復活
ツーリングが終わってしばらくした頃にスマホに電話。今さら、こんなところから電話って冗談だろうと思いながら出ました。だって追い出された元の職場からです。電話の内容は、
「シェフとして戻って来て欲しい」
悪い冗談としか思えません。今さらも良いところじゃありませんか。でも話を聞くと店は大きく変わってしまったようです。ナガトがスタッフをゴッソリ引き抜いてプレデンシャル・ホテルに移った話までは知っていましたが、その後に店がどうなったかです。
救済融資の引き上げを突然要求され、経営は完全に行き詰り、ついには身売りとなったようです。つまりオーナーが変わり、経営体制の建て直しをやってるぐらいでしょうか。それでもプルミエ・コミに過ぎなかったボクがシェフは唐突過ぎます。
これも事情を聞くと、ナガトの引き抜きで店のケーキの質がガタ落ちになったからで良さそうです。伝統の味を復活させるために、かつての味を知り、ノウハウも知っているはずのボクをシェフに迎えたいとの話でした。
言われてもプルミエ・コミに過ぎませんし、二年のブランクがあります。そんな大任は無理だと断ろうとしましたが、さらなる事情を話してくれました。店にも多数のOBやOGがいます。あの店で修行してから他の店に移りシェフやスーシェフとして活躍している人たちです。
店も当初はそういう人たちに再建を託そうとしたようですが、落ち目になるとは悲しいもので、現在の立場を投げ捨ててまで協力してくれる人はいなかったのです。いくら古巣とはいえ、落ち目の店の再建など、火中の栗を拾うようなものだと見られてしまったようです。
ボクもそういう立場にいたら同じような判断をしたかもしれません。そりゃ、失敗すれば経歴に傷が付いてしまうからです。でもそこまで聞いて引き受けても良いと思いました。ボクには失うものがないからです。
成功したら儲けもの、失敗してもこのボロ・アパートに戻って来るだけです。それに一度は断念したパティシエですが、やはり未練はあります。もう一度あの世界に入ってみたいの願望です。この機会を逃せば二度と戻れると思えないのです。
シェフ就任の要請を受け、二年ぶりに訪ねました。外見こそ同じでしたが、厨房はガタガタです。前オーナーはナガトにスタッフを引き抜かれた後に、雇われシェフでしのいでいたようですが、腕はどうもイマイチだったで良さそうです。
その時のスタッフさえ、身売りの時に離れて行ってしまい、残っているのはアプランティとコミのみ。つまりは行き場がなく留まっている者だけです。覚悟はしていたとはいえ、この状態でなんとかするのに途方に暮れそうな思いがしました。
店の体制は新オーナーになってから、少し変わっています。事務部門が強化されています。どうも前オーナー時代の末期には粉飾決算みたいなものに加担しただけではなく、横領まであったようです。
そのためにかつての事務員はすべて解雇になり、新たに雇い入れた事務員で作られています。その事務部門のトップが佐伯未散さん。歳の頃はボクより少し上ぐらいのはずですが、見るからにキツそうで、実際にもキツい人。
さらに言えば事務部門のトップなだけでなく店長なのです。店の再建は佐伯さんと二人三脚体制になるのでしょうが、上手くやっていけるかに不安を抱いたのは白状しておきます。付き合いにくそうな人の印象しか抱きようがありません。
佐伯さんは店長なのですが、どう言えば良いのかオーナーの腹心みたいなもので良さそうです。つまり佐伯さんの命令はオーナーの指示であり意向とすれば良いのでしょうか。そんな佐伯さんとまず再建方針の協議です。
早急になんとかしないといけないのは厨房です。ケーキ屋ですから、商品になるケーキを作らないと始まらず、商品になるケーキを作るには、それを作れるスタッフが必要です。今のスタッフではどうしようもありません。
ボクがシェフをするのは仕方ないとして、今のスタッフではスー・シェフは愚か、プルミエ・コミにも達していないのです。だから片腕になるスー・シェフ、せめてシェフ・ド・パルティが出来る人材を呼ぼうと言うのがボクの提案です。ところが佐伯さんは反対と言うか、頭から却下です。
「スタッフの育成もシェフの仕事のうち。不足分のアプランティの採用は認めますが、上位スタッフの招聘は認めません」
この女郎と思うほどの上から目線です。そんな悠長なことをやっている時間はないとの反論も、
「決定事項であり反論は認めません」
あまりの態度に辞表を叩きつけたくなりましたが、なんとかこらえてアプランティを募集して、頭数だけはそろえました。ですがボクの負担は強烈です。素人同然のアプランティや、素人に毛が生えた程度のコミを引き連れての仕事になるからです。さらにですよ、
「経営は待ったなしです。速やかなる成果を望みます」
無茶言うな! ボクはスタッフ教育と、本来のこの店のケーキの復活に忙殺されることになります。ボクだってシェフ・ド・パルティの手前まで行っていたので、それなりのものは作れますが、イチから一人で作るとなると時間がいくらあっても足りません。
それと二年間のブランクは小さくありません。どうしたって試行錯誤の時間が必要です。それなのに佐伯さんは、
「経営は趣味でも道楽でもありません。求められるのは成果だけです」
ムチで追い回されるとはこんなものかと思うほどです。とにかくスタッフが早く役に立ってくれないとボクの負担は増すばかりです。パティシエの世界も徒弟制で基本は見て覚えろなのですが、そんな悠長なことを言う余裕などなく、それこそ手取り足取りで叩き込みました。
半年ぐらい悪戦苦闘の末に、なんとかスタッフも回り始めました。速成教育なんてものじゃないのですが、一年はかかるのが常識のアプランティはコミになり、コミはプルミエ・コミぐらいにはなってくれています。もっとも佐伯さんは、
「やっとですか。次はドゥーブル・フロマージュを一刻も早く復活させること」
店名でもあり、店の象徴とも言えるケーキです。これは富良野のパティシエが発明した名品です。チーズケーキになりますが、名品とされるぐらいのアイデアと工夫が詰め込まれています。
もっともスタンダードなチーズケーキは、ベイクド・チーズケーキです。これはクリームチーズやマスカルポーネなどの柔らかくて塩分の少ないチーズと卵黄、小麦粉、コーンスターチなどを混ぜて型に流し込み、オーブンで焼いたものになります。欧米ではチーズケーキいえばベイクド・チーズケーキを指すほどです。
これに対しレア・チーズケーキもあります。生クリームとクリームチーズを混ぜ冷やし固めたチーズケーキです。これだけでは柔らかすぎますから、通常はパイ生地などの上に載せて出します。
ドゥーブルとはダブルの意味ですが、基本はレア・チーズケーキに近いかもしれません。なぜならパイ生地の代わりにベイクド・チーズケーキを使うからです。つまり一つのケーキに二種類のチーズケーキが二層をなしているのでドゥーブルと呼ばれるのです。
これにさらなる工夫がありまして、ドゥーベル・フロマージュの場合はレア・チーズケーキではなく、マスカルポーネのムース仕立てになっています。これは上層と下層の食感の対比をより強調するためです。
基本はこんな感じで、作ろうと思えば家でも作れます。ですが二層とも工夫すべきことは山のようにあります。ボクも記憶のすべてを搾り出してかつての味にまず近付けました。時間はかかりましたが、かなり近いものになったはずです。
ですがボクが作りたいドゥーベル・フロマージュはこれではありません。かつての味を踏まえた上で、さらにその上の新生ドゥーベル・フロマージュを作り上げる事です。なぜなら、ナガトはかつてのドゥーベル・フロマージュなら作れるからです。
ドゥーブル・フロマージュの再生にはやはり時間がかかりました。ボクだって作り方のノウハウのすべてを知っている訳でなく、試行錯誤の末に身に付けざるを得ないからです。もちろんドゥーブル・フロマージュだけに専念できる訳じゃありません。他のケーキや焼菓子の復活改良にもひたすら追われます。佐伯さんは相変わらず、
「欲しいものは成果だけです」
このぉ、口を出すだけなら誰でも出来るわ。ケーキは会議室じゃなく、厨房で作るんだぞ。オーナーの威を借りる女狐め。いつか、この恨みを果たしてやる。それでも一年を過ぎる頃に改良版のドゥーブル・フロマージュはついに完成。
看板メニューの新たな復活は評判を呼んでくれました。他の改良ケーキの評価も上々で、かつてのファンが戻って来てくれています。素人同然だったスタッフも良く付いて来てくれて、まだとりあえずですがスー・シェフやシェフ・ド・パルテイもこなせるぐらいに成長してくれています。
我ながら、たった一年ちょっとでよくここまで来れたものと感心しています。だって一年前は、あのボロ・アパートで明日の食費を心配する生活でしたからね。ただ佐伯さんは、
「合格点に達したことは認めてあげる」
あのなぁ、もうちょっと褒めてもエエやろが。
「これぐらいはドゥーブル・フロマージュのシェフとして最低限求められた事と知りなさい」
オーブンで焼いたろか。
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