第4話 医者の卵になるためには

 ずうっと前から恐れていた日がやってきた。

 解剖実習である。

 本来の授業ではない。臨床境界限界倫理学などというわけの分からないゼミの課題として用意されたものだ。このゼミの担当教授は学内で知らない者のいないあの浜口教授である。


 どうしてこんな学部に入ってしまったのかと言うと、吉村が悪い。

 うちの医大のゼミは定員制で、定員に達した順に締め切られる。だから学部の新ゼミ生の募集が始まったときには真っ先に人気のゼミへと駆け込む必要がある。出だしが遅れれば遅れるほど、誰も選ばない難のあるゼミしか残らなくなる。

 それは俺も鬼口も承知していたので、当日は早めに家を出て電車に乗って医大に向かった。

 だが一つ計算違いがあった。

 吉村である。たまたま電車でこいつと乗り合わせたのが運の尽き。奴が電車の中でありとあらゆる変態行為をおっぱじめたお陰で、電車は見事に遅延したし、おまけに何の関係もない俺と鬼口まで警察に逮捕されてしまった。

 ようやく釈放された俺たちに残されていたのは、先輩たちの間で最悪と称される浜口教授のゼミだけだったという次第だ。

 なにぶんこの教授のゼミに配属されたゼミ生は一年経たない内に大学を辞めるか、あるいは黄色い救急車に乗せられてどことも知れぬ場所に消えるか、大学の時計塔の上からパラシュート無しで飛ぶかのどれかになるという噂なのだ。

 吉村もあのとき警察に捕まったはずなのに、いったいどうやったのか俺たちより早く出てきて、目的のゼミに滑り込んだ。

 あの野郎。今思い返しても腹が立つ。これでは俺と鬼口だけが被害を受けたことになるではないか。

 もっとも吉村が入ったゼミは今年から始まった特殊性癖心理学というゼミであり、名前のインパクトから誰もが恐れて近づかなかったゼミだ。俺たちはそれを変態医学ゼミと呼んでいる。


 そしてついに恐れていたこの日がやってきた。

 この解剖実習は大学のカリキュラム以外のものでうちのゼミだけの特別授業だ。

 臨床境界限界倫理学は死の間際の医療に関する何やら特殊な分野らしく、その担当範囲の一つが死にたての死体となっているらしい。

 うう、何てえ話だ。あのとき吉村と同じ電車になりさえしなければ。

 どこかのフライドチキン・チェーンの店頭に置いてあるおじさん人形そっくりの浜口教授が白い顎鬚を撫でながら、ゼミ生の部屋に入ってきた。

「君たち用意はいいかね?」

 俺と鬼口が立ち上がった。それと同じゼミ生の山本もだ。

「全員揃っているな。よし、君たちついてきなさい」



 浜口教授に連れられて随分と歩いた。隣の隣の隣のそのまた隣の外れにある学部練だ。かなり古い建物で第二次世界大戦の頃に建てられたという噂がある。それを繰り返し補修して今もまだ使っているというわけだ。

 その建物のこれも煤けた階段をなんと三階分も降りた。この建物に地下があるというのも初めて聞いたが、こんな冷たく暗いところで死体を解剖するというのに俺はちょっとばかりブルった。

 地下は冷たい水滴が天井からときどき垂れていて、床はカビに覆われている。古ぼけた証明が頼りないオレンジの光を投げかけている。壁に走るヒビがどことなく人の顔に見えるのがとても嫌だ。

 その奥の奥に目的の部屋があった。浜口教授が鍵を取り出すと重い金属の扉を押し開ける。

 周囲を濁った色のコンクリートで囲まれたかなり大き目の部屋には、壁一面に金属の扉が並んでいた。アメリカのドラマに出てくる警察の死体安置所に並んでいるあれだ。

 中央には大きな金属の手術台が置かれている。その周囲のテーブルにはメスの類からノコギリまで、ありとあらゆる手術道具が並べられていた。

 芳香剤の匂いがやたらと鼻につく。それとアルコールと後は微かにホルマリンの匂いがした。

 最低の気分だ。

「浜口教授。実習室なら他にもあるのにどうしてこんな所でやるんですか?」

 俺は思わず尋ねてしまった。

 浜口教授はどこかのテレビに出てくるおじさんそっくりの白い眉毛の片方を上げてみせた。

「そりゃ中山君。せっかくの死体の解剖なんだからそれらしい雰囲気の方がやる気が出るだろう?」


 浜口教授。それは要らないお世話です。そう言いかけた言葉を俺はぐっと飲み込んだ。単位のためには我慢我慢。ここで放った迂闊な一言で単位は消える。自分がこの世で一番偉いと思っているから、まったく自制が効かない。大学教授というのはそういう種族だ。


 浜口教授は机から書類を取り上げて指示を出した。

「2ーAの扉を開けて中身をここへ。鍵はかかっていないはずだ」

 俺と鬼口が指名された。こうなると逃げるわけにはいかない。

 恐々という感じで扉を調べ、目的の番号を見つけた。

 開きませんようにと心の中で切に願いながら、扉のノブを掴んで引く。

 驚くほど軽く扉が開いた。同時にそれについている金属の箱も滑り出てくる。

「ばあ!」吉村が箱の中から顔を出した。

 俺と鬼口は躊躇わなかった。二人が凄い形相で箱を押し戻したので、大きな音を立てて扉が元に戻る。鬼口は怪力だ。地面が揺れ、金属の箱が奥の壁にめり込んだ。必死の形相の鬼口はそのまま扉の取っ手をねじり、もぎ取ってしまった。

「教授。この扉開きません」俺は申告した。「壊れているようです」

「おや、そうか。では別のにしよう。3‐Cを開けてくれ」

 壊れた扉の向こうで小さく扉を叩く音がしたが、俺も鬼口も無視した。見なければよい。聞かなければよい。そうすれば世界は平和だ。


 今度の扉は普通に死体が出て来たので、俺と鬼口はほっとした。眼をぎょろりと剥いた死体を見て安堵することになろうとは夢にも思わなかった。

 死体は金属の板に載っている。それを金属板ごとキャニスターに移すのは鬼口がやった。死体があんなに重いとは思わなかったが、さすがに怪力の鬼口、難なく動かした。

 死体は全裸の男だ。それを見て山本が何かを言いそうになった。

 浜口教授がその瞬間に割って入った。

「昔から解剖実習の際に不謹慎なことをやる学生が出るのはお決まりでね。中には死体の耳を切り取った後にそれを壁に叩きつけて、『壁に耳あり!』と叫んだりする馬鹿もいる」

 俺たちは呆気に取られて浜口教授の言葉に聞き入った。

「それでどうなったんです?」ごくりと喉を鳴らして山本が言った。

「当然退学になったよ」事も無げに浜口教授は答えた。

「だから献体には敬意を払うように。医学の発展のためにその尊い体を提供してくれたのだから。それに彼らこそは我々の飯の種だ。飯は粗末に扱ってはダメだ」

 良い話かと思ったら台無しだ。教授、教授、敬意を払っていないのは貴方です。

 俺の考えには関わらず、浜口教授は続けた。

「同じように、男性の全裸死体を見て、『これが女性だったらよかったのに』というのもNGだ。退学まではいかないが停学にはする」

 山本がぐっと息を詰まらせた。自分が危うく停学を免れたと気づいたのだ。

「でもね、でもね、ボク思うの。これが人間じゃなくて牛の死体だったら今日は焼肉パーティだったのに」

 吉村が言った。こいつ、いつの間にあそこから出て来たんだ?

「解剖が済んでもそのセリフが言えたら凄いと感心してあげよう」浜口教授が答えた。

 停学は? 退学は? どうして吉村は停学にならない?

 どうも浜口教授は吉村に甘すぎるきらいがある。

 はっはっはと大声で笑ってから浜口教授はその疑問に答えた。

「吉村君は変態医学、いや特殊性癖心理学ゼミのたった一人の新人だからな。それなりの扱いをするようにとの学長からのお達しだ」

 俺はなにも言っていないのに、どうしてこの人は答えられる?

 まさか俺の心を読んでいるのではと考えて、俺はその不吉な予感を捨てた。もしそうなら俺の未来はここで終わっているからだ。悪い予想は無視するに限る。



「さて、まず開胸から始めよう」

 浜口教授は万力のような形をした金属の開胸器を指さした。

「まず正中線に沿って胸を切開する。アバラ骨の接合部を縦に切断しよう。まずは中山君」

 指名されてしまった。こうなればもはや他人事ではない。目の前にぶら下がった単位にすべての注意を集中して、俺はメスを取った。

 左手を死体の胸に沿わせて・・。

「うひゃあ」変な声が出てしまった。

「きょ、教授。教授。この死体、肌が温かい」

「気づいたかね。今朝がたできたばかりの死体だ。鮮度が良い内に、特別に運んで来てもらったものだ」

「なんでまた」

 ほんのりと温かい死人の肌の感触が恐ろしく気持ちが悪い。

「そりゃもちろん、臨床境界限界倫理学では死んだばかりの死体に生存時と同じ人権が存在するのかどうかを論ずる。だからまったくの死体では意味を成さないだろう。中山君、うちのゼミを何だと考えていたのだね?」

 ゼミの中身は知りません。他のゼミが全部埋まっていたからですとは言えなかった。たぶん浜口教授は報復する。見た目は好々爺だが、この教授はいつも目が笑っていない。


 俺は覚悟を決めてメスを再び死体の胸に当てた。

「生と死の境界というのは曖昧なものでね。どこまでが生きていてどこまでが死んでいるのかというのは本来見極めをつけるのが大変に難しい」

 浜口教授が説明を始めた。

「鬼口君。現在の日本における死の定義は何か分かるかね?」

 矛先が鬼口に跳んだ。

「ええと、脳波の停止と心臓の停止です」

 鬼口は頭を掻き掻き答えた。おお、鬼口偉い。

「正解だ」浜口教授は満足そうに言った。「今、中山君が切ろうとしている死体もその定義に従い死亡が宣告されてから、ここに運ばれてきたものだ」

 教授が何を言いたいのか分からずに、俺はメスを持ったままで固まった。

「さて、現代では脳波と心拍という二つの事象で死亡を判定しているが、実はこの二つはかなり曖昧な基準なのだ」

 浜口教授は講義に夢中になった。俺はメスを持った手を後ろに引いた。このまま何とか誤魔化せないかと考えながら。

「心拍はちょっとしたことで復活する」

 浜口教授は拳で死体の胸を思いっきりドンと叩いだ。

 死体がむくりと起き上がった。

 俺と鬼口と山本が絶叫した。吉村は大声で笑った。この変態の頭の中の配線はいったいどうなっている?

 俺は吉村なら喜んで解剖する。そして解剖し終わった死体を灰すら残らないまで焼却してやる。

「このようにね」言いながら浜口教授は聴診器を取り上げ、チェストピースを死体、いや生き返った死体の胸につけると、イヤーピースを俺の耳に突っ込んだ。

 ドクンドクンと音が聞こえた。

「教授! 心音が聞こえます」

「とまあこのように心拍はちょっとした刺激で戻ることがある」浜口教授は説明した。「中山君。そのまま聞いていたまえ」

 正直そんな余裕は無かったが、すぐ目の前に座っている死体と目が合っているので俺は金縛りになっていた。黄色みがかかった白目がものすごく気持ち悪い。

 その間にも聞こえてくる心音はどんどん弱くなっていき、ついに消えてしまった。

 死体が後ろに倒れた。

「教授。心音が!」

「また死んだということだ。このように生と死の境界は非常に曖昧で、それに連れて死体の人権がどのように変化するのかが我がゼミの主眼ということだ。

 例えば死体にメスを刺すことは死体損壊罪に当たる。だがその瞬間に死体が蘇生した場合には殺人罪にランクアップする。これをどう考えるか。

 一番良いのはそれが蘇生することがあり得ない、確実に死んでいる死体だと判定できることだ」

 浜口教授は並んでいる道具からいくつかの器具を取り出した。

「中世ヨーロッパでは死を判定する二十三の方法というものがあった。この二十三の試験をすべてパスして初めて死体と認められた」

 浜口教授が取り上げたのは小さな鏡だ。教授はそれを死体の口の前に当てた。

「一つは鏡が曇らないこと。つまりは呼吸の停止だ」

 今度は体温計だ。それを死体の口に突っ込む。

「次の一つは、体温が低くなっていること。この死体はまだ冷え切っていないな」

 その次はロウソクだ。それに火をつけて死体の足の裏をあぶり始めた。人間の皮膚が焼けるひどい臭いがした。

 それをまともに嗅いだ山本が青い顔をした。いきなり走り出すと死体が入っている金属の扉を開き、その中に派手に嘔吐した。

 おい、山本、その扉の中、空だろうな、と俺は思ったが言わなかった。返事を聞くのが怖かったのだ。

 浜口教授は山本のことは無視した。恐らくこの人の魂は積層セラミックで装甲されている。

「二十三の試験のすべてにパスするというのは、その他二十二の試験で死体と判定されていても、最後の一つで蘇るケースがあることを示している」

 浜口教授はアイスピックを取り出すと、死体の右手を突き刺した。

「ぐわわわわわわ」死体が喚きながら起き上がった。

 鬼口が弾かれたように走り出すと部屋の扉へと向かった。俺は腰が抜けている。吉村は起き上がった死体の横で何か体をくねくねと揺らしている。

「ここで逃げ出して帰ったら単位は出さないよ」浜口教授が言うと鬼口の突進が止まった。

 怪力無双の大男が泣きながら作業台に戻ってくる。鬼口は単位を落とすと両親に殺されると信じているのだ。

 もちろんそれは冗談だ。我が子が単位を落としたからって殺す親はいない。だからそれは冗談だ。冗談に違いない。冗談だよな・・?

 また死体が倒れた。

「生き返った衝撃で死んでしまった」浜口教授が説明した。「このように生と死の境界は曖昧だ。正直な所、本当のところは死体というものは何度も生き死にを繰り替えしながら完全な死へと近づいていくのだと考えている」

「もう嫌だ。帰りたい」山本がめそめそと泣き出した。

 浜口教授はゼミ生が恐怖する様を徹頭徹尾無視した。こんな光景は慣れているのだろう。

 どうしてこのゼミが最悪と言われているのか俺は十分に理解した。くそう、すべては吉村のせいだ。

「そこで一般的には死亡が確認されてから埋葬もしくは処分まで一定の期間を監視期間として定めている。日本だとそれは四十八時間となる。

 だがそれでも実際には、もっと長い時間の後に蘇生した例も多い。例えばカナダの凍った湖に落ちた女性は三日間氷漬けになった挙句、埋葬前に蘇生した。しかも何の後遺症も無しにだ」

 そこまで言ってから浜口教授は並んでいる手術器具からいくつかを取り上げた。

「ではちょうど良い機会なのでこの際、臓器移植の手順を踏んでみよう。臓器移植のドナーの処理に関しては我がゼミの趣旨に深く関わっているからね」

 浜口教授は全員を死体の周りに集めた。鬼口は無表情でまるで能面だ。山本は真っ青な顔をして今にも倒れそうだし、吉村は何だかニヤニヤしている。俺が今どんな表情をしているのかは自分でも分からない。

 浜口教授はメスを取り出し、死体の胸に刺した。

 大きな吠え声を上げながら、またもや死体がむっくりと起き上がった。そしてまた倒れる。

「このように生と死の境界にある死体はちょっとした刺激により生き返る。体の奥深くに刃物が刺さる痛みは刺激としては相当大きいからな。これでは臓器を取り出すのに相当な無理がある」

 浜口教授は注射器を取り上げた。

「麻酔は臓器が痛むので使えない。だから代わりにこれを使う」

「それは何です? 教授」思わず尋ねてしまった。

「筋弛緩剤だ」

 浜口教授はぷすりと注射した。しばらく死体の心臓の上を押して、薬剤が全身に回るようにする。それからまたメスをその腕に突き刺した。今度は死体は動かない。

「このように筋弛緩剤が入ると死体は痛くても動けなくなる」

 痛いって。教授! それって死体なんですか?

 言えない。言えば何だかもっと恐ろしいことになりそうな気がする。

「ではまず解剖を始める前に臓器保存液を血管に注入する。通常はこの作業は心拍が消えた時点から行う。遅れれば遅れるほど臓器が痛むことになる。四十八時間なんて問題外だ」

 浜口教授が特大の注射器を取り出した。それと保存液の入った大びんだ。

「大静脈と大動脈に針を刺し血液を抜きながら同時に保存液を入れる。本来ならば機械を使うが今回は注射器で代用する」

 鬼口と吉村が吸い上げ役、俺と山本が注入役に決まった。

 鬼口がずぶりと注射器の針を静脈に刺す。注射針にはチューブが繋がっている。

「じゃ僕が吸うね」吉村がそう言うとチューブの端をちゅうちゅうと吸いだした。赤黒い血液がチューブを流れ始める。それが吉村の口に入る前に・・。

「ポンプを使わんかあ!」思わず吉村の頭に金属トレイを叩きつけてしまった。

 俺は悪くない。変態のこいつが悪い。そうだ俺は悪くない。そう自分に言い聞かせる。

「は、は、は。吉村君冗談は止めたまえ。不謹慎だよ」浜口教授が言った。「確かに吸血衝動は変態行為であり精神医学の重要な課題だ。その点では吉村君は大変に自分のゼミの思想に忠実に実験を行っている。中山君たちも見習うように」

 教授! きょうじゅ! どこをどう見たらそうなるんです。

「まあ血液を飲む前にはきちんとスクリーニング検査をしなさい。血液を媒介にしてどんな病気が遷るか分からない。吸血鬼思想の人々はみんなそうしているよ。それにその患者はO型だ。飲んでも美味しくはない」

 きょうじゅう~。俺は泣きそうになった。貴方は人間の血の味を知っているのですか?

 そうだ。浜口教授なのだ。知らないわけがない。この世の天地開闢以来のすべての物事を知っているのがこの浜口教授なのだ。

 鬼口が真面目な顔で床に倒れた吉村を抱え起こすと、金属扉の一つを開けてその中に押し込んだ。先客が居たらしく苦労していたが何とか押し込んだ。それから扉を閉めると、扉についている手すりを捩じって潰した。金属棒がぐにゃりと曲がって扉が動かなくなる。

 鬼口は大男だが心は繊細だ。その無表情な顔を見れば相当追い込まれているのが分かる。何か悪い予感がして、俺はできるだけ刺激しないようにと心に決めた。鬼口の精神が壊れたらきっとこの辺りは大災害に見舞われる。

「うんうん。吉村君、とてもいいよ。今度は死体愛好性癖か。まさに変態行為総なめだね。君のゼミの教授もさぞや鼻が高いだろう」

 そこで浜口教授はこちらに向き直って言った。

「さあ我々も負けてはいられない。授業を続けよう」


 鬼口がポンプを動かすのに合わせて、こちらもポンプを押した。血液が吸いだされるのに合わせて、保存液がパイプを通って流れ込む。

 死体の眼から涙があふれた。

 ひぃ。思わず声が漏れた。「教授!」

「はっ、はっ、はっ。驚くことはない。冷たい保存液が血管に流れ込むんだ。もの凄く痛いに決まっている。たいがい死体は我慢できずに泣く」

 ひぃ。今度は山本がぺたんと床に座り込んだ。腰が抜けたらしい。

「冗談だ。ただの反射機能だよ」浜口教授が断言した。

 そうは見えません。教授。

「いいかね、君たち。よく聞きなさい。臓器移植はこれからの医学界を支える技術だ。そして金持ちはこぞってこの技術を求める。これがどういう意味か分かるね?」

「分かりません」俺は思わず小さく呟いてしまった。

「簡単だ。臓器移植は金の成る木ということだ。医学利権が絡んだ者たちにとっては何としても推進しなくてはいけないことの一つなのだ。

 そのためには死の判定方法を簡易化し、脳波と心拍という曖昧な基準にも変える。死んでから蘇生しないことを確認するための待機期間を四十八時間からゼロにもする。すべては新鮮な金になる臓器のためにだ」

 ひええええええ。聞くんじゃなかった。鬼口も青い顔になっているし、山本は自分の耳を抑えて俯いている。俺たちが医者に対して抱いていたイメージが粉々だ。

「それより次の手順に移ろう。まず胸郭の下をメスで切り、開胸器が入るようにする」

「でも、教授。もしこれが生きている死体だとすれば、臓器を取るということは殺人になりませんか」

 俺はおそるおそる聞いてみた。単位に影響するかもしれないが、ここで聞いておかないと後でもっと後悔すると思ったのだ。

「はっはっは」浜口教授は俺の疑問を豪快に笑い飛ばした。そうしているとまるで機嫌のよいどこかのチキン屋のおじさんそっくりだ。

「その心配はない。中山君。保存液を入れた段階でこの死体が蘇る可能性はゼロになっている。これを殺人と呼ぶならばそれはすでに済んでいる」

 教授の言葉の衝撃で俺の膝から力が抜けた。俺はすでに殺人を犯していたのか。俺は床に座り込んだ。お母さん。俺はとうとう合法的な殺人犯になってしまいました。

「やれやれ、新入生はこれだから」

 浜口教授は肩をすくめるとメスを取り上げ、死にかけの死体の胸を手早く切り裂いた。肋骨の合わせ目を素早く割ると、慣れた手つきで開胸器を突っ込んで肋骨を左右に大きく開く。べりべりと音がして、カニの甲羅を剥がすかのように死体の胸骨が左右に開く。

 うう、もう二度とカニは食べられない。

 鬼口が倒れそうになりながらも危うく持ちこたえた。山本が口から泡を吹きながら倒れた。

 俺は目をぎゅっと瞑った。

 筋弛緩剤の影響下にあるのに死体の右腕が動き、金属トレイを引っかくのを見ていられなかったからだ。

「まず肝臓を切除する」

 あっと言う間だった。ばたばた手を振る死体を無視して肝臓を切り取ると横に置いた。

「教授。腕が動いています!」俺はたまらず叫んだ。

「薬が足りなかったようだな」教授はそう呟いてから続けた。「死後硬直だ気にするな」

 ふんふんと鼻歌を歌いながら教授はメスを使い続けた。

「死後硬直というのも便利な言葉だね。生と死の境界は曖昧だ。土葬死体の二割には死後復活の形跡があり、抜け出そうと棺桶を掻きむしった後がある。残りの八割は動けるようになる前に窒息する。

 火葬死体の三割は焼いている最中に焼却炉の中で暴れるし、中にはここから出してくれと叫ぶ者もいる。これはつまり足の裏をロウソクで炙る試験のでかいやつだな。

 だが安心しなさい。すべては死後硬直で説明がつく」

 浜口教授は腎臓を取り出した。体の前面から切り進んで腎臓をさくっと取り出すのは難しいがそれを難なくやり遂げる。恐ろしく手馴れている。

「記録では死後二週間経過してから蘇生した例もある。すでにそのときは体は腐敗しており、蘇生後二時間で再び死んだという。もちろんもう理解していると思うが、これも死後硬直で蘇生したように見えたに過ぎない」

 浜口教授は蘊蓄の披露を続けている。

「わあ、脂肪ってまるでトウモロコシの粒だね~」

 いつの間にか浜口教授の横に立っていた吉村が言った。手を伸ばすと黄色い粒を取り上げ、口の中に放り込んだ。もにゅもにゅと口を動かす。

「バターコーンみたい」感想を述べた。

 鬼口が何かを喚きながら向こうにあるクソがつくほど重い金属テーブルを持ち上げると、正確に吉村の頭の上に叩きつけた。衝撃で地面が揺れる。

 鬼口が何を言ったのかは聞き取れなかったが俺には想像がついた。人間の死体を食うんじゃない、だ。

「やれやれ。鬼口君は少し粗忽すぎるな」

 笑みを浮かべながら浜口教授が話を続けた。

「人肉を食べたいという性的な嗜好はある。人肉嗜食だな。そして面白いことに自分の体を他人に食べさせたいと願う嗜好もある。このように人間の性的嗜好は実にバラエティに富んでいる」

 俺は金属机の下で潰れているはずの吉村のことは無視して、切り取られた臓器を見つめた。ここまでくるとただのプラスチックのサンプルに見えて来る。

「とまあ、これがだいたいの手順だ」

 浜口教授はそう言ってからしまったと自分の頭を叩いた。

「ああ、全部自分でやってしまった」

 手術用の手袋を脱ぐと、死体を指さした。

「それぞれ臓器を元の位置に戻し、元通りになるように縫合したまえ。このままでは単位をあげるわけにはいかないからな」


 皆が躊躇っていると復活した吉村が道具を持った手を上げた。

「はいはい、ボクがやります」

 鬼口が吉村を取り押さえ、俺がぐるぐる巻きにした。山本が猿轡を噛ませて、全員であいつをまた金属扉の向こうに閉じ込めた。

 吉村のやつ。包丁とまな板を持ち出してきたんだ。こいつに任せたらこの先一か月ぐらいは悪夢にうなされるようなことをやりかねない。


 その後は誰が作業をやるかで三人で命賭けのジャンケンをした。

 結局は鬼口が負け、滝のように涙を流した。

 う~う~言いながら臓器を死体の腹の中に戻すと、傷口を縫い始めた。

 大きな針に丈夫な糸。それで死体の皮膚の大きな裂け目をぐいぐいと縫っていくのだ。

 その際にはどうしても死体に触れることになる。恐ろしく気持ち悪いだろうと想像して俺まで実際に気持ちが悪くなってしまった。

 俺は死体から目が離せなかった。さきほどまで瞑っていた目が開き、こちらを睨んでいたような気がしたが、あくまでも気のせいだろう。そう思うことにした。

 全部の作業が済み、鬼口がよろよろと死体から離れる。すると死体の太腿に飾り縫いがされているのが見えた。

 鬼口お前は何てことを、と言いかけて気づいた。

 飾り縫いにサインが入っている。吉村作だ。

 殴ろうと思って骨割用のカナヅチを持って辺りを探したが、吉村はどこにもいなかった。くそ、何て勘が良いヤツだ。



 こういった作業は精神を削る。へとへとになった俺たちゼミ生が椅子に倒れこみ座っていると、浜口教授は隅の椅子で本を読んでいた。

 本のタイトルは『死霊秘法(ネクロノミコン)』だ。

 浜口教授は読みながら何かをぶつぶつとつぶやいている。

 でも俺が顔を上げたのはそれじゃない。何か別の音が聞こえて来たからだ。

「おい、何か音がしないか?」

 どちらも青い顔をした二人が顔を上げて耳を澄ました。

「何も聞こえないぞ。脅かすな。中山」蒼白な顔のままで山本が抗議した。

 その言葉に一番安堵したのは俺だ。

「なんだ気のせいか」

 震える膝に活を入れて俺は立ち上がった。

「教授。もう授業は終わりですか。俺たち帰ってもいいですか」

 本に没頭していた浜口教授は顔を上げた。

「ん、ああ、すまん。これで終わりだ。帰ろうか」

 俺たち三人の肩から張り詰めていた何かが抜け落ちた。帰れる。この地獄から。

「いやいや、すっかり本を読みふけってしまった。面白いね。この本は」

「なんですか? それ」

「ネクロノミコン。魔法の呪文書という触れ込みでね、古本屋から買ったのだよ。この手の本に有りがちなことに中身は一種の換字暗号になっている。つまり文字と配置を置き換えて読む必要があるわけだ。例えばここのところなんかを読み解くと」

 浜口教授は本のページを広げた。

「ふうるんぐるいなうどお・むるぐなうふう・くとうるる・ふたぐん、と書いてあるのだが、きちんと置換するとこういった文章になる」

 浜口教授は声高く唱えた。

「ふばうるんぐらいど・みなかたにやさあ・むうぐるなうふう・でぃあごらすと・かた・ふたぐん」

 そこで声を潜めて続けた。

「そは死せる者たちなれど、いつまでも死せる者たちには非ず」

 いやな予感がして俺は慌てた。

「きょ、きょうじゅ、帰りましょう。いますぐに帰りましょう」

「そうしようか」浜口教授は椅子から立ち上がった。それから言葉を切った。

「おや、あの音は何だい?」

 今度はみんなに聞こえた。何かがずるずると近づいてくる音だ。

「そういえば、ここが戦時中に建てられた建物だと知っているかね?」

 浜口教授はパイプを取り出すと火をつけ、大きく煙を吐き出しながら言った。

「七三一石井部隊の出張所だったのだよ。ちょうどこの地下がその出張所に当たる」

「石井部隊って?」山本がつぶやいた。

 馬鹿、山本、浜口教授にエサを与えるな。話が終わるまで帰れなくなる。

「正式名称は関東軍防疫給水部本部だね。細菌戦や化学戦を研究する部門だ。そのため中国を根城にして大勢の人体実験を行っていた。ここの研究所も通りすがりの人間を捕まえて実験していたとの噂があったな」

「教授~、帰りましょうよ~」俺はもう泣き声だ。

「終戦後にGHQが入って調査したようだが、そのときの実験の被検体は結局見つからず終いだった。どこか地下深くに埋めたのではないかと言われていたな」

 音はどんどん大きくなる。それでどこから出ているのかが分かった、

 死体を入れてある金属棚だ。その扉の一つがゆっくりと開いた。

 俺も鬼口も立ち上がった。そこから何が出てくるにしろ、全力で逃げる用意だ。浜口教授は単位のために必要だから連れて行くが、最悪の場合は山本を囮に使って逃げよう。俺はそう決心した。友を裏切る勇気。大事なのはそれだけだ。

 ゆっくりと扉が開く。そして・・。

「ばあ」

 扉の奥から吉村が出て来た。

 こいつのことを忘れていた。そうだ、でも確か別の扉に閉じ込めたはずなのに。俺がそのことを尋ねると吉村は待ってましたとばかりに答えた。

「あのね。ここの金属の入れ物、後ろ側に穴が開いていて繋がっているの。それでねその中に友達がたくさんいるの」

「友達?」

「ほら」吉村が指さした。

 正直、俺は見たくはなかった。だけど吉村が指さす方を見てしまった。そして後悔した。

 金属棚の扉がすべて開いていて、中から無数の顔がこちらを見ていた。包帯を巻いているもの、ミイラになっているもの、緑色をした何か、両目が繰りぬかれた女、そして頭が二つある男。他にも様々な異形の顔。

 ひぃ。かろうじてそれだけ声が出た。

「みんなずうっと前から待っていたんだって」吉村が説明した。「誰かが来るのを」

 化け物たちはわあっと一斉に這い出て来た。

 山本が口から泡を噴きながらまたもや失神した。鬼口は棒立ちになり、俺は入口の扉に飛びついた。

 開かない。鍵がかかっている。

「教授! 鍵はどこです!」悲鳴になってしまった。

 その間にも異形の群れは近づいてくる。手に手に奇怪な何かの道具を持っている。その内の一つは開胸器であることを知り、俺の股座が温かいもので濡れた。

「鍵、鍵っと」浜口教授はポケットをまさぐりながら言った。「はて、どこへやったかな」

「ボク、持っているもん」吉村が鍵を振りながら言った。

「でかした、吉村、それを寄越せ」

 俺は吉村に飛びついた。吉村はそれをさっと避けた。

「イヤだよ。これ、ボクのだもの。あげないもん。ベ~だ」

 馬鹿、吉村、こんな場面で冗談をやるな。

 奴はそのまま化け物の群れの中へと消えた。砕かれた人体の塊りから無数の崩れた手が伸びてくる。

「お経、お経、誰かお経を知らないか!?」俺は絶叫した。

 鬼口がすっくと立ちあがった。そのタラコのような分厚い唇から声が漏れる。

「おんたたぎゃた、あな、はんばる、ぬこにゃんにゃん、おんてんそわか」

「そりゃいったい何のお経だ」手という手に掴まれながらそれでも俺は訊いてしまった。

「俺の里の猫魔神のお経だ」鬼口が答えた。顔が真っ赤だ。

 恥ずかしいらしい。そりゃそうだ。聞いてる俺ですら恥ずかしいお経だ。

「絶対唱えてはいけない秘密の経なんだ」

「ほう、それは面白い」浜口教授が顔をほころばせた。

 崩れた手が何本も俺の頭に巻き付く。もう駄目だ。


 そのときだ。壁に渦模様が現れると、巨大な猫の顔が浮かんだ。それは六本の猫の前足を持ち、全身に火炎とマタタビの葉っぱをまとった猫魔神だった。その顔は二次元から三次元に変化すると、次の瞬間、部屋の中央に大きな猫魔神が立っていた。

「おお、偉大なる、偉大なる猫魔神。その威光は天穹をも覆いつくす」

 鬼口が賛美した。眼がどことなく虚ろだ。トランス状態に入っている。

 猫魔神の猫パンチが目にも止まらぬ速さで周囲の化け物たちを薙ぎ払った。やわらかいはずの猫の肉球に触れて、異形の化け物どもがバラバラになる。

「おお、偉大なる猫魔神。その眼光はすべてを焼き尽くす」トランス状態の鬼口が唱える。

 猫魔神の瞳から炎が吹き出して周囲の化け物たちを薙ぎ払った。声にならない悲鳴を上げて炎がついた化け物たちが逃げ惑う。

「凄いぞ! 鬼口。猫魔神強い!」俺は手を叩いて喜んだ。

「早く逃げよう」真剣な顔で鬼口は返した。嫌な予感をさせるのに十分な表情だ。

「どうして?」

 そりゃ訊くさ。訊くしかないだろ? 訊きたくなくても。

「お供え物のカツオ節がない場合は、その代わりに猫魔神様は人を食うんだ」

 ぼそりと鬼口が大変なことをバラした。

 猫魔神の瞳がこちらを見つめた。その前足の一本がこちらに伸びてくる。

 目無し女がそれに飛びついた。前足が引き戻され、目無し女を引っかけると猫魔神の口の中へ放り込む。わけの分からないことを叫びながら目無し女が猫魔神に食われた。バリバリと骨と肉がかみ砕かれる音がした。

 残りの化け物たちは逃げ出すかと思えたが、逆に猫魔神へと掴みかかっていった。きっとどいつも人生に深く絶望していたんだろう。なにせ化け物なんだから。これに激高した猫魔神がしゃーしゃーと怒りながら長い爪で攻撃を返す。

 大騒ぎになった。

「鬼口。扉を壊せ」

 わけの分からないおめき声を上げながら鬼口が金属製の扉を引きちぎる。

 実に興味深い、もっと見せなさいと渋る浜口教授の背中を強引に押しながら、俺は部屋の外へと転び出る。鬼口が気絶した山本を担いで出て来た。

「閉めろ!」

 あたりにあったものを手あたり次第に積み上げて部屋の出口を封鎖して、俺たちは研究練から脱兎のごとくに逃げ出した。



 研修ゼミの単位は何とかもらえた。

 あの後、建物はかなりの大音響を放ちながら長い間揺れていたが、翌日大学管理部の布告により、昨夜の地震の影響で建物の老朽化が判明し、古い研究練は閉鎖されることになった。イタズラ者が入り込まないように、出入り口はすべて溶接され、窓は全部板で厳重にふさがれた。

 ときおり夜中になると建物の中から笑い声や叫び声が聞こえてくるようになったが、あえて誰も話題にする者はいなかった。


 しばらく平和な日々が続いたがある日はっと気づいた。吉村がいない。どうやらあのどさくさであそこに忘れて来てしまったようだ。


 だから今も奴はあそこに居る。

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