初恋

夜行性

第1話 ミネット


 若い娘はそわそわと落ち着きのない様子で、店の入り口を何度も見やっては、期待が外れてそっと俯く。そんなことをもうかれこれ三十分も繰り返していた。そんな娘に店主の初老の男が声をかける。


「おやミネット、誰か待っているのかい?」


 店主の問いに、ミネットと呼ばれた娘は躊躇いながら答える。


「あの人、今日は来るかしら?」


 店主は首を傾げて逡巡する。しばらく考えてからああ、と納得した。


「わかったよ。あの人だね? お前が待っているのは」


 そうかそうか、と頷きながら言う店主に、娘は嬉しそうに答えた。


「そうよ! あの素敵な人」



      *****


 

 今日は朝から雪が降っていた。まだ春の兆しもない二月の雪は冷たく、空もどんよりと暗く低かった。大学での講義も終わった午後、大抵の者はそんな天気に落胆して、すごすごと自宅へ引き揚げていったが、サタンにはこんな日が好ましかった。


 街の喧騒も鳴りを潜め、足音さえも雪に吸い込まれて消えていく静かな午後。そんな日に決まって足を運ぶ、お気に入りのブックカフェへ行こうとサタンは朝から決めていた。名作から意外な新作まで品揃えはサタンの好みに合っていたし、丁寧に淹れられたコーヒーは読書の友に最適だったから。


 キュッキュと小気味のいい音を鳴らす雪を踏み締めながら人気のない街を歩き、目当ての店の重いマホガニーの扉を押し開けると、コーヒーとシナモンの香りが漂い、暖かな空気が冷えたサタンの鼻をふわりとくすぐった。


「いらっしゃいませ、寒かったでしょう。暖炉のそばへどうぞ」


 カウンターの向こうから店主の男がサタンに声をかけると、娘がちらりとサタンを見やってから暖炉の前のソファまで案内した。コートを脱いで腰を下ろしながらサタンは娘に声をかける。


「ありがとうミネット」


 娘はサタンを見上げて目を丸くすると、そそくさと店主の元へと戻っていった。


「なんだい、待ち人が来たっていうのに愛想のない。ちゃんとおもてなしをしておいで」


 そう店主に言われてミネットはぷいとそっぽを向いて小声で答えた。


「いいの、邪魔しちゃいけないから」


店主は目を細めて笑うと、そうかい、と呟いた。


 冷えた指先がコーヒーで暖まると、サタンは立ち上がって書架の前へ行き新しい発見を求めて本を吟味した。店主が長年かけて集めた貴重な本は、書店ではもう手に入らないものが多い。サタンは書架から慎重に一冊を選び取るとソファに背中を預けてページをめくった。一ページ二ページと読み進めるうちに、サタンの意識は物語の中へと深く沈んだ。

 

 サタンは人間界の物語を好んで読む。いや、今でこそ夢中で読み耽りもするが、初めは恋、嫉妬、憎しみ、悲しみ、目まぐるしく移り変わる人間の感情表現はサタンにとって全く理解できない代物だった。時には呆れ、時には苛立ちながらも数々の物語を読み漁り、人間というものがいかに愚かしく哀れなものかを学んでいった。人間はいつも恋に浮かれ、誘惑に弱く、嘘つきで強欲だった。


「全く、人間とは馬鹿な生き物だな」


 だからこうして俺たちに惑わされ、くだらない欲望のために魂までも売り渡すのだが、とサタンはその皮肉な因果を嘲笑わらったものだった。あの人間に会うまでは。


 その人間は奇妙だった。サタンら悪魔の兄弟たちがいつものように脅せば怯えて震えたし、誘惑を試みれば簡単に頬を染めて俯いたが、魂だけはいつまでたっても悪魔の手が届かないところで光り輝いていた。


 こじ開けて奪い取ってしまおうとも考えた。だがその眩しさに触れるのを兄弟たちはみな躊躇った。

 その体は脆くてほんの少し力を込めれば簡単に砕けてしまうくせに、誰かを庇って迷いもなく体を投げ出す。そのまるで合理性のない行動に、サタンはいつも苛々させられた。その人間を見ていると無性に腹立たしくて、気づけばサタンはその人間を無意識に避けるようになっていた。


 魂ごと憤怒の炎で燃やしてしまえば気分が晴れるだろうか、とさえ思いながら。

 


     *****

 


 ミネットはいつものように、少し離れた場所からサタンを見つめていた。読書の邪魔にならないように、気付かれないようにさりげなく。


 彫刻のように端正なその横顔の、俯いて伏せられた瞼と睫毛の陰で、サタンの瞳が本の文字を追っている。ときおり無意識に眉をひそめたり、親指で唇に触れたりするのを眺めて、ミネットは目を細めた。


 いつもと違うその変化が訪れたのは突然の事だった。ミネットがサタンを視界の端に捉えながら小さく欠伸を噛み殺したその時、静かに活字を追っていたサタンの両目から涙の滴が音もなく溢れると、その滑らかな頬を伝ってぽつと一滴、広げた本のページに落ちたのだ。


 ミネットは驚いて目を見張ったが、サタン本人はそれ以上に驚いたようだった。突然落ちて来た滴でページに小さな染みが出来、何事かと顔を上げてしばらく不思議そうにした後、自分の頬に触れてそれが涙であることに気が付くのにしばらくかかった。


 呆然と濡れた指先を眺めたサタンは、なみだ、と小さく呟いてからふっと微かに笑った。


 確かに笑ったが、ミネットはその時サタンが苦しげに眉根を寄せるのを見逃さなかった。


「ああ、あなたもしかして」


 ミネットはため息をつきながらそっとサタンのそばへ行き、サタンが手にしている本が悲しい恋の物語なのを見て納得した。固まった様に動けずにいるサタンの手にそっと自分の手を重ねると、驚いたサタンがミネットの顔をじっと見つめ、ミネットもまたサタンの瞳を静かに見つめ返した。


「あなた、恋をしてるのね」 


 ミネットがそう囁くとサタンはハッと我に返り独り言の様に呟いた。


「……俺が?」



     *****



 店主は、静かな客が暖炉の前で眠ってしまったのに気がつくと、膝掛けを持って彼のそばへ行った。ソファに深く凭れていても、いつもどこか緊張感のある美しい姿で本を読んでいたその客は、今日は随分とリラックスして、半ばソファに横たわっていた。胸の上には読みかけの本が伏せられており、静かな寝息に合わせて微かに上下している。


「おやおや珍しい」


 ソファに投げ出された脚の間には、美しい銀色の毛並みの猫がうずくまって目を細めながらくるくると小さく喉を鳴らしていた。


「お前もここにいたのかい」


 その猫はとても賢くて美しく、店を訪れる客に愛されていたが、あまり人に懐かず誰にも触らせなかったし、姿さえ見せない日もあった。それがこうして客の膝で寛いでいるのを店主は初めて見た。


「外は吹雪いて来たようだし、もう少しこのままにしてあげようか、ミネット」


 店主がそう話しかけると、猫はサタンの膝に顎を乗せてゆっくりと目を閉じた。

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