二つに割れた、鍵の片割れ
「……以上でHRを終わる。みんな、気を付けて帰れよー」
太郎のクラスの担任は初老の男性だ。良くも悪くも適当で、HRを早く終わらせるので生徒からの人気は高い。時々、連絡事項を言いそびれることもあるのだが、連絡事項をきっちりと報告する誠実さは、多くの生徒からは求められていない。
太郎は持って帰る教材を鞄の中に仕舞った。今日は掃除当番の担当ではないので、そのまま文芸部の部室に向かう。相変わらず、雨は止まない。廊下でたくさんの生徒とすれ違う。掃除をしている生徒、これから部活に行く生徒、そのまま帰る生徒。皆が一様に笑顔で、楽しそうだ。
雨音と雑踏の声が混じった、ゴチャゴチャという音が太郎の周りを囲む。太郎にとってそれは理解不能な言語のようで、自分の胸の中をとても搔き乱すものだった。静かな場所に行きたくて、早足で部室まで急ぐ。濡れた廊下に足を取られ、何度か転びそうになった。
「はぁっはぁっ……」
心臓がドンドンと脈打っていく。周りに人がいるのが耐えられない。自分がどんな風に見られているのか、他人から認証されるのが苦痛で仕方がない。
見ないでほしい。どうか僕のことを、見ないでほしい……!
部室の前までたどり着く。相変わらず、太郎の動悸は激しいままだ。今も、どこからか見られてるんじゃないかと不安で仕方がない。
部室の鍵は開いていた。どうやら、既に誰かが鍵を開けてくれていたようだ。そのまま、引き戸をガララと開ける。
しかし、教室には誰もいなかった。シンとしていて、無機質なパソコンが並んでいるだけだ。それが、今の太郎にはとても有難い気がした。
教室に入り、扉を閉める。生徒の喧騒はかなり遠のいた。
「はぁっ……、んぐっ」
しかし、動悸はまだ収まらない。自分がいつもいる教室の端の席に座ってもどうにも落ち着かない。
雨音だ。自分が座っている席のすぐ横にある窓を見る。聞こえている雨音が、今もずっと太郎の心に触れ続けている。雨粒が水面に波紋を立てるように、雨音が太郎の心を乱す。
太郎は両手で耳を塞いだ。しかし、雨音が聞こえなくなっても波紋は消えない。ずっと心が波打ったままだ。耳を塞いでも自分を乱すそれに、どう対応していいのか分からない。どうすれば消えるのか分からない。そんなことを考えている間にも、鼓動はどんどん速くなっていく。寒気がする。冷や汗が滲んでくる。
寒い。心臓が打つ。胸が痛い。聞こえてくる。耳を塞いでも、何かが。誰か。誰かこれを、止めて。
頭に痛みが奔る。目の前にあるパソコンの画面が歪んだ。手足の先の感覚が、スゥーっと無くなっていく。手が、耳から離れない。
やがて、視界が完全にブラックアウトした。
うるさい。うるさい。どうして。自分は。この家庭に。なんで。どうして。うるさい。うるさい。家も。親も。他人も。何も。
――僕を、縛り付けないで。
「……い」
トントンと。太郎は肩に刺激を感じた。
「……先輩」
それは、暖かい感触がして。今の自分に一番足りていないものを、与えてくれる気がした。
「成江先輩?」
その声がハッキリと聞こえた時、太郎は自分の耳から手を離すことができた。
聞こえていたものが、全てどこかに流れていったように消えた。耳を塞ぐと聞こえていた音が、手を放すと聞こえなくなった。視界が、体温が、返ってくる。目が覚めたように、周りの風景が見えた。
雨音が、静かな教室に渡っている。生徒の喧騒が、遥か遠くから聞こえてくる。
「先輩、大丈夫ですか?」
声がした方を振り向くと、志季がいた。太郎の顔を覗き込み、とても心配そうな顔をしている。
「気持ち悪いなら保健室に行きます?」
覗き込んできた志季の顔が近い。大きい目と、赤い唇。小さい顔。
水田さんってやっぱり可愛いなぁ……。
ぼんやりとそんなことを考えている自分にハッとした。身近な存在の女子に可愛いなんて思うことが、とてもやましい行為な気がして、誤魔化すように口を開く。
「べ、別に大丈夫だよ。ちょっとめまいがしただけだから……」
それを聞いた志季は、途端に細目になった。頬も少し膨らませ、何か言いたげな様子である。
「……何か隠してませんか?」
「え? あぁっ、えーっと……」
自分の虚栄を見抜く鋭い指摘に太郎は少したじろぐ。どうにも、志季の目を見ることができない。全て暴かれてしまいそうだ。
曖昧な太郎の返事を聞いて、志季は更に追及してくる。
「何か隠してるなら、言ってほしいです。先輩、ただごとじゃない様子でしたから」
「い、いや本当に何もなくて……」
詰めてくる志季に対して、太郎はそれから逃げるように椅子を引く。少しだけ距離と取ろうとした太郎の手を、志季は素早い動きで掴んだ。
「え?」
「先輩」
椅子に座っている太郎と立っている志季の視線がビタリと合う。志季の顔は先程とは違い、可愛さの中に真剣さを含んでいた。とても力強い眼差しで、太郎を見ている。
「私は、先輩の力になりたいんです」
太郎はその言葉に衝撃を受けた。まるで、木槌のハンマーで胸を叩かれたように、太郎の心が大きく跳ねた。
「ち、力……?」
自分が、なぜこんなにも志季の言葉で衝撃を受けているのかが謎だった。太郎は、喉からやっとの思いで声を絞り出す。
志季は、掴んでいる太郎の手を強く握り、口を開いた。
「そうです。力、です。力になれるかどうかは分からないけど、私は先輩が困っていたらそれを助けたいって思うんです。思ったんです。だから。もしよければ。先輩が抱えてる悩みがあるのなら。それを教えてはもらえませんか?」
志季が出した言葉。晒した思いの丈は、太郎にとって未知の衝撃を与えた。しかし、その衝撃は間違いなく暖かかった。
太郎が教室を出た時からずっと感じていた、体をざわつかせ心を乱す衝撃ではなく、とても暖かく安心する衝撃だった。もう少し、この衝撃に浸かっていたいとさえ太郎は思った。掴んでいる志季の手が、安らぎを与えてくれているように感じた。
そのまま、志季と見つめあう。やはり志季は可愛い顔をしていると思った。真剣な表情も、とても似合っていた。
「………………」
「………………」
見つめあう。途中から太郎は、志季の顔を見つめるのに夢中になっていた。暖かなぬるま湯に、ボーッと入っている感じだ。
「…………あ、あの」
しばらく眺めていると、志季の顔が少しずつ赤味を帯びてくる。頬の真ん中がほんのりと。まるで、のぼせたように。
「せ、先輩……?」
太郎はまた、その声を聞いてハッとしたのだった。
「っ……!」
ずっと眺めあっていたのが急に恥ずかしくなって、素早く顔を逸らす。恐らく、太郎の頬も今は真っ赤になっているだろう。
「え、えっと……。水田さんは優しいんだね……」
顔を逸らしたまま、そんなことを言う。ただ、この発言自体は照れ隠しでもなんでもなく、太郎が本当に思ったことだ。
困っている人を助けたいなんて、水田さんは本当に良い人なんだな。
可愛らしく、明るく、その上優しい。そんなイメージを志季に抱いていた。志季なら、困っている人を助けるに違いないというイメージも持っていた。
そのイメージを持っていたからこそ、太郎は。
今、自分自身が困っている人なんだという認識を受けた。志季が助けようと思っている自分は、困っている状況に陥っているんだという認識を強く受けた。
「優しくはないですよ。私がやりたいからやってるだけです。……だから、よければお話、聞かせてもらえませんか?」
太郎はそうやって自分を客観視できたからこそ、志季に自分のことを話してみようかと思えた。
「……分かった。水田さんが、そこまで言ってくれるなら、僕も話そうと思う」
逸らしていた顔を志季の方に向ける。すると再び、彼女の顔が見えた。真剣な表情をしている。やはり、似合っていると思った。
「でも、僕のことなんて誰にも話したことないから、上手に話せるか分からない。あと、今日話すことは他の人には言わないでほしい。それでも、いい?」
太郎のお願いに、志季は「もちろんです」と頷く。志季とは、彼女が高校に入ってきてから数か月間の付き合いだ。それなのに、どうしてこんなに信頼できるのだろうかと疑問に思った。
ただ、今そんなことを考えていても仕方が無い。太郎は、自分のことを話すことにした。少々、不器用ながらでも。自分の気持ちを吐き出すことにした。
「……僕の家庭環境は、普通とは言えないものなんだ。母は躁うつ病。余り両親の仲が良くなくて、父は母に暴力を振るうこともある」
太郎自身でも、こんなに重い話始めはどうかと思っていた。かなりプレイベートな内容は、もしかしたら志季を驚かせてしまうかもしれない。
しかし、話を聞いた志季は驚いた様子もなく、依然として真剣な面持ちで太郎を見つめている。続きを聞こうとしている。
それを見て、太郎は安堵した。この人には話して大丈夫だという気持ちが大きくなる。
「小さい頃からそんな家庭で育って、そんな両親を見てきて。僕はずっと、自分が不自由だと思ってきた。家に帰るのが嫌なのに、家に帰らないといけない自分は不自由だと」
「……そうなんですね」
そうやって相槌を打つ志季の顔は、先ほどより少し柔らかくなっていた。一言一言、丁寧に話を聞いている。
「うん。……でも、最近。なんとなくだけど、自由になりたいって思うようになってきたんだ。今まではそんなこと、思ったことも無かったのに」
太郎も、自分のことを志季に説明しながら、言いたいことの要点をまとめていた。
人に話すことでようやく、自分の中に存在していたしこりが浮き彫りになっていくような感覚だった。初めて、悩みを人へと打ち明けるメリットを知った。
「そうやって自由になろうと思ったからこそ、最近 不安になることがあるんだ」
自分が何に追いつめられていたのか。先ほどまで感じていた胸のざわめきは一体何だったのか。志季に境遇を話すことで、それの正体を何となくではあるが、突き止めることができた。
ちゃんと自身の心の整理を、することができた。
「なんで不安になるんですか?」
志季が言葉を促すように、太郎に問いかけた。自分の中にある悩み、それを言ってしまうことに太郎は少しだけ躊躇ったが、関係ない。躊躇ってしまうような自分を消すために、太郎は口を開けた。
「自分が、自由になれないんじゃないかって思うんだ。それで、不安になる」
それを聞いた志季は、少しの間 視線を外してどこかを見た。どうやら、考え事をしているようだ。しかしすぐ「んー……」という声とともに再び太郎の方を向いた。
「分からないです。理由、教えてくれますか」
「うん。僕も、明確なこれっていう理由があるわけじゃ、別にないんだ。でも、どうしてか自分じゃ自由になれないんじゃないかって思ってしまう、心のどこかで。僕ではどうせ、両親のような人生になってしまうんじゃないかって」
志季はそれを聞いて、また少し考えているようだ。顎に手を当てて、少し下を見ている。窓の外には、風にしなっている木が見えた。どうやら雨風は更に強くなっているらしい。
「……私は、先輩の気持ちを全て理解することは出来ないです。普通の家庭で、大した悩みもなく育ってきたので……。だから、間違ってたら言ってください」
そう前置きをして、志季は口を開いた。
しっかりと、太郎の目を見て。
「先輩は、自由になった経験が無いから、自由になった自分が想像できないんじゃないかって、私は思いました。だから、自由になれないって思い込んじゃうんじゃないかって」
太郎はそう言われて、最初はあまりピンと来ていなかった。それこそ、少しだけ僕の気持ちなんて分かるわけない、と思ったことも確かだった。しかし、その言葉を頭の中で何度か反芻してみると、確かに自由というものを人生において自分が感じたことは、あまりないように思った。
そう考えるとなるほど、自分は自由をどうやら知らないらしい。そして、知らないものを想像するということも、志季の言う通り難しい。そう思った。
素直に、とても素直に。太郎は、目の前の後輩に関心をした。
「確かにそうかもしれない。……自分じゃ全然気づかなかった」
すると、志季は微笑んだ。その顔はとても優しくて、ついつい甘えたくなってしまうような雰囲気だ。年下だとは思えないほど、包容力があった。
「えへへ、よかった。私は、先輩のお力になれそうですか?」
笑いながらそんなことを言う志季。正直、反則だと思った。直接的に可愛いと感じてしまう。相談に乗ってもらっているのに、そんなことを思うのはやましい。胸に手を当てて、なんとか鼓動を鎮めようとした。
「……うん。現に、こうやって話を聞いてもらえるだけでかなり楽になった気がする。なんというか、ごめんね。悩みなんて、聞いてもらって」
それを言ってから、文章が皮肉っぽくなってしまっていることに太郎は気づいた。慌てて「あ、ごめん……」と訂正しかける。しかし、志季はなおも笑っていた。
「大丈夫ですよ。先輩がそういう人だっていうのは、ちゃんと分かってますから」
更に、その言葉の後に彼女は付け足す。
「私は、先輩の助けになりたかったので。先輩が助かったと思ってくれれば、とても嬉しいです。先ほども言ったように、私は。やりたくてやっているだけ、ですから」
雨音がザーザーと、相も変わらず鳴っている。雨は強く、外のヒンヤリとした空気が、窓を貫通して教室まで入ってきそうだ。
しかし、もしも教室まで入り込んできても。志季の周りは変わらずに暖かいに違いない。そう思った。
相談に乗ってもらったことで肩の荷が下り、かなりリラックスすることができた太郎は、大きく伸びをした。
「んっー!」
その拍子で部室全体を見渡すと、あることに気付く。
「あれ、そういえば。他の部員は?」
もう、放課後になってからかなり経っている。それなのに、未だに部室には太郎と志季の二人しかいなかった。
質問を受けた志季も、どうしてか分からないようで首を傾げている。
「そういえば、僕がここに来た時には既に部室の鍵は開いてたんだけど、あれは水田さんがしてくれたの?」
その質問には、志季は元気に答えた。
「はい、私が開けました! 鍵を返しに行って、部室に戻ったら先輩がいたって感じです」
「そっか。鍵、ありがとうね」
そんな会話をしていると、志季が着ているシャツの胸ポケットから、スマホの通知音が聞こえた。
「ん? ちょっとすみません……」
スマホを取り出して通知を確認する志季。画面を何度か触り、「えっ」という驚きの声を漏らしていた。
「どうかしたの?」
「何で気づかなかったんだろ……。先輩、これ見てください」
志季は太郎に、彼女のスマホの画面を見せた。そこには文芸部のグループラインが表示されている。
そして、太郎と志季以外の部員全員の、今日は暴風雨のため部活を休みますという旨のメッセージが書いてあった。
「え……」
慌てて太郎も、自分のスマホをズボンのポケットから取り出して確認する。
当然だが、文芸部のグループラインに同じ文章が投稿されていた。
「先輩の話を聞くのに集中してて全然気づきませんでした……。先輩も気づかなかったんですか?」
「いや、僕はその……。文芸部のグループの通知、切ってるからさ……」
「あ、そうなんですね」
どうやら、今日の部活は最初から最後まで志季と二人らしい。先ほど悩みを聞いてもらっていた手前、ずっと二人というのがどこか恥ずかしく感じる。
志季もそんな気まずさを感じているのだろうか。雨が激しく打ち付けている窓を見ながら。
「二人ですね」
そんなことを呟いた。
「……そうだね」
と、相槌を返しながら。太郎は、気恥ずかしさを晴らすためにパソコンと向き合おうとした。すると、志季に待ったをかけられる。
「先輩。そういえば、ラインの交換とかってしてませんでしたよね?」
「え?」
言われてから、しばらく考える。確かに、太郎の記憶には、改まって二人でラインの交換をした記憶はなかった。
「あー、えっと。多分、してない」
「なんですかその、多分っていうの」
志季は微笑んだ。
「はい」
そして、先ほどと同じようにスマホの画面を太郎に向けた。その画面には、QRコードが映っている。ラインのアカウントを交換するときに、読み込ませるものだ。
「交換しましょう。先輩!」
屈託のない笑顔だ。本当に、笑顔が絶えない子だと思った。
「うん。分かった」
そう言いながらスマホを操作して、志季のアカウントを自分のラインに登録する。こんなに気軽にラインの交換を申し出ることができる志季と、ラインの友達数がかなり少ない自分との間に、高い壁を感じる。
談笑しながらも、気づけばかなり時間は進んでいた。二人は会話をいいところで切り上げて、部活動に集中し始める。自分の悩みを打ち明けたからか、いつもより集中できる気がする。
そして執筆も順調に進み、二人は下校時間が近づいてきたので、教室の鍵を返して部室を後にした。
「今日は雨が凄いし、見送りは大丈夫です。少し、残念ですけど……」
部室から下駄箱までの間、志季は小さい声で言った。下校前の学校の階段は電気もついておらず、暗い。その上、雨が降ったせいで濡れている。つまずかないように集中しながら、太郎は答えた。
「うん、了解」
立て続けに、志季への感謝を述べる。
「今日はありがとう。水田さん優しいから、きっと色んな人の相談とか乗ってるんだよね。お疲れ様。水田さんも、相談聞きすぎて自分が参っちゃわないように気を付けてね?」
それを言い終わると同時に、階段も下りきった。後は廊下を渡って下駄箱に行くだけだ。そんなことを思っていると、隣の志季が呟く。
「……こんなに親身になるの、先輩だからですよ」
一瞬、太郎は聞き間違いかと思った。
「……え、今なんて」
「それじゃあ先輩、また明日です!!」
聞き直す前に、志季は元気に廊下を走って行ってしまう。
「こ、転ばないように気を付けてね!!」
思考も身体も置いて行かれた太郎は、咄嗟にそんな言葉しか出なかった。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、しばらくその場所に佇む。校内を巡回する警備員の人に「さようなら」と言われてやっと気を取り戻し、赤ら顔を隠しながら下駄箱に急いだ。
雨と風は、相変わらず強さを増していた。
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