絶対に試験に合格する俺と彼女

直井千葉@「頑張ってるで賞」発売中

絶対に試験に合格する俺と彼女_(1)

「いよいよ明日だね」

「それ五回目だぞ。緊張してるのか?」

「もちろん!」


 快活に藤川幸代が返事をした。寒さの続く二月下旬。風が吹くだけで緊張は氷塊の如く膨張するが、目の前の東京大学の赤門は、北風と太陽のように内側からこれを燃え上がらせる。


「まさに高いハードルって感じでそびえ立っているもんだな」

「ハードルが高いならくぐればいいのよ」

「まあそれが門というものだからな」

「大統領は落ち着いているなあ」

「……いい加減、東京ではそのあだ名やめてくれ」


 藤川は当然のように無視してスマホのカメラを構えていた。茶色のシンプルな手袋を片方だけ外して操作している。中指の第一関節にペンだこがあった。きれいな彼女の手の中でそれは目を引いた。「持ち方が汚いのよ。それに書かないと覚えられない。それだけよ」と彼女は困ったように笑って自分の熱視線を躱す。効率という言葉を大義名分にして、愚直な努力から逃げてしまう自分にとっては眩しい勲章だった。彼女の手を見るたびに、机に向かう時間が増えた。


 連続したシャッター音がした。自分たちが不慣れな存在である証明。だが、藤川も俺も決して浮かれた観光客などではなかった。東大受験生、という言葉が最も正確な表現だろう。入試を明日に控え、念のために会場までの経路を下見に来ていた。東京と聞くだけで萎縮してしまう田舎の出身だった。

 ひとしきり写真を撮り終えると、それで藤川とは別れた。俺は近くでホテルを予約したが、藤川は違った。東京に住む親戚の家に泊めてもらうという。


 明日が遂に東大入試。三年間、計画的に勉強を進めてきた。落ち着いて実力を発揮すれば必ず合格出来る。それだけの自信があった。

 勉強部と生徒から揶揄される文芸部に所属していた。元はテスト勉強の互助会くらいの存在であった活動が、いつからか本来の文芸活動を食うようになったらしい。それを利用してきた。必ず東大に行く、その目標のために部内恋愛禁止をはじめとした規則を設け、勉学に最適な環境を作り上げた。部員全員に恋人がいなかったためか、拍手をもって提案は承認された。なぜか俺は「大統領」のあだ名を拝命した。


 今まで間違えた問題を中心に復習をする。前日ともなれば行うべきことは単純で、体調を万全に持っていく方がよほど大事。準備の出来ている証拠だ。

 天気予報を確認すると明日は晴天。気温も冬にしては暖かい。それほど雪の降らない印象のある東京だが、過去には受験日と重なって大雪となり、受験生に大きな打撃を与えたこともあるという。自分には関係ないが、藤川は電車だ。しかも地下鉄だけで来られる場所ではなかった。


 しかしこれでいよいよ憂いは無くなった。会場への経路は確認した。寒暖を調節できるよう服装は用意した。常備薬も万全。筆記具もある。万が一の金も靴に仕込んだ。

 寝る前にメッセージを確認すると親、友人、部活仲間と連絡が来ていた。どれも応援の内容だった。簡単に返信をする。「今までありがとう。頑張ろう」藤川からも来ていた。一言ではない文面に当て推量してしまう。頑張ろう、だけでも良かったはずなのだ。振り返るのはすべて終わった後でいい。今は研ぎ澄ますべきだとは彼女も分かっているはずだった。簡単な言葉で返すことが憚られる。少し迷って「頑張ろう」とそれだけ送った。



 翌日は天気予報通りの快晴であった。狭い空に雲は一つもない。深呼吸すると肺に冷たい空気が流れ込んだ。今朝もいつもと同じ時刻に目が覚めた。軽くストレッチをして、砂糖をいれたコーヒーを飲む。この半年間意識的に継続したルーティンを終え、自分がまったくいつも通りであることを確認した。ここまでの自分の努力がすべて意味を成していると感じた。


 完璧だった。少なくとも、俺自身は。


 どうも藤川には何か問題があったのではないかと気になり始めていた。

 電車に乗ったら連絡すると、先日藤川から伝えられていた。起床の連絡は受けたが、以降途絶えている。余裕を持って向かうならば、もう電車に乗っていてもおかしくない時間だった。余裕を持つならばの話、まだ間に合わない時間ではない。地元のように電車が数本しかない土地でもない。しかし、普段の学校生活でも模試の時でも、彼女が時間ぎりぎりに行動しているところはみたことがなかった。絶対にまだ電車に乗っていないなんてことはないはず。確信があった。


「何か問題あったりしたのか? 電車は乗れた?」とひとまずメッセージを送る。冬日和の待ち時間は間延びして気の遠くなるほど長く、試験でもこのくらいの体感で時間が流れたのなら間違いなく合格できると苛立った。五分で痺れを切らした。何もないならそれでいいのだと判断して通話をかける。


「大統領?」


 数秒も待たないうちに通話が繋がり、藤川の声がした。芯のない軽い声。雑踏の音がする。


「藤川? ごめん、電車乗れてるのか気になって」

「私、間に合わないかもしれない」


 取り乱していない声に、一瞬聞き間違えたのかと思った。

 最初の理解で正しいのだと思い直したときには、タンスの引き出しを全部ひっくり返したみたいに頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。


「……どういうこと? 説明している時間はある?」

「電車が人身事故で動かなくなっちゃった。いつ動くのか全然分からないの」

「事故? 今どこだ? 駅?」

「まだ駅にいる。バスでどうやっていくんだろうって調べてて、でも電車は分かるんだけど東京のバスって全然分かんない」


 藤川は何だか投げやりだった。感情的でないだけで、彼女もいっぱいいっぱいなのかもしれない。

 間に合う方法があったはずと頭を捻る。誰よりも努力してきた彼女が、試験を受けることすら叶わないなんて絶対に許せない。

 心当たりがあった。母親から以前聞いた話を必死に思い出そうとしていた。以前東京で働いていた母は、電車が止まったときにどうするべきかを教えてくれていた。元は自分も遠いホテルのはずだったのだ。キャンセル待ちを粘った結果不要となり、そのまま忘れてしまった。

 振替輸送っていうのがあるんだけど、多分難しいだろうから――


「タクシーだ」

「タクシー?」

「東京はそうなんだ。駅前なら拾えるはず。タクシーを使おう」

「分かった……あ、でもタクシーってお金かかるよね。私、そんなに手持ちがない。叔母さんの家に置いてきてて最低限くらいしか」

「俺が払う。心配しなくていいから、とにかく早く乗るんだ。乗ったらすぐに連絡をくれ」

「……分かった、ありがとう。じゃあ一旦切る」


 通話が切れたことを確認して、すぐに検索画面を開いた。以前聞いた駅名から東大までの料金を検索する。新幹線と同じくらいの料金が表示され、一瞬血の気が引いた。慌てて財布を確認すると、まったく問題ないだけの額が入っていた。そっと胸をなでおろす。そういえば何があってもいいようにと、母から多めに渡されていたのだ。


「乗れました」藤川からメッセージで連絡があった。

「東大のどこに着くか教えて欲しい」

「ここらへん」

「了解。そこで待ってる。何かあればすぐ電話して」


 ほとんど目の前で降ろしてもらえるようだった。推定到着時刻を調べてみたが、電車とあまり変わらない。渋滞に巻き込まれさえしなければ問題なさそうだ。時間に余裕があったので、少しノートに目を通してからホテルをチェックアウトし、指定された場所へと向かった。


「順調に進んでる!」「運転手さんが後十分くらいだって!」


 藤川からは随時連絡が来ていた。一足先に指示のあった場所へ到着し、安堵の息を吐く。一時はどうなることかと焦ったが、おそらくもう大丈夫だろう。

 ノートを開くような場所でもなかったので、念のため最後の持ち物確認を行う。受験票はある。筆記具もある。問題なく試験は受けられる。……財布がない?

 目の前が暗黒に染まった。日射病のような立ち眩みでくらりと身体の力が抜け、あやうく倒れそうになる。

 落としたのか? いや、ホテルを出てからリュックは触っていない。万が一に備えて前待ちしていたから盗難も考えにくい。最後に触った記憶があるのは、タクシー代が払えるか確認した時。料金を調べて、財布の中身を確認して、直後に藤川から乗れたという連絡があって……そのまましまうのを忘れた。


 携帯が震える。


「あとちょっとで着く!」


 先ほどまでは待ち遠しかった藤川の到着が、今は刑務官の靴音のように思えた。後十分ではさすがに戻ってこられない。タクシーが多少待ってくれるものか分からなかった。もし警察を呼ばれたら、いよいよ試験どころではない。首を絞められたみたいに呼吸がうまくできなかった。

 頭を振って一度根拠のない考えを追い出す。これ以上突っ立って考えている暇はもうない。考えることも藤川への連絡も、走りながらするべきだ。

 屈んで靴ひもを固く締める。履き慣れた靴で来て良かった。歩きやすさを重視している。ただいつもと違って今はお金を仕込んでいるから、それが心配――


 はっとして顔を上げた。そうだ、お金ならあるじゃないか。一万円。調べた料金よりわずかに少ないが、藤川の手持ちと合わせれば足りるはずだ。

 すぐ立ち上がると藤川に連絡して今の所持金を尋ねた。十分な金額を所持していることを確認する。続いてホテルにも連絡。部屋を調べてもらい、財布があることを確認した。


「もうすぐ!」

「着いた!」


 顔を上げると、丁度目の前にタクシーが滑り込んでくるところだった。

 藤川に折り目のついた一万円を渡す。

 問題なく料金を払い、藤川が降りてくる。

 大冒険を乗せていたタクシーは、あっけなく走り去った。

 

 藤川はすっかり恐縮して礼と謝罪を繰り返した。思っていたよりも繊細に傷ついている。どんな言葉をかけるべきか迷った。達成感も罪悪感も前進する力に変えられないのならば今は不要なのだ。目の前のことに集中してくれればいい。結果だけを見ればほとんど予定通りの時間にこの場所にいるのだ。


「藤川、大丈夫。予定通りだ」悩んだ末、努めて鷹揚に話し始める。「これで完璧だ。俺たちは、何があろうと目的を果たすために準備してきたんだ。寧ろ安心しただろう。こんな不運も乗り越えた。俺たちの準備してきたことは間違っていなかった。今からもそうだ。何があっても俺たちは合格できる。だから顔を上げろ」


 藤川は力いっぱいに拳を握りしめて、言葉に出来ない感情を押し殺していた。それでも顔を上げた。不格好なペンだこに目がいく。ここまで切磋琢磨してきた彼女なら今自分が何をすべきか分かっている。

 小さく顎を引いて笑うと、戦場で背中を預ける友のように心強い。

 もう大丈夫なようだった。

 俺も頷いて返す。

 そうだ、後は研ぎ澄ますだけ。



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