第8話 社内のあれこれ

「あぁ、お祈りメール書くの辛いなぁ……」

「では、また求人は出しておきます」

 先日まで面接に来た人は田畑さんの欲しかった人材ではなく、田畑さんはがっくりと肩を落とす。

 それから追加で来ていた応募書類に目を通した上で選考して、田畑さんが面接する日程を決めた。

「そういえば、田畑さんのマウスが人事部にあったんですが」

「あ……同じのを注文するつもりだったんだけど、メモとかメールするの忘れちゃって」

 明らかに壁に投げつけられて落ちていたのに?

「……なるほど。そういう事なら、後で注文しておきます」

「ありがとう! やっぱり使い慣れたものじゃないと仕事遅くて」

 遥があのマウスを詠んだ時に怯えた感情があったと言っていたが、彼女は一体何に怯えていたんだろうか。

「田畑さん、最近何か変なことや嫌なことありました?」

「え? 私に? なんで?」

「いえ、なんとなく」

 田畑さんは、ふふっと笑う。

「俊郎さん、少し元気がでたみたいだけど、すぐ他人の心配しちゃうんだね。今は自分が一番大変な時じゃないの?」

 言われてみればそうなのだ。

 ……それに、社内の誰かとまともに話をしたことが、とても久しぶりなことに感じられた。少しずつ目の前の霧が消えていくような不思議な感覚だった。

「遥が来て、少しは俊郎さんも仕事楽になるといいね!」

「そうですね、多少は楽になりそうな予感はしています」

 資料をまとめて先に席を立とうとした時だった。

「あ、俊郎さん」

「なんですか?」

 田畑さんが目を泳がせる。

「……あ」

「どうしました?」

「ううん、俊郎さんの笑った顔を久しぶりにみたら忘れちゃった」

「そんなにいつも酷い顔してますか」

「そういうわけじゃないけどネ」

 私はそんなに表情に出やすいかな……。

 田畑さんが言いかけてやめたことも気になってはいたが、少し晴れやかな気持ちになって会議室を出ると、デザイン部でテキパキ働く遥がいた。

 遥にはそのまま作業を続けるように告げて人事部に戻り、面接の結果の記録と次の面接候補者への連絡と、遥の雇用保険の書類の作成だ。

 遥はいつまでここにいてくれるだろうか……。彼の学業や本業の都合で、時短でもいいから手伝いに来てくれるとありがたいのに。


 遥が人事部に戻ってきたのは定時の三十分前だった。業務報告の時間もあるからその時間を見越してここに戻るように言われてきたらしい。

「デザイン部、いい部署だね」

「気さくな人が多いですからね。あそこはいつも明るくて雰囲気がいいんですよ」

「あ、それもあるけれど、そうじゃなくて」

「というと?」

「営業も企画もあの部署とやり取りがあるでしょ。で、印刷したものにペンで指示が入ってて」

「なるほど、そういうことですか」

「ただ、人目を盗んで詠むの、難しそうで……」

 今は人も多い時間帯だし、定時を過ぎて人が減ったら目立つし、なによりデザイン部は残業をしている者が誰かしらいる。

「遥君は、今夜は予定がありますか?」

「ううん、特に今夜は何も」

「では、一旦退勤して、もう一度来るのはどうですか。全員が帰ったら連絡入れますよ」

「そんな遅い時間に、俊郎さんは大丈夫なの?」

「私はだいたい帰りは最後だから慣れっこです」

「わかった。じゃあ帰って試験勉強しながら連絡待ってるね」

 期末試験か……まじめで良い子だな。

 私は仕事をしながら全員退社するのを待った。

 日中はなんだかんだで会議や打ち合わせが多いので、夜はその日のタスクをどんどん消化していかないと追いつかない。


 二十時半を回った頃に最後まで残っていた企画部から連絡があり、フロアの半分の照明が落とされた。

 早速、遥に連絡をするとコンビニの袋をぶら下げて現われた。

「はいこれ、夜食」

 プリンが入っている。

「……やっぱり君は心が詠めるでしょ」

「詠めないって。それしか残ってなかったんだよ」

 プリンはとてもありがたかったが、まずはプリンよりデザイン部へと向かった。

 常々「プライバシーマークを取得しよう」と提案していたものの、予算などの都合で先延ばしになったままだった。

 書類の扱いが酷く悪いわけではないが、「書類や資料は施錠できるところに片づける」という習慣がなかったことに今は感謝だ。

 遥は手にしていたノートをめくり、新しい表が書いてあるページで手を止めた。

「進行中の案件と、それに対する営業と企画の担当者をまとめてきたんだ。これでだいたいの目星はつけられるかな」

 あまりの手際の良さに驚いた。というか試験勉強するんじゃなかったの……。

「遥君はこういう探偵まがいの事になれているんですか」

「ううん、初めてだよ」

 人間同士の複雑に絡まった想いという、学生には縁遠いものを得られる絶好の機会だという。

「じゃ、始めます」

 名前や顔までは分からずとも指紋のように気配の識別を付けることができることを利用して、レシートやガラス片を詠んだものと照合する作業だ。

 机に置かれた資料や原稿を探し、終わったものは不自然にならぬよう元通りに戻す。

「遥君、体調は大丈夫ですか?」

 途中で心配になり、声をかけた。

「大丈夫。仕事への前向きな想いが伝わってきて気持ちが良いよ」

 私が想像するより、いろんな想いを辿るのだろう。

 前向きな気持ちは、面接などでまっすぐに伝えられると受け止めた時に心地よい。スキルや経験は入社してから身につけてくれればいいとさえ思える。

 しかし、悪意などの嫌な想いを感じてしまったら……。

「無理はしないでくださいね」

 粒は小さいものの、色とりどりの結晶が机の上に溜まっていく。この書類の中にこれだけの数の「想い」がこもっているということか。

 顔色は悪くないが遥は時折、額の汗を拭っていた。

 途中で休憩するように提案すると、遥は席を立って本棚やみんなのデスクを見て回った。

「へぇ、フィギュアとかミニカーとかぬいぐるみとか、みんな机の上にいろんなもの置いてるんだなあ」

「ガチャの景品を綺麗に置いている人もいますね」

「机の上見てると、なんとなく人柄が出てるもんだね」

「そうだ、社長室も見てみますか?」

「え? 良いの?」

「もちろんです」

 社長・経理室は人事部の隣だ。

「わぁ! なんかカッコいいな」

 遊びすぎない程度に藤田君らしさを出している。小型の望遠鏡や大航海時代を連想するセピア色の地球儀も置いてあって、心はいつも少年のようだ。

「このビルに移転する時に、人事部と社長・経理室の間の壁のこの部分に『忍者屋敷みたいなどんでん返しを付けたい』と駄々をこねたんですよ」

「あはは、付けてあげればよかったのに」

「予算の都合で諦めてもらいました」

 少し脱線して歩き回ってしまったが、気分転換にはなっただろうか。

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