蓮の箱庭
朝羽岬
第1話
ミロクは、薄い鉄板の隙間に指を入れた。そのまま持ち上げようとするが、軋む音がするだけで少しも動かない。舌打ちをして、指を放した。
「これ、どうやって開けりゃいいんだ?」
頭を乱暴に掻きながら、忌々しげに鉄板を見下ろす。若草色に塗装されているはずだが、砂にまみれて今や枯れ草色と言った方が正しいくらいだ。
「簡単に開けてるように見えたんだがな」
ミロクは腰をかがめると、隙間の中を覗き込んだ。暗くて、何も見えない。
今度は拳を作って軽く鉄板を叩いてみたが、やはり動かない。ただ、手が砂で汚れただけだ。
「何やってんだ、あんた?」
更に下から覗き込もうと身をかがめたところで、不意に声を掛けられた。鋭い声色だ。傍から見れば怪しまれても仕方がない、という自覚はある。
まず、背筋を伸ばした。それから、両手を肩の高さまで上げる。油が切れた機械のように、ゆっくりと声の主を振り返った。
「いや、ちょっと整備をと思って」
「嘘だろ」
鋭い目を向ける黒髪の少年は、ミロクの言葉を最後まで聞かずに切って捨てた。愛用のつなぎを着たミロクは格好だけ見れば整備士然としているが、動きが怪しすぎたのだろう。
「部品でも盗むつもりだったのか? だったら、容赦はしない」
少年はミロクを睨みつけたまま、腰を落として重心を下げる。体を前後に揺らし、いつでも飛び掛かれる体制を作った。
対して、ミロクも身構えた。少年の顔に、見覚えがある。ただし、本人とは限らないが。
双方共に無言のまま、睨みあうこと数秒。先に折れたのは、少年の方だった。
「睨んで悪かった。そんなに身構えないでくれ。泥棒じゃないんだな? だったら、あんたを害するつもりはない」
長く息を吐く少年に、ミロクは少しだけ体の力を抜いた。少年は、わずかに首を傾げる。
「で、いったい何をしてたんだ?」
「動かなくなったんだ」
問われた以上、答えなければ怪しまれてしまう。ミロクは息を吐くと、素直に話すことにした。
「壊れると、ここを開けて見るんだろ? だから、開けて見てみようと思ったんだが分かんなかったんだよ。開け方が」
最後の方は、拗ねたような声色になった。
少年はと言えば、怪しむ様子から驚きへ、ついには呆れ顔へと表情を変化させた。
「開け方が分からないって。あんた、持ち主じゃないのか?」
「俺のじゃない。仕事用に借りてるだけだ」
「だったら尚更、大事に扱いなよ」
少年は大きく息を吐くと、ミロクに断りもなく運転席のドアを開けた。
「おい。何するんだ?」
「何って。開けるんだよ」
ハンドルの下を覗き込んだ少年は、「ああ、これだ」という言葉と共に何かを引っ張った。カコン、という軽い音がする。ミロクが苦戦していた鉄板が、少しだけ浮き上がった。
「嘘だろ。こんなに簡単に開くのか?」
「あんた、本当に知らなかったんだな。ついでだ。見てやるよ」
少年は運転席のドアを閉めると、車の前方へと回り込んだ。
「いや、いいよ。一応、見ておくかって思っただけで。人は呼びにやらせてるから」
焦って断るミロクに、少年は口を尖らせる。
「心配しなくても、これ以上壊しはしない。資格は持ってないけど」
少年は指を薄い鉄板にかけると、上へと押し上げた。エンジンルームを見下ろした途端に、眉間に皺が寄る。
「なんだ、これ? 中も砂だらけじゃないか。どれだけ整備してなかったんだよ」
「いやー。最近、忙しくてなー」
ミロクが目を泳がせたところで、「ミーロークー」と呼ぶ声がした。振り返ると、髪の長い少女が手を大きく振りながら近付いてくる。その後ろには、油で黒く汚れた作業着を来た壮年の男が付き従っている。彼の腰には、工具入れがぶら下がっていた。
「ダンさん、呼んできたよー」
「おう。ありがとな、レイ」
褪せた亜麻色の髪をかき混ぜるようにして撫でてやると、レイは満面の笑みを浮かべた。
対して、ダンの表情は渋い。
「動かなくなったって?」
「ああ」とミロクが短く答えると、ダンは少年を見た。少年は薄い鉄板を持ち上げたまま、ミロク達を見守っている。
「なんだ、君は? まあ、いい。ちょっと退いてくれ」
ダンが鉄板に手を掛けると、少年は素直に手を放して一歩下がった。ダンはエンジンルームを見ると、すぐに「なんだ、こりゃっ」と叫んだ。それから首だけを器用に捻って、虎のような目つきでミロクを睨む。
「だから、ちょくちょく整備に回せって言ってるだろっ」
「いやー。最近、忙しくてなー」
ミロクは、ダンから目を逸らした。
ダンはミロクの言動を無視して、鉄板に支え棒を引っ掻ける。車を揺すり、部品を軽く指で押し、細い棒を引き抜いてまじまじと見た。ため息と共に棒を元に戻し、支え棒を倒して鉄板を閉じる。
「油も足りてない。部品も緩みかけてる。今日は、もう乗るな」
「え? そいつは困るんだが」
「困るなら整備に回せっ。それに、誰も仕事に行くなとは言ってないっ」
慌てるミロクに、ダンは『見ろ』とばかりに来た道を指し示す。一台の黒い車が、ミロクが走った方がまだ速いのではと疑うような速度で近付いてくる。運転席に座る男の顔を見て、ミロクは目を丸くした。
「あれは、ルタか?」
ルタは目を見開き、口を真一文字に結んでいる。手はハンドルを硬く握り、緊張のためか両肩が上がってしまっている。どれも、常の彼には見られないものだ。
真っ直ぐな道だというのに、車は右へ左へふらふらと振られて危うい。それでも壊れた車の左側までたどり着くと、止まった。ブレーキを思いきり踏んだのだろう。ルタの体が前のめりになっている。
なぜかワイパーが三回動いた後、エンジンが止まった。「はあ、やれやれ」という言葉と共に、ルタが車から降りてくる。ミロクも背が低い方ではないが、ルタは更に頭一つ分高い。
「よお、ミロク」
へらりと笑うルタに、ミロクは顔をしかめた。
「おまえ、整備士の手伝いまでやってんのか?」
彼は、『リキッド制作責任者』という肩書を持つ科学者だ。おまけに、個人的にではあるが農業の研究もしていて、ミロクやその辺の連中以上に忙しく日々を送っている。
「いや、休憩がてら散歩してたら捕まったんだ。どこも人手不足だからね」
ルタが両手を上げて伸びをする。腰からボキッという音がした。
「しっかし、運転ってのは疲れるもんだね。ミロクは、よくやってるよ」
今度は頭を左右に動かす。すかさず、首からパキポキという音がした。
「慣れれば気晴らしにもなる。それにしても、すごい音だな。体が凝り固まってるんじゃないか?」
「そうかもね。ここのところ、部屋にいることが多くてね」
ルタは無精ひげを擦るが、彼のひげの無精は今に始まったことではない。黒く長い長髪はろくに手入れもされず、適当にまとめてあるだけ。白衣は皺が目立ち、清潔感などまるで無い。もっとも、この島の科学者の半分はこのような状態だが。
「んー、君は? 見たことがあるような、ないような顔だけど」
首の後ろを揉みほぐしながら、ルタは少年を見る。ダンの工具をずっと見ていた少年は、顔を上げると途方に暮れたような表情を浮かべた。
「あの、俺は」
「やれやれ、ようやく見つけた。あちこち探したぞ」
不意に聞こえた女性の声に、その場に居合わせた全員が振り返る。「あちこち探した」と言った割に、声の主は息も上がっていなければ疲れた様子もない。まとった白衣も汚れておらず、気になるほどの皺もなかった。
「レンリ……てことは、こいつ、再利用者か?」
「いかにも」
ミロクの問いに、レンリがうなずく。彼女の首の動きにあわせて、腰まである一本の三つ編みが揺れた。
「昨晩、目が覚めたばかりだ。今朝、検診をすると通知がいっていたはずだが、抜け出しおって。おかげで我々の部署は、みな大騒ぎだ」
「調子なら悪くない」
「ああ、そうだろうな。ここまで歩いてこられたくらいだ」
憮然とする少年に、レンリは肩をすくめた。
「だが、おまえに必要なことは検診だけではない。住む場所も、役割も決めなければならないからな。分かったら、さっさと帰るぞ」
「レンリ。そのことなんだがな」
ルタが無精ひげを撫でながら口を開く。
「整備局に回してやってくれないか」
「整備局? なぜだ?」
小首を傾げるレンリに、ルタはダンが腰から提げる工具を指し示した。
「さっきから、ずっとこいつを見てる。興味があるんだろう?」
ルタの細い目が、少年を見る。図星を差された少年は、目を丸くした。「なるほど」と、レンリがうなずく。
「私に役割を決める権限は無いが、一応推薦はしておこう」
「そうしてもらえると、俺も助かる。よろしく頼むよ」
破顔するダンに、レンリの口角が上がった。
「期待はしないでくれ。なるべく良い話にもっていくよう努めてみるが、上も思惑があるはずだからな。さて、セハル。そろそろ行くぞ。ヒヨクが拗ねると、なかなかに面倒だからな」
「分かった」
セハルと呼ばれた少年は、先ほど憮然としていたのが嘘のように、素直にレンリの後を付いていく。彼の後ろ姿を、ミロクは眉を寄せて見つめた。その横で、レイは「またねー」と無邪気に両手を振っている。
セハルの姿が見えなくなっても、ミロクは視線をずらさない。そんな彼の肩に、ルタが手を置いた。
「とりあえず、レンリに任せよう。それより、仕事は良いのか?」
「良くねえっ」
ミロクは弾かれたようにダンを見た。ダンは、黒い車のトランクを開けている。
「今日のところは、こいつを貸してやる。さっさと荷物を移し替えて、仕事に行ってこい」
「分かった」
壊れた車のトランクを開けると、木箱を持ち上げた。詰め込まれた小瓶が触れ合い、カチャカチャと小さく音を立てている。中身はルタ達が制作したリキッドが入っていて、レイでは持ち上げられないほどの重さがある。
それでも、ルタの手伝いもあり、さほど時間をかけることなく荷物の移し替えは完了した。ミロクが礼を言うと、ルタは「気にするな」と笑った。
「おやっさん。車、よろしく頼む」
「おうおう。さっさと行ってこい」
ダンは追い払うように、手の甲をミロクに向けて振った。その横で、「気を付けてな」とルタが小さく手を振る。
ミロクは運転席に座ると、エンジンをかけた。助手席に座ったレイは窓を開けると、出した顔を見送る二人へと向ける。
「いってきまーす」
元気の良いレイの言葉と共に、車が動き始めた。
街中の大通りは平たい石を敷き詰めて舗装されているが、橋を渡って森に入ると土を踏み固めただけの道となる。島を走る車の台数は多くないが、轍ができていた。今日は晴れているから気にならないが、雨が降れば水が溜まる。洗車するだけの時間も水も確保が難しいため、運送班が使う車はどれも泥はねだらけだ。
窓を閉めたレイは、ご機嫌に歌っている。選曲は適当で、ゆったりとした曲を歌っていたかと思えば、テンポの速い曲を歌いだす。島の公用語はパーパとドゥルガーという二つの国の言語だが、たまに異国の言語の曲も混じる。島で暮らす人間の多くはパーパの出身だが、異国の人間もちらほらといる。基本的に人見知りをしないレイは、ミロクが知る以上の人間から歌を教えてもらっているようだ。
レイが歌うのに飽きた頃、車は小さな集落に着いた。島中の服や雑貨の制作を一手に引き受けるこの集落は『職人街』と呼ばれている。ミロクは職人街の役場の前に車を止めた。
二階建ての役場は、一階の壁は鉄板、二階の壁は木の板、という一風変わった佇まいをしている。その時、調達できた資材を適当に使った結果できたものらしい。
「こんにちはー。リキッド、持ってきましたー」
大きな声で中へと呼びかけたレイは、かかとを上げ下げしたり、体を右に左に揺らしながら待っている。その隣りで、ミロクは注文票を確認する。今日運んできたものは一種類しかないし、箱数に間違いはない。
うなずいたところで、中から青年が姿を現した。
「悪い、テンガ。遅くなっちまった」
「大丈夫だよ。連絡は貰っていたしね」
テンガは、ミロクとレイにほほ笑んだ。見ている者が安心感を得るような、柔らかく不思議な笑顔だ。ミロクは島外で、過去に忘れ去られた仏像というものを見たことがあるが、その顔にどことなく似ているかもしれない。
そんな彼の後ろから、更に男が二人出てきた。どちらもきっちりとボタンを留めていて、生真面目を絵に描いたような人物だ。
「テンガさん。荷物運びは私達に任せてください」
男の申し出に、テンガは「ありがとう」と短く礼を言った。
「お言葉に甘えて、僕たちは見回りに行こうか」
「やったー。見回り、見回り」
「おい、レイ。遊びじゃねえんだぞ」
はしゃぐレイに、ミロクは苦い顔をする。テンガは、「まあ、いいじゃないか」と宥めた。
食料代わりのリキッドを集落へ運び、近況をとりまとめて研究所に報告するのがミロクの仕事の一つだ。集落の代表者と共に集落を見て回り、変化や要望を聞き取りする。集落の代表者は研究所が指名しているため特に揉め事はなく、荷運びが腰に負担が掛かるものの気楽な仕事だった。
集落はさほど広くもなく、ミロクでも迷うことなく歩くことは可能だ。それでもテンガに付き従う。職人街は常に、人の声や木を削る音、機を織る音、金属を打つ音など、様々な音で溢れている。
「ここ半月は人の移動も無かったし、特に変化は無いよ」
ミロクとテンガは、島に在中する前からの知り合いだ。テンガは力むことなく、世間話をするかのように報告する。
「それより、医師の派遣を希望してるけど、まだ叶いそうにないかい?」
「レンリが上層部に何度かつついてくれているが、難しそうだな。どこも人手不足だし、医師となると人材が限られるし。腕の良い奴なら、ここにいるんだ。我慢してくれ」
テンガは物腰の柔らかさからは想像もつかないが、元軍医だ。怪我にしろ、簡単な内科の症状にしろ、経験は豊富にある。
ミロクがテンガの肩を軽く叩くと、彼は恨みがましい目でミロクを見た。
「ヒヨクお抱えの整形医を回してくれたって良いと思うんだけどな」
「あいつは美容専門だぞ?」
「医者であれば、それなりに勉強はしてるよ。助手くらいにはなってくれるはずだ」
「まあ、一応はレンリに言ってみるが。ヒヨクが手放さないんじゃないか?」
「言ってみただけで、期待はしてないよ」
テンガはため息を吐くと、前方を指差した。集会所として使われる一画だ。と言っても、角材の柱と波打つトタン屋根だけの、簡単な建物だ。屋根の下には三十人ほど入ることができるが、悪天候時は雨風を凌げそうにない。
「そういえば、広報をお願いしたい事があってね。来月の三日から五日にかけて、スクラップ市をやる予定なんだ」
「分かった。てことは、また休みなしか」
ミロクは空を仰いだ。島にある車の台数は限られているし、運転できる者もやはり限られている。仕事ではリキッドと報告を持って走り回っているが、休日も催し物がある度に誰かしらの足として使われるのだ。
嘆くミロクに、テンガは「ふふっ」と笑い声を漏らした。
「べつに嫌じゃないくせに」
「まあ、運転は嫌いじゃないけどな」
ミロクは乱暴に頭を掻いた。指の間から、肩まで伸びた髪が流れ落ちる。ろくに手入れをしていない、藁色の髪だ。
「スクラップ市も嫌いじゃない。拾う場所のことを思うと複雑だけどな」
「うん。僕ももう、あの場所には立ちたくないかな」
島内で使われている金属類は、全て島外から持ち込まれたものだ。ミロクが乗る車も、元々打ち捨てられていたものを修理して、どうにか使用している。それらの多くは戦場だった場所か、戦争によって滅んだ集落で拾われていた。
軍医時代を思い出したのか、テンガの黒い瞳は哀しみの色を帯びている。人前では冷静でいたテンガが暗い廊下で一人苦しんでいる姿を、ミロクも一度見たことがあった。経験豊富ではあるが、看取った命もまた多いのだ。
金槌の音が響く中、不意にレイがテンガの腕に抱きついた。テンガは目を丸くすると、彼女の丸い頭を優しく撫でる。ミロクよりも更に色素の薄い真っ直ぐな髪が、手の動きに合わせて揺れる。
「大丈夫だよ。レイは、優しい子だね」
「俺に似てな」
「ええ? そうかな?」
笑うテンガの瞳からは、もう哀しみの色が消えていた。大丈夫だと悟ったのだろう。レイはそっと腕を解放する。
テンガはもう一度レイの頭を撫でてから、ミロクに向き直った。
「そういえば、ホウガが優しいミロクに用があるって言ってたよ」
「優しいとは言ってないだろうな。用も、俺の車にあるんだろ」
ホウガの名前を聞いた途端に、ミロクは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「シショクに寄るのは面倒なんだが」
ミロクは、あらゆる糸や布地を扱う通りに目を向ける。いつから様子を窺っていたのだろう。半開きにした木戸に両手を掛けたホウガが、満面の笑みを浮かべている。
「ミロクくーん。レンリさんに、渡してほしいものがあるんだけどー」
「ほらな」
肩をすくめるミロクに、テンガが笑った。ホウガの元に走り出したレイの後を、二人でゆっくりと付いていく。店から出てきたホウガは、両腕でレイを抱きとめた。
「何をお渡しすれば、よろしいので?」
「これよ、これ。新色のお試し品」
レイが離れると、ホウガは前掛けのポケットから端切れの束をミロクの胸に押し付けた。ミロクは押し付けられた束を、何の気なしにめくる。植物の柄や幾何学模様の端切れがある中で、一枚の無地に手を止めた。
「これ、発色が良いな」
ミロクの手を止めたのは、鮮やかな山吹色の端切れだった。
「でしょでしょ? 新色の中でも、かなりの自信作。数年、研究したもの」
ホウガは、自信作に負けないほど鮮やかな笑顔を見せる。彼女の生成り色の前掛けは、様々な色に染まっていた。
「これは、レンリも気に入りそうだな」
仕事中は白衣をまとうレンリだが、実はかなりの衣装持ちで、変幻自在とばかりに姿を変えることを趣味としている。ただ、柄物を来ている印象は無い。無地を重ね着し、色の組み合わせを楽しんでいるようだ。
「ミロクくんが言うなら間違いないわね。レイちゃんも、どう?」
ホウガは、ミロクの手元を覗いているレイに話しかけた。レイは目を輝かせながら、ホウガを見上げる。
「とってもきれい」
「ふふっ。ありがとう」
嬉しそうに目を細めるホウガの両肩に、二人分の手が乗った。手はホウガを後ろへと押しのける。ホウガが何か言う前に、二人の女性がミロクとの間に割って入った。
「ちょっと、ミロクくん。この前来た時も、レイちゃん、同じ服着てたじゃない」
「新しいの、仕立ててあげなさいよ」
眉をつり上げる二人に、ミロクは顔をしかめた。
「うるさいな。今は、仕事中なんだよ」
「良いじゃないか。もう終わりに近いし、寄っていけば」
二人への思わぬ援護射撃に、ミロクは勢いよくテンガを振り返る。「裏切り者」と罵ってみるが、彼の穏やかな笑顔は崩れない。ちらりとレイを見てみると、彼女は何を期待するでもなく、ただ純粋にミロクを見上げていた。
ミロクは、盛大にため息を吐く。
「ったく、しょうがねえな」
折れたミロクに、シショクの娘達が顔を見合わせて笑った。
「さ、レイちゃん。さっそく中に入りましょうね」
レイは二人に言われるがままに、店の中へと入っていった。「じゃあ、僕は役所で待ってるから」という言葉を残して、テンガは歩いていってしまう。忙しいのもあるが、かしましいのが苦手なのだ。
「ほらほら、ミロクくんも。悪いようにはしないから」
促すように肩を叩くホウガに、ミロクは「当たり前だ」と返しながら、渋々店内へと足を踏み入れた。中には見習いの双子もいて、「こんにちはー」と声を揃えて挨拶してくる。それに、片手を上げることで応じた。
塗料などで加工されていない木材で造られた店内は、大きな窓もあって明るい。だだっ広い空間だが、機織り機や布地をしまう棚、道具入れがいくつもあって雑然としている。染色は裏庭で行うのか、部屋の中に道具や材料は見当たらない。奥の階段を上ると居住空間になっているのは、職人街共通の造りだ。
工房の中央には一枚板の机が置かれていて、色とりどりの糸や数種類のハサミ、ペンやものさしが転がっている。リチはそれらを大雑把に机の端に避けると、デザイン帳を広げた。
「たくさん考えたのよ。見て」
リチは時折レイの様子を窺いながら、ページをめくっていく。レイは目を輝かせながら、デザイン帳を見ていた。やがて最後のページに到達すると、リチはレイを見て首を傾げた。
「これで全部だけど、気に入ったものはあった?」
「えっと」と言いながら、レイはページを前へと戻していく。
「これが良い」
彼女が指差したデザインを覗き込んで、ミロクは目を丸くした。レイが選んだワンピースには、スカートの部分に大きな蓮の花が描かれている。
「これで良いのね?」
確認され、レイは大きくうなずいた。
「了解。メーウ、ノーク、採寸お願い」
リチの指示に、見習いの双子が「はい」と元気よく返事をする。
「私が補助に入るわ」
縫製を担当しているシンシがレイの背を押して、工房の奥へと連れていく。その後を、双子が跳ねるようにして追った。
「ミロクくんは、新しい服仕立てなくて良いの? いつも同じつなぎを着ているけど」
ホウガが首を傾げる。ミロクの全身を包んでいる紺色のつなぎは、肩や背中の部分がだいぶ色あせて白っぽくなっていた。一年半ほど前のスクラップ市で買ったもので、元々は膝の部分に穴が開いていた。今も、シンシに繕ってもらった跡が残っている。
実は、前々回に街を訪れた時も、同じ問いをホウガからされた。しかし、何度問われてもミロクの答えは同じだ。
「俺は、着れて動きやすきゃ、何でも良いんだよ」
ぶっきらぼうに言うと、ホウガは苦笑し、リチは呆れたように「つまんない男ー」と呟いた。なんと言われようと、採寸だのに付き合うつもりはミロクには無い。
「んなことより、何か手伝うことあるか?」
シショクで暮らしているのは女性と子供だけだ。力仕事は外からの手助けがなければ難しいものもある。案の定、ホウガもリチも嬉しそうに「ある」と答えた。ミロクとしてもただ待つというのも退屈なので、さっそく指示し始める二人の言葉に素直に従うことにした。
しかし、特にリチは遠慮というものを知らないので、だいぶ大掛かりな模様替えとなった。様子を見に来たテンガも巻き込み、更に近所の男衆にも手伝ってもらい、三時間後にようやくリチが納得する仕上がりとなった。
採寸を追えたレイは、模様替えをした工房を見て「すごい」と拍手を送った。シンシも「よく、がんばったね」と労いの言葉をくれる。リチは満足そうに何度もうなずいた。ミロクには元の工房と鏡映しになっただけのようにしか見えなかったが、言うとうるさいことを分かっているので黙っておく。
役所に寄って街を辞する頃には、辺りが暗くなりかけていた。空は薄い赤とも紫ともつかない不可思議な色をしている。木々を夕日が照らし、ミロクとレイの枯れ草色の髪を輝く稲穂色に染め上げる。
ハンドルを握るミロクは、横目でちらりとレイを見た。
「おまえ、ああいうのが好きだったのか?」
無論、ワンピースに描かれた蓮の模様のことだ。レイは問いには答えずに、窓の外を見回した。
「えっとね。もうちょっと走って」
ミロクが言われるがままに車を走らせると、急に「ここで止めて」と静止の声が掛かった。訳が分からないが、ミロクは素直に従ってやる。
「この前ね、発見したの」
車を降りると、レイに腕を引っ張られながら高台へと上がっていく。
「私達の住んでるところ、お花の形なんだよ」
レイは息を弾ませながらも、楽しそうだ。
「花?」
「うん。蓮のお花」
頂上までくると足を止めた。ミロク達が暮らすロータスの街が一望できる。
レイの言う通り、街は蓮の花に似ていた。レンリ達が働く研究所が花托。そこを中心に広がる住宅街は道で区分けされ、花びらのようだ。蓮の花は外界と二本の橋だけで繋がっており、張られた一本の紐の上に危ういバランスを保ちながら存在している。
蓮の花と認識した途端に、ミロクの表情が歪んだ。
「あれ? ミロク、蓮のお花、嫌い?」
レイの問いに、首を緩く横に振る。
「蓮は、どうでもいい。どうでもいいが、街を造った奴に反吐が出るだけだ」
まだミロク達が大陸に暮らしていた頃に、レンリやヒヨク達が一時的に飛ばされたことがある島だ。その時から秘密裏に、街が造られていたらしい。しかし、守秘義務でもあるのか、その首謀者が誰なのか語る者はいなかった。
街に戻ってくると、ミロクはひとまず自宅の前に車を止めた。
「レイ。おまえは先に家に入って、寝る準備でもしてろ」
「でも……」
ミロクを見上げるレイの顔は、薄暗い中で更に青白く見える。彼女の研究所嫌いは、ミロクの想像を遥かに越えているのかもしれない。
ミロクは彼女の頭に、手を置いた。
「『でも』じゃねえよ。心配するな。毎日、帰ってるだろ?」
「うん……でも、気を付けてね」
ミロクはレイの頭をぽんぽんと軽く叩くと、車に乗り込んだ。不安気なレイを残すのは気が引けるが、ホウガのおつかいはともかく、空箱の返却と職人街の報告のために今日中に研究所に行く必要がある。一つ大きく息を吐くと、車を発進させた。
慣れた道を何の感慨もなく走らせ、薬学部の搬入口に入る。役所の本部も兼ねる研究所には様々な部署があり、本来の役割である研究所としての機能の半分以上は薬学部が所持している。
まずは返却口に車を寄せて、空箱を降ろす。たまにミロクと同じ仕事をしている人間に会うこともあるが、今日は見当たらない。返却口を担当する男に「他の連中は?」と問うと、「他の人間は、スクラップの荷運びに回されているよ」と返ってきた。スクラップ市が近付くと、よくあることだ。
ミロク以外に車を寄せる予定が無いと分かると、これ幸いといったように車を預かってもらう。運搬のための一時停止場所を優先した結果、長時間使用する駐車場は奥まったところにあるため不便なのだ。
レンリの居場所を確認するため、薬学部の受付へと向かう。返却口から受付までは、歩いて数十秒ほどだ。職人街の役場とは違い、白く統一された無機質な壁が続く。レイほどではないが、ミロクも研究所に良い印象は持っていない。更に蓮の中心部かと思うと、自然と眉間に皺が寄った。おかげで、受付嬢に訝しむような目を向けられるはめになった。
レンリは、三階にある自身の研究室にいるらしい。ミロクは端切れの束を片腕に抱えて、受付の向かい側にある階段を上り始める。研究所といえど、昇降機の類は存在しない。研究に使う機材を持ち込むだけで手一杯だったのだろう。研究所で使われている物でさえ、島の外で廃棄されたものを拾い、整備をしたり改造をしたりして使用していることが多いのだ。それなりに働ける環境を整えられているだけでも褒めるに値するのかもしれない。
三階に着いたところで、ミロクを呼ぶ声がした。振り返ると、白衣に着られているといった印象の男が立っている。
「なんです? ヒヨクさん」
ヒヨクはいつも頼りなげな表情をしていて、ミロクよりも年下に見える。しかし、実は見た目の倍以上の歳を重ねているらしい。整形を繰り返した慣れの果てだ、と陰でささやかれているのをミロクも耳にしたことがあった。切りっぱなしの白髪が、唯一彼の年齢を物語っている。
「セハル君ね。整備局入りの許可、出しておいたよ」
「セハル?」
「君、会ったんでしょ? 機械が好きそうな子」
そこまで言われて、ミロクはようやく合点がいった。
「あいつ、セハルって名前だったのか」
ヒヨクがうなずく。鳩が歩く時に首が動くような、独特なうなずき方だ。
「しばらくは勉強のために整備局に通ってもらいながら、ミロク君の車を見てもらうことになったから」
「俺の車?」
ヒヨクの首が、また動いた。
「ろくに点検に出してないんでしょ? だから、いずれは専属で見てもらおうってことで話がまとまったんだ」
「まじか」
「嫌なら、定期的に点検に出した方が良いと思う」
「別に、嫌ってわけじゃねえけど」
ミロクは目を逸らし、頭を掻いた。嫌ではないが、研究所で議題に上るほどの怠りようだったのかと思うと気まずいものがある。
会話が途切れると、廊下の奥からヒヨクを呼ぶ声がした。ずっと様子を窺っていたのだろう。ヒヨクは首だけ振り返ると、相手に小さく手を振った。振り返るさままで鳩みたいだ。
「僕は、もう行かないと。詳細は、レンリから聞いてくれる?」
「りょーかいです」
ミロクが片手を挙げると、ヒヨクも同じように片手を挙げてから、相手の元に小走りで去っていった。ミロクは軽く息を吐くと、改めてレンリの研究室に足を向ける。
ヒヨクの方は気安く声を掛けてくるが、ミロクはどうも彼のことが好きになれないでいる。人となりというよりは、島に引っ越す前に行っていた研究の内容が原因だ。ミロクはもう一度、ゆっくりと息を吐いた。
レンリの研究室は、最奥から数えて二番目の部屋だ。ノックをして名前を告げると、「入って良いぞ」と声がする。ドアを開けると、目的の人物の向こう側にセハルが座っていて、ミロクは目を丸くした。
「まあ、座れ。先に、報告を聞こうか。彼のことなら構わなくて良い」
セハルが椅子を譲ってくれたので、遠慮なくレンリの正面に座る。まずは、街の人口に増減は無いこと、これといった異変も無いことを話した。
「来月の三日から五日にかけてスクラップ市を開くから、広報に上げておいてくれって」
「分かった」
レンリが書き留めるのを見届けてから、片腕に抱えていたものを差し出す。
「それと、これはホウガから。新しい生地のサンプルだとさ」
レンリはほほ笑みながら、サンプルを受け取った。
「これは、ありがたい」
言うなり、白い手が端切れをめくりだす。
「ふむふむ。この桜色の生地も良いが、こっちの山吹は素晴らしい出来だな」
予想通りの感想に、ミロクの口元に笑みが浮かぶ。この後、顔を上げたレンリが何を言い出すかも容易に想像ができて、更に口角が上がった。
「おい、ミロク。次の休み、職人街まで連れていってくれ」
案の定だ。ミロクは笑みはそのままに、肩をすくめた。
「別に、構わねえけど。次の休みって、いつだ?」
レンリはカレンダーを指差した。彼女自身が線を引き、日付を書き込んだ、いたって簡素なものだ。
「来月の三日。ちょうど、スクラップ市の時だな」
「了解した」
スクラップ市の時なら、ミロクにとっても好都合だ。レンリを待つ間、シショクの娘たちに絡まれなくてすむ。
これで話は終わりかとミロクは立ち上がりかけたが、「まだ話がある」とレンリに止められ、座りなおした。彼女は、部屋の隅に移動していたセハルを指差す。
「こいつのことだが。会議で、おまえの家に預けることが決まった」
たっぷりと間を置いた後、ミロクは「はあっ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「なんでだっ?」
「いや、最初は研究所の人間で預かろう、という話も出ていたのだがな」
細い顎に手を添えたレンリは、人が声を荒げても冷静なままだ。
「ヒヨクは性格的に、慣れぬ人間との同居に無理がある。私は、年頃の娘だからダメだと」
「うちにも一人、年頃の娘がいるんだがな」
行動こそ幼いが、レイも十三、四になるはずだ。ミロクも託された身なので、正確な年齢は分からないが。
レンリもそこは認めるところであったらしい。「中身は、生まれたばかりのひよっこだがな」とうなずいている。
「他にもルタとか、いろんな行先の候補があったのだが。最終的に、おまえの車の専属になるなら、ということで話がまとまった。おまえ、点検を怠りすぎだろう」
呆れるレンリに、ミロクは頭を掻きながら目を逸らした。
「返す言葉もねえよ」
「うむ。では、異論は無いな」
レンリの言葉で話はまとまったと悟ったのか、セハルがミロクの前に移動する。「よろしくお願いします」と頭を下げた彼の背筋は真っ直ぐ伸びていて、『礼のお手本』と言うに相応しいものだった。
「ああ、よろしく」
ミロクの言葉に、セハルが顔を上げる。朝の出会いとは違い、攻撃なところは見当たらない。ただただ真面目な少年だ。
ミロクはセハルに気付かれないように、小さく息を吐いた。
レンリの研究室を辞すると、元来た道を戻っていく。セハルはおとなしく、ミロクの後ろを付いてくる。車に乗った後も、物珍しそうに窓の外を見ているだけで特に言葉を発することは無かった。
「ここが俺の家」
ミロクの家は、第四地区と呼ばれる所にある。住宅街といっても島民の人口がしれているため、ほとんどが空き家だ。窓から明かりが漏れている家は、周囲に五、六軒しかない。
周りと比べても特に変わったところがない二階建ての家を、セハルはまじまじと見上げる。
「そんなに珍しいか?」
ミロクの問いに、セハルは「いや」とようやく口を開いた。
「さっきまで研究所にいたから」
なるほど、とミロクはうなずいた。昇降機さえ無い研究所ではあるが、それでも優先的に資材が回されている。民家をよく見てみれば、壁板は一枚一枚木の種類が違っていたりするし、屋根もトタンに木に平たい石と統一感が無い。
「まあ、研究所に比べりゃ、どこの家もみすぼらしいもんだ」
「そんなことないっ」
思いのほか強い口調に、ミロクは目を丸くする。
「なんていうか、温かい感じがする。俺は、こっちの方が好きだ」
真剣な眼差しに、ミロクはしばらく呆けた後、瞬きを繰り返した。
「あ、ああ、そうか。まあ、とりあえず入ってくれ」
ミロクはドアを開いて先にセハルを通すと、自身も中に入ってドアを閉めた。
「おーい、レイ。帰ったぞー」
呼ばわると、すぐに忙しない足音が近付いてくる。「おかえりなさいっ」と笑顔を見せたレイは、そのままの顔で固まった。
「まあ、驚くよな」
ミロクはレイの傍に寄ると、頭を掻き回すように撫でた。
「よーく聞けよ。これから一緒に住むことになった、セハルだ」
「一緒に住む?」
きょとんとしたレイは、次の瞬間には満面の笑みでセハルを見た。
「一緒に住むのっ? 私、レイッ。あなたはっ?」
勢いよくセハルに迫るレイに、「話、聞いとけよ」とミロクはため息を吐いた。セハルはたじろぎながらも、「セハルです。よろしくお願いします」と律儀に返事をしている。喜びで、じっとしていられないのだろう。レイは数回、その場で飛び跳ねた。
「ミロク。良い事、思いついたよ」
くるっと体の向きを変えた彼女の頬は、興奮で真っ赤に染まっている。
「明日、街を案内してあげよう」
「却下だ」
ミロクは、レイの額を指で弾いた。
「俺は、明日も仕事なんだよ。おまえだって検診があるだろうが。研究所が嫌だからって、さぼるんじゃねえよ」
「午後からだもん。ミロクだって、お昼からでも間に合うくせにっ」
「分かった、分かった」
口を尖らせて地団太を踏むレイに、ミロクはため息を吐いた。機嫌を盛大に損ねたレイは、なかなかに面倒くさい。街の案内の方がまだマシだと、ミロクは判断した。
「セハル。悪いが明日の朝、付き合ってもらえるか? おまえも、何も知らないじゃ不便だろ?」
「確かに」
了承したセハルの顔には微笑ましいと書いてあるようで、思わずミロクは顔をしかめた。
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