第55話

 病院の中の光景は、夢の中の様だった。それぞれに別の場所を目当てに、年齢も性別も関係なくそこにいる。ここに居る人のほとんどは死ぬ日を知らない。予感を抱く人は居るかも知れないが、確定事項として自分の死ぬ日を知っている人はいないのだ。

 私はあなたの未来を抱いているような気がしてしまう。あなたの死をその身に返すのが、私の役目のような気がしてしまう。その考えが振り払えず、あなたに会う前に、私の心は沈んだ。

 それでも私は、あなたの病室の前に立ち、ノックをした。あなたの返事が返ってきて、ドアをスライドさせる。そこにはあなたのおばさんが来ていて、私は思わず中に入るのを躊躇った。その空気を敏感に感じとって、あなたのおばさんは笑って、あなたに「またあとで来るね」と言い、私の脇を通って出て行った。今の私はまだ、彼女とそれほど親しくはないのだと思うと、どんな挨拶をするべきか迷っている間に、小さく会釈をすることしかできなかった。それで別段彼女が不振そうにすることはなかったけれど、違和感が私にだけ残った。

 あなたは寝たままの体勢で私を見上げた。少し疲れが出ているように見える。

 彼女が座っていた椅子に、私は腰掛けた。

「来てくれて良かった。もしかしたら、来てくれないんじゃないかと思ってた」

 あなたの言葉に、私は笑った。そしてするりと言葉が零れ出た。

「ごめんなさい。昨日は、酷い言い方をしました」

「そうかな。きちんと言葉にして伝えようとしてくれただけだよ」

「でも」

「それじゃあ、続きを聞かせて。昨日は気になって、なかなか眠れなかったよ。だから今日はちょっとこのままの体勢で聞くことになるけど、いいかな」

 私は頷いた。弱っているあなたを見ると、私の目にはすぐに膜が張ってしまうようになっていた。本当に子供の時には、堪えていられたことが、年月を重ねたことで我慢が出来ないだなんておかしかった。

「ちょっと怠いのだけれど、心配しないで。そうは言っても、信頼がないだろうな」

 あなたは笑った。私は、はじめの人生では起こらなかったことを、詳しく話すことにした。後輩の女の子は、本をとても愛していること。図書館ではなく、学校の図書室に通うようになったことで出会ったひとだった。彼女に借りた本から、三年生になって出来た級友の話もした。級友の夢の話や、それを現実にしていったことも。日本中を旅したあとは、世界に出て行ってしまった彼女とは、その後の交流は時折寄越される葉書くらいになってしまったが、そこに書かれた世界の日常に彼女がいつでも心を躍らせていることが伝わった。あなたのおばさんとの関係も、途切れずに続いたことも話した。彼女がひとりで産む選択をとったことは、言わなかった。私が働いていた書店のことも話した。そこでの人間関係の移り変わりや、店長の穏やかな性格、買いに来る人たちが時間帯によって違うという発見も話した。

「僕の目の前にいるのは、学生の君なのに、その中には二十年も多くの時間が詰め込まれているなんて、不思議だね」

 楽しそうなあなたの表情を見ながら、私は意を決して口を開いた。喉の筋肉が強ばっているのが分かった。そっと首に手を沿わせ、自分の手の温度に内側の自分が手を重ねる。

「私の二度の十年には、ずっとあなたへの気持ちがありました。あなたがいない時間を生きるのは苦しかった。息がうまく出来ないような感覚がずっとあって。あなたがいないのに、私が生きていることが不自然で、腹立たしくて、怖かった。あなたがいないと思うことも許せないのに、それを認められないことも、あなたへの裏切りのように感じた。あなたが残したものは全て受け入れようと思ってきた。必死で呑み込んだ全てが、私の内側をずたずたにしていくようだった」

 言いながら、これではあなたへの恨み言になっていると焦った。それなのに、勢いを止めることができなかった。言えなかった言葉は多過ぎたし、言えないはずだった言葉で、私の内側はこんなにもいっぱいになっていたのだと、私自身が驚いていたのだ。あなたが目の前にいるのに、あなたを失ったあとのあれこれを聞いてもらっている。この状況こそが不自然で、おかしいのに、吐き出した言葉の空間分、私の中を満たすものがあった。それは救いと言い換えることが出来る感覚だった。

 一気に言葉を放した私は、呼吸を上手に出来ていなかったようで、頭が小さく揺れた。それを正そうと、息を一度深く吐き出し、それからゆっくりと吸い込んだ。あなたはその様子をただ見ていた。私の言葉を奪わないように、今は何も声をかけないと決めているようだった。真っ直ぐに、私を見ているあなたに、私はまた言葉が湧いてくるのを感じた。

「私は、あなたと離れすぎたくないんです。いっしょに生きることができないのなら、私は、いっしょにいなくなりたい」

「いなくなる?」

「体が死んで、魂が残るなんて信じられない。言葉をかけても、返事がないのに、どうしてそこにいることを信じられるんですか」

 私の上げる声は、子供のこねる駄々と変わりないと分かっていた。あなたに縋り付いて、どうにもできないことを言い募っている。あなたが許してくれると分かっていて、自分の不運を嘆き散らしている。あなたよりも二倍は長く生きているはずなのに、私の言葉は自分のことばかりだった。

 あなたはそれを聞いても、変わらない笑顔を浮かべていた。私に向かって、あなたは手を伸ばした。あなたの指は細い。その手を、私はそっと握りしめた。布団の中にあったはずなのに、冷たい手だった。

「そうだね。証明はできないだろうな。魂になって、そばにいるとか、お盆になったら帰ってくるとか、天国や地獄も、本当にしたい、生きている側の幻かもしれない」

「そんなのただの妄想じゃないですか」

「生きていることは、想像し続けることじゃないのかな」

 あなたは笑っていた。想像。その言葉があなたの中に大切に存在していた言葉なのが、語る瞳の深さで分かった。

「僕は人生のほとんどをベッドの上で過ごしてきたけれど、頭の中は自由だった。好き勝手にどこへでも行けた。誰とどこへ行くこともできた。それは本当の記憶なんかじゃないよ。でも、僕の中には、そんな思い出がたくさんある」

 私は唇を噛んだ。零れる涙が、それでも堪えられなかった。あなたが何を言い始めるのかを、感じていた。

「僕自身は、体が死んでしまったら終わりなのかもしれない。でも、それは僕の中の僕だ。僕がここまでいっしょに連れてきた僕だ。だから僕は僕の手を繋いだまま死んでいく」

 あなたが私を強く見つめた。

「でも、君の中の僕は、君が連れて行ってくれる場所まで、ずっと君の中に生きていける。僕は長生きしたかった。僕の中では生きられなかったけど、君となら、きっと僕はずっと遠くまで生きていける。そう思っているんだ」

 あなたの言葉を、私はずるいと思っていた。思いながら、私は、そうだとしたらあなたを二度殺したことになるのではないか。

「あなたは、私のことを軽蔑しますか」

 あなたは首を横に振った。その動きで、私はあなたが疲れているのだと分かった。あなたは疲れているのを隠すのが上手だ。そして私が帰った後で、ぐったりとした時間をこれまでに、たくさん過ごしてきたのかも知れない。想像のなかで、どこまでも行きながらも、このベッドの中で。

「どうしてそんなことができるの?君は、その時の精一杯で、僕に応えてくれた。君が見せてくれた景色は、きっと君の中の僕を幸せにしてくれたよ」

 笑わないで。そう口に出してしまいたかった。あなたが言うように私のなかにあなたが生きていっしょに居てくれたのだとしたら、私はどれほど退屈で、暗澹とした世界を見せてきたのだろう。あなたの言葉が本当でも、ただの詭弁でも、もうすでにあなたの言った言葉は、私の中で確かな芽を吹いていた。

 私は握りしめたあなたの手に、額を押しつけた。あなたの手は、私の熱にじんわりと温かくなっている。それは死体になったら起こらない反応だった。

「私が、他の人と楽しく生きているのを見て、私の中のあなたは何を思うんですか」

「そうだなぁ」

 あなたの言葉はしばらく途切れ、寝てしまったのかと顔を上げた私は、真剣な表情のあなたを見た。黒目の濃いその中は、深く酸素の濃度の重い空間が拡がっている。宇宙のような光を散りばめて。

「心配になる。君が傷つかないように、見ていると思う。やさしい人なら良いと思うし、君を大切にしてくれる人であるように願う。その人の目の中の君が、大切にされているのを眺めて、僕は自分も大切にされていると感じる。君が幸せなら、僕も幸せだと思う」

 でも、とあなたは私から逸らしそうになる目を、そっと押しとどめて

「幸せだって思いながら、いじけると思う。大人になっていく君の中で、僕は年を取っていけるかな。そうならいいけど、そうじゃなかったら、僕ばかり幼くなって、君が最後を迎えるとき、いっしょに消える僕は少しさみしいと思うと思う」

そう言いながら、あなたは泣いた。きれいな透明が落ちていく様から、私は目が離せなかった。

 その透明が鼻の筋を通り越そうとしたとき、私は思わず立ち上がってその涙を唇で受け止めた。自分の行動に驚いて、急いで体を離した私を、あなたも驚いた顔で見つめていた。唇から私の中に入ったあなたの涙を、私は飲み込んだ。

「ずるいなぁ」

 あなたは泣きながら笑っていた。

 私も笑いながら、あなたの告白を胸の中で反芻した。

「私、二度の十年の中でたくさん本を読みました」

「素敵だね」

「はい。最初は好きで読んでいたわけじゃなかった。あなたが本を読むのが好きだったから、読んでみようと思ったんです。もし、あなたが読んだ本を、私も読んでいたらいいのにと、思っていました」

「うれしいな」

「どんな本を読んだの」

「文豪と呼ばれるひとのものは片っ端から。それが一番何も考えずに次に読むものが決められましたから」

「僕もそうしてた。これが読みたいって言えるほど詳しくなかったから、有名な人のものを借りてきてって頼んだら楽だったからね」

「現代作家のものは、作家名順の橋から読んでいきました」

 純文学、エンタメ作品、思想のつよく描かれたもの、抽象画のような不思議な作品、恋愛ものもミステリも、文字で書かれたものを、ただ読んでいった。

「彼女に出会うまでは、物語のなかに入る読み方も知りませんでした。文字をただ流し込むだけで、時間を置き換えているだけでした」

 今なら、私はあれを読書とは呼ばないだろう。

「二度目の十年には、読書の好きな子と仲良くなって、その影響を私はたくさん受けました。作家を意識して、その人の人生まで想像しながら読むなんてこと、考えたことありませんでした」

 私は、彼女が手渡してくれた沢山の本を思い出した。順番が大切なのだと言い、無理に本を中断させられて、その作品の前に書かれた本を読まされたこと。その中の、主人公の愚鈍な様子も、ただ一つに出会った僥倖も、私の中に実感をもって訪れた感覚だった。私はあの物語を自分に重ねていたことを、今更認めた。彼女には、見破られていたのだろうか。それともただ本当に偶然に、彼女は私にあの本の読み方を伝えたかったのだろうか。どちらでもよかった。その後に私は、もう一度一度取り上げられた本を最初から読み直した。そしてその物語の真摯な主人公の姿に、あなたにどうしようもなく会いたい自分の姿を重ねた。焦がれて、焦がれて、言葉を重ね続けた主人公。眠りに落ちた主人公のそばに立つ、想い人に胸が締め付けられた。

「私は、たくさんの物語を読んだから、きっと今、あなたの見ているものを前よりも鮮明に自分の中に描けていると思います」

 私は床に膝をつき、あなたの顔に自分の顔を近付けた。カーテンの向こうはまだ明るいけれど、時刻はそんなに優しくはない。あなたの目を、こんなに近くで見たことはなかった。私は、あなたの目の中に、私を見た。あなたが死ぬときに、あなたはあなたと手を繋ぐと言ったけれど、もう片方の手には。

「私、ちゃんとあなたといっしょに居なくなれていたんですね」

 あなたは、私の言った言葉を正しく受け取っていた。笑った目は、光をたっぷりと抱えて、今にも弾けてしまいそうだった。

「約束、してください」

 私は言った。

「私が苦しかった十年、私が変わった十年、あなたを想っていました。これからも、ずっと想っていきます。だから、ずっと私の中に生きていて下さい。あなたに触れないことや、会えないことを嘆く私を許して下さい。あなたをたくさんの物語に連れていくので、物語の中の誰かに重なって、私に話しかけてください。優しくない言葉でも構わないから、私に言葉をかけてください」

「うん」

「私があなたのことを、どんなに想っているのか知っても、怖がらないでください」

「うん」

「私が他の誰かといっしょに居るときも、絶対にそばを離れないでください。あなたが好きです」

「ありがとう」

「本当は、私の中のあなただけじゃなくて、ずっと、今目の前にいるあなたに、いっしょに居て欲しいです」

「うん」

「私は、本当は生きてなかったのかもしれません」

 あなたが望んだことが、分かっていたのかもしれない。すぐには分からなくても、あなたが願う約束のかたちはどんなものか、私は分かっていけたはずだ。それを力ずくで無視してきた。私をその約束へ振り向かせようとしてくれる、いくつもの手を引き千切って、自分の勝手な思いを成就させようとしてきた。死ぬ日まで時間を潰すことは、生きるとは言わない。ただ息を止めなかっただけだ。それが楽だったとは思わないけれど、あなたの望んだ生きるではなかったのなら、私は分かるまで十年を続けるべきだった。あなたの言葉に向き合えるまで、生きることができるようになるまで、息を続けるべきだった。私は、私が死ぬことで、あなたを歪ませていたのだ。

「ごめんなさい」

「ありがとう」

 空いていた手で、あなたは私の頭をそっと抱いた。あなたの額に私の額が当たる。あなたの薄い皮膚の下、あつい血が流れている。呼吸をくり返す細胞が生きている。あなたを私は。


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