旅行に行こう、車でほんの三十分の温泉町に

第12話 君が好きだと言うのなら、雨も嫌いじゃないけれど

 最近あまり外に出ていない。


 まーうー、と俺は雨音に訴えた。

 外に出たいよ。雨音、お散歩したいよ。

「そうね、でも雨だからダメよ。マオは濡れるのいやでしょう」

 我慢しようね、と抱きあげられてなでられ、俺は不満が残りながらも諦めざるを得なかった。


 俺は窓から外を眺めた。

 今日も雨。昨日も、その前も、ずーっと雨。ちょっとだけ晴れても地面はべちゃべちゃで、とても薬草畑を歩く気にはなれない。

 乾いた短い草の上を歩きたいなあ。虫や鳥を追っかけたいなあ。日向でごろごろしたいなあ。俺がたくさん走れるところを雨音に見せたいなあ。

 家の中でも俺は上手に走れるけれど、やっぱり外が気持ちいい。


 ねえ雨音、なんでずっと雨なの。雨もういいよ、外に出たいよ。

 にゃあん。

「そうね、マオはお日さまが見たいよね」

 雨音は俺の頭に頬をこすりつけ、ふっと窓の外を見た。

「でも私は雨も好き。雨の音が好き。雨の降る世界の匂いが好き。空から降る水は、神様の命のお裾分け。恩恵なのよ」

 雨音は口にする言葉すら大切そうにして、俺に教えた。それが水妖ウンディーネの、雨音の宗教観なのだろうか。


 そして雨音は俺を抱き上げたまま、不思議な旋律を口ずさんでステップを踏んだ。

 きれいな声。聞いたことのない抑揚、言葉、でもなんてゆったりとしてるんだろう。君と波に揺られたら、こんな気持ちになるだろうか。甘く優しく、この先が気になる、何とも焦れったいような歌。

 夢のようにひらめく雨音の長い髪。動きのままに揺れる俺のしっぽ。

 体が、重くなる。


 にゃあーっ!


 俺は鋭く叫び、雨音ははっとして歌うのをやめた。

 魔法の力が働いていた。無意識に魔法の歌を歌ってしまったらしい。

「ごめんね、大丈夫?」

 俺はにゃんと答え、雨音を見た。ほっとしたように雨音が笑う。何だか最近、ますますきれいになったな。やっぱり水があると元気になるんだろうか。しかし、人の世界で生きているんだから、もう人間になったはずなのに。

 水妖の伝説は物知りの魔道士から聞いたことがあるのだが、あんまり昔で忘れてしまった。人間になっても魔法は使えるのかな。

 雨音のことは何でも知りたいけれど、このことはあまり深く知ろうとしない方がいいような気がした。

 雨音は俺が知っている雨音で十分だ。


 今日も雨だ。せっかく蓮が休みなのに。

 俺は家中を走り回った。別に蓮はいてもいなくてもいいが、車があると公園に行けるのに。

 いっぱい走りたい。走らなくてもいい。外に出たいよ。

 俺は雨音のスカートを引っ張った。

 ちょっとくらいの雨はもう我慢するから、外に出して。

 にゃおーん。

「マオ、ダメよ。雨だもの。濡れちゃうわ」

 大丈夫、濡れるくらい平気だから、出して出して。


「お?マオ、外に出たいのか」

 蓮が俺を抱き上げる。この際もう蓮でもいい。出せ、早く開けろ。

「蓮、ダメよ、マオは濡れるの嫌いだから」

「そーれ」

 雨音が心配して止める声を聞きながら、蓮は俺をぽーんと外に放り投げた。


 わあい、外だ。飛びながら俺は思う。

 雨だ!飛びながら俺は気付いた。

 足がびちゃっとなっちゃった!着地して、足が濡れた。


 俺は即座に踵を返し、ダッシュで玄関に戻った。

 なおーう、うにゃー!

 この野郎、バカ蓮!濡れたじゃないか!背中も少し濡れた。何てことするんだよ!

 俺はおなかを抱えて笑っている蓮に猛抗議した。雨音が苦笑している。雨音も蓮を叱ってよ!

「マオ、足拭きましょうね」

 まおー、まおー!

 雨音に抱っこされて足を拭かれながら、俺は蓮に抗議し続けた。

「もうずっと外に出られないからつまらないのよ。意地悪しないであげて」

「あはは、ごめんごめんマオ」

 蓮がなでようと手を出すから噛んでやった。

「いたた、怒ってるなあ」

 蓮はますますおかしそうに笑っている。こいつめ、本気で噛んでやろうか。


「そうだよなあ、外に出たいよなあ」

 蓮は雨音から俺を抱き上げた。

「屋根があるといいのかなあ」

「本当はガレージを片付けて、シャッターを開けてあげられればいいんだけど」

 雨音が申し訳なさそうに言った。車用だったガレージは、今ではすっかり雨音の作業場になっている。薬草を干したりしているので、あまりシャッターを開けるのは好ましくないようだ。


「マオ、俺と家の中競走しようか!」

 蓮が俺をぶらぶら揺らしながら言った。やだよ、どうせ俺が勝つに決まっているもの。

 蓮が俺を下ろしたので、俺は自分の段ボールに戻った。蓮がついてくるが無視する。

 いいよもう。寝るもん。

「マオ、遊ばないのか?」

 うるさいなあ。寝るんだよ。

 俺はちょっとだけ顔をあげてにゃ、と呟き、箱の中で丸くなった。


 次の週末、蓮は突然明日は泊まりに行こうと言い出した。

「猫と泊まれる所予約したから、マオも一緒だぞ」

 蓮がおでこをくっつけようとするので、前足を突っ張って阻止した。

「どうしたの急に?どこに行くの?」

 蓮はここから車で三十分ほどの温泉町だと言った。そんな近くに泊まりにいくのか?

「日帰りじゃないの?」

「たまにはゆっくりしようよ。ね、マオ」

 それはいいが、ただの土日だ。連休でもないし、帰ってきた翌日は蓮は普通に会社のはずだ。

 俺と雨音は顔を見合わせたが、蓮はご機嫌で俺のお出かけバッグの準備を始めた。


「あ、雨音さん、明日はエステも予約してあるからね」

「エステ?」

 雨音は飛び上がりそうになった。確かにテレビで見たりするとやってみたいとか言っているけれど、雨音は人見知りだ。外では蓮がいないところには行きたがらない。

「大丈夫、猫と一緒のコースだから。マオもきれいになっちゃうぞ」

 突然出番を宣言されて、俺も驚いた。猫がエステ?訳がわからないよ。

「何なの、蓮、急過ぎよ、何かあったの?」

 蓮はいつもと同じ顔で何でもないよ、と笑った。


 朝ごはんを食べて、3人で車に乗る。着くのはあと三十分後だから、昼前どころじゃない。朝のうちだ。

「午後からじゃないとチェックインできないから、午前中は公園を散歩しよう。町から見える山が、公園になってるからさ」

 蓮は楽しそうに運転している。雨音は不安そうだ。頭上のもくもくに曇った空と同じ顔をしている。雨は今朝やっとやんだばかりで、重い雲は全く晴れない。


 途中、休憩するほどでもないが道の駅で休憩した。俺は雨音と駐車場の隅で少し遊んだ。蓮がいないと思ったら、車の中で電話しているようだった。

 おもちゃが動かないな。雨音、雨音。

 見上げると、雨音は見たことのない目で蓮を見ていた。蓮は気付かずに電話している。

 蓮が電話を切った時、雨音はもとのようにおもちゃで俺をじゃらしていた。

「ごめんごめん、マオ、遊ぼうか」

「もう十分よ。行きましょう」

 やっと車から降りてきた蓮がおもちゃを手にしようとすると、雨音はそれを避けるみたいにおもちゃをバッグにしまった。そして俺もしまわれた。

「あ、雨音さん?」

 雨音は答えず、俺を後部座席に置いて、助手席に座った。

 蓮は少し戸惑っていたが、仕方なく運転席に戻った。


「何の電話だったの?」

「え?ああ、いや、何でもないよ」

 俺はハラハラした。蓮、その返答は多分間違っている。雨音の気配がみるみる尖っていくじゃないか。

 蓮も何かうまくない流れになりそうになっていることには気付いたようだが、だからと言って流れを変えられるほど器用ではない。

 蓮は言葉に迷い、結局黙り込んだ。

 蓮、それは一番ダメな奴だ。

 俺だって手練手管に長けている訳じゃないが、女が怒っている時、男が黙るのは良くない。女はますます自分の中で怒りを熟成しはじめる。


 せっかくの旅行なんだから、2人ともしっかりしてくれよ。人間だろ。

 俺はにゃおーんと鳴いてみたが、2人の会話は復活しなかった。

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