第19話 嵐の後の小雨、そしてネタばらし

 雨音あまねは背中を向けて隅っこに座っていた。

 いつもの黒いワンピース姿になっているが、崩れてしまった髪にはまだ大きなリボンがついたままだった。

「こんなに脱ぎ散らかして、シワになっちゃうよ」

 れんがぼやきながら部屋のあちこちに散らばった着物を回収し、やはり仕組みを確認してから備え付けのハンガーにかけている。雨音は振り向きもせず、ずっとうつむいている。


「雨音さん、少し落ち着いたらお風呂でも入っておいで。疲れたんだよ」

 蓮が声をかけても答えない。

「温泉だよ、気持ちいいし、疲れが取れるよ。雨音さん、お風呂に入って少し寝たら」


「そうやってまた私を厄介払いするの」


 涙に震える声で雨音がようやく答えた。蓮がたじろぐ。

「厄介払いなんて、そんな」

「そうじゃない。エステなんか予約してくれても、あなたは私がどう変わろうとどうでもいいんじゃない。私から解放される時間がほしかっただけでしょ」

 雨音は完全にひねくれた。蓮は困ったように雨音の背中の前に座った。

「そんなことないよ」

「じゃあさっきはどこに行っていたの。車が混むような道、この町の中にはないでしょう」

 雨音の背中が力なく詰問する。蓮はそれは、と言い淀んで返答をためらった。


「ほらやっぱり。言いたくないなら、いい。もういい」

「雨音さん、そんなことないってば」

 蓮は雨音の正面に回ろうとしたが、雨音は本当に部屋の隅にいてその隙間もなかった。仕方なく、蓮は強引に雨音の肩を掴んで向きを変えさせた。

 ほとんど抵抗もせず、しかし雨音はうつむいて完全に自分の殻に閉じこもっている。蓮はそのうつむいたままの雨音をのぞきこむようにして、ゆっくり言った。

「雨音さん、急に連れ出してごめんね。でも、温泉もあるから、ゆっくりしようよ。疲れてるからいやになっちゃうんだと思うんだ、お風呂に入って、少し休んだら」


「……違うわ」

 雨音が我慢できなくなったみたいにとうとう顔を上げた。蓮を見つめる目がすぐに涙でいっぱいになり、言葉と共にこぼれる。

「蓮に、きれいだって、言ってほしかったのに」

「え?」

 蓮は突然自分の名前が出てきてきょとんとした。

「蓮に、あなたに見てほしかったのに。きれいだって言ってほしかったのに。だからエステも、髪も、着物も、ネイルだってしてもらったのに。あなたは私のことなんか全然見てくれない。待ち合わせの時間の、あの時が、私、いちばん、きれいだったのよ」

 話すうち、雨音はまた言葉も途切れ途切れになるくらい泣いてしまった。

 蓮は予想外のことを言われたような、ひどく驚いた顔をしていた。俺はその鈍感ぶりに驚くよ。


 蓮は戸惑いながらティッシュで雨音の涙を拭き、つっかえるのを無理矢理押し出すように言った。

「……きれいだよ」

「もうきれいじゃない」

「雨音さんはいつもきれいだよ」

「きれいじゃない。あの時は、特別にきれいに」

「きれいだよ」

 蓮は泣きじゃくる雨音を抱きしめた。

「雨音さんはきれいだよ。いつもきれいだよ。でもさっきは本当にきれいで、俺が知ってる雨音さんじゃなくなっちゃったみたいで、怖かった。本当は、雨音さんは俺のだって、ひとりじめしたかったよ」


 雨音は涙でいっぱいの目で蓮を見上げた。

「ほんと?」

 蓮は困ったように笑い、うん、とうなずいた。

「でも、そんなことしたら、もったいないから。みんな、雨音さんのことを見てあんなに喜んでたじゃないか。俺だけなんて、もったいないよ」

「私は、その方がいいな」


 雨音は甘えるように蓮の胸に頭を押し付けた。

「ねえ蓮、どこに行っていたの。私のこと、いやになっちゃった?」

 雨音はこわごわ尋ねた。蓮は苦笑した。

「ならないよ。なる訳ない。でも……ちょっと、帰ろうか」

 えっ、と雨音が蓮を見上げた。蓮が雨音を離し、仏の心で見守っていた俺をお出かけバッグに放り込む。

「さ、行くよ」

 蓮は雨音の手を引いた。


 車の中では、今度は雨音が蓮の様子を事あるごとにうかがっていた。

 蓮は怒った訳ではなさそうだった。いつもと同じのんびりした顔で、しかし道は間違いなく家に帰る道で。

 雨音が帰るの、荷物は、と尋ねても、蓮はいいからいいからと半笑いだ。

 財布くらいは持ってきたけれど、着替えや、俺のエサ皿も旅館だ。取りに戻るのは車があれば困難というほどではないが、俺も雨音も車の運転はできない。


 雨音も蓮の考えていることがわからなくて、戸惑っているようだった。

「私がわがままを言ったから、怒ったの?」

「違うよ。……ただ、俺ってダメだなあって思ってさ」

 その意見には全面的に無条件で即座に全身全霊全力で同意するが、だからといって旅館をキャンセルするほどなのだろうか。

 泊まろうが泊まるまいが、ごはんを食べようが食べまいが、もう全額取られるタイミングだろう。それなら雨音も少し落ち着いたし、せっかくなら泊まった方がお得なのではないだろうか。俺も広い部屋は楽しいし、高級な布団がどんなものか寝てみたかった。


 雨音が、ずっと笑顔の蓮に何と話しかけていいものか考えあぐねているうちに、家に着いた。


 車から降りて、俺と雨音は仰天した。

 いつも蓮が車を置いているところに、鉄の柱が4本、にゅっと立っている。


「カーポートがほしいなってずっと思ってたんだ」


 業者らしい男性が数人、作業をしていた。

「ああ渋澤しぶさわさん、またお帰りですか」

 作業者の中でも年配の男性が、蓮に声をかけた。

「何度もすみません、家族が見てみたいと言うので」

 男性は雨音を見てほう、と感嘆し、俺を見ていかつい相貌をふにゃりと崩した。

「きれいな奥様と、可愛いチビ助ですね」

 いやあ、なんて蓮はにやけた。謙遜しない。


「蓮、これは……」

 雨音がぽかんとして柱を見上げた。俺も同じ顔をしていただろう。蓮はバッグごと俺を抱き上げ、この柱の上に屋根ができるんだよ、と俺に説明した。

「雪の時に車出すの大変だから、いつか建てたかったんだけど、マオのこと聞いたら今だって思ってね。屋根があれば、雨の日でも少しは外に出られるだろ」


 俺のためか。蓮、お前。


「工事してもらっている間、俺の車が邪魔になるし、人の出入りもあったり大きな音もするから、いっそ出かけようと思って。でも最初だけ立ち合いが必要だったから、俺だけ戻ってきてたんだよ。雨音さんが電話くれた時、ちょうど柱の位置を決めててね。ごめんね」

 蓮が雨音に謝った。雨音は目をまんまるにして蓮にくっつき、資材や梯子、業者の動きを見ている。


 確かに知らない人の車があるけど、1台じゃないじゃないか。その中の1台はトラックだし。佳久郎かくろうめ、そこが大事なところだよ。やっぱり烏は大事なところが抜けているんだ。

「明日には屋根もつきますよ」

「ありがとうございます、よろしくお願いします」

 蓮は作業中の男性に頭を下げて、じゃ戻ろうか、と車に戻った。

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