ひきこもりの女神様、日出ずる国で食べ歩く

かがわ けん

ヘスティアー動く

第1話 女神様 思い立つ

 私は思い煩っていた。自分の存在そのものに。

 炉の前に腰掛け、髪を人差し指で玩びながらじっと炎を見つめる。そして懐から小さな鏡を取り出すと、自分自身と向き合った。


 荘厳なるオリンポス神殿の中央で静かに佇む炉。その炎に照らされ薄紅色に染まるその顔は、悠久の時を経て尚ポセイドーンとアポローンを魅了した美しさと若々しさを保つ。やや幼さの残るその容姿はうら若き乙女と変わらない。神々をも魅了する絶世の美少女。だがその形容詞が更に虚しさを際立たせる。


「はあ」

 天を仰いで嘆息する。そして静かに過去を振り返った。

 私は仕事に神生じんせいを捧げて来た。神代から今日に至るまで欠かさず炉を守り続けている。悠久の時を仕事に捧げ、不満も漏らさず与えられた役割を全うした。


「それなのに……」

 私はになっていた。それはもう見事なまでに。

 自身をを称える叙事詩や寓話はほぼ存在しない。伝承ですらごく僅かだ。戦争や恋愛は民草への訴求力が高い。含蓄のある寓話もそうだろう。これらの存在しない私は民草から当然のように忘れ去られた。

 しかし私にも言い分はある。最も民草の生活に密接な存在は誰なのかと。


 私は炉の守り神であると共に家庭の神であり竈の神でもある。これ以上民草に身近な神など存在しない。ならば何故なにゆえ取り残されたのだ。

「まあ、心当たりが無い訳じゃないけどね」

 私は炉を守る為、神代から一度も外出をしていない。元祖にして最長、他の追随を許さぬ筋金入りのであった。

 更にポセイドーンとアポローンの求婚を断り生涯独身を貫いている。

「これじゃ物語にならないわ」


 いっそ炉を守る仕事を放棄してしまおうかと逡巡する。世の中から次々と炉が消え、現代人の生活には竈など必要ない。火すら使わず調理できる時代だ。炉を離れて出歩こうと民草の生活には全く影響しないであろう。

「でもここで投げ出したら私の神生って何だったのってなるし」

 正直仕事への未練はある。そう語ると大袈裟だが、ここまで続けたものを投げ出すのが癪なだけだ。

 仕事一本で恋愛も子を持つ喜びも放棄し、ひたすら閉じ籠り下界の事情は一切分からない。挙句の果てには巫女から『情弱ぼっちヒッキーのヘスティアー』などと陰口を叩かれる始末である。


「そんな女神が存在してもいい訳?」

 神殿に私の悲痛な叫びがこだまする。だが情弱の私に打開策など思い浮かぶはずもない。信仰を取り戻し、全ての家庭に炉を復活させるなど非現実的だ。ゼウスですらかつての信仰を失っている現状では私など望むべくもない。


 両膝を抱え体育座りの格好になる。そしてゆらゆらと前後に体を揺すり始めた。物思いに耽る時の癖だ。過去幾度も繰り返した己の存在意義との格闘。だが、今日に関してはこれまでとは違った。


 昨日天界の炉にいる際、私はディオニューソスからある話を聞かされた。

 ディオニューソスは豊穣と葡萄酒の神。自らも葡萄酒を嗜み、美味い肴に舌鼓を打つ。そんな舌の肥えた彼が現在絶賛ドハマり中なのが日本食だと熱く語っていた。

 日本食ブームはギリシャのみならずヨーロッパ中、いや全世界中を席巻していると自らの手柄の如く語る。あの食に関してプライドの高いイタリア人やフランス人までをも虜にする日本食は、食の価値観を根底から覆す味とアイディアに溢れていると豪語した。


「ディオニューソスの舌を疑う訳じゃないけど、イタリア料理より美味しい食べ物なんて存在するの?」

 こんな私でもイタリア料理は知っている。何故ならローマでも別名で信仰されており、国家を大きな家庭と見做した際の鎮護神として崇められていたからだ。故にイタリア料理は何度となく口にしている。


 本音を言うとギリシャ料理よりイタリア料理の方が好みだ。特にトマトと唐辛子が伝来して以降のイタリア料理こそ、世界最高の料理だと確信している。しかしディオニューソスは、日本食はイタリア料理をも凌駕するとはっきり言い切った。


 更に別の事実が私を驚嘆させた。

 何と日本では悠久の時を経てなお、主神たる天照大神が絶大な信仰を集めていると言うのだ。それだけではない。他の神々の多くも篤い信仰を集めているらしい。ディオニューソスから聞かされた時は、俄かに信じられず、暫し言葉を失うほどだった。


「よし、決めた」

 ゆらゆらと前後に揺らしていた体をぴたりと止める。そして煌々と輝くローブを翻し、ゆっくりと立ち上がった。

「私、日本に行く。日本に行って日本食をとことん食べ歩くわ。食は文化そのもの、人々の暮らしや風俗を写す鏡の様なものだもの。日本食を探求して日本とは、日本人とは何かを明らかにしてみせる」

 私の心の炉に熱く赤い火が灯る。

「そして未だ神々が信仰されている秘密を解き明かすの。流石に全盛期の信仰を取り戻すのは無理としても、ほんの少し思い出してくれるだけでいい。炉のあった頃の家庭を、笑顔と愛に溢れる食卓を……」


 誰もいない神殿に声が響く。それは私を鼓舞するかのようであった。

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