楽な道のりではなかった。坂巻に任せきりで何の問題も無くできあがるはずは無いと思っている。

 口を出すべきか、見守るべきか。迷いながらも、一週間後には彼らの中に分け入って大声を張り上げている自分がありありと想像できる。せいぜい懸命な対処ができるよう、もう少し彼らのデスクを巡回しておこう。

 何もせずに後悔するより、何かをして後悔するのが自分の性分だ。そして自分の力を信じて突っ走るのも。

 信楽は机の上に落書きのような設計図を広げて、頭を技術者モードに切り替えた。

 Real Time Animation Converter (RTAC:アールタック)

 図面の端にいたずら書きのような文字が躍っている。赤池がいればできる。俺が完成させる。信じなければならない。起こしてきた奇跡とその奇跡をものにする自分の力を。

 魔女は生き返った。目覚めた彼女が俺に微笑みかけるか否かは、俺の努力にかかっているのだ。

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