第51話

 私の中で、あなたが笑ってくれることがあった。やさしい笑顔で、目を細めて、うすい唇は光るみたいに弧を描くのだ。

 声が、響く。反響は大きく、その最初の輪はぼんやりとして掴みきれない。澄んでいる。透明で、うっすらと乳白色が重ねられている。あなたが何を言おうとしているのか、私は耳を澄ませる。必死でその方向へ耳を向け、あなたの口から放たれた瞬間を捕まえようと神経を集中させるのだ。それが叶わないまま、ゆっくりとあなたの光が溶けていくとき、それでも、最後の一滴になっても耳を澄ませ続けた。

 私はもう、あなたの声をぼやけさせてしまっているのだった。


「もうすぐ、わたしたちが出会って十年になりますね」

 ある春の日、彼女が言った。

 朝の光が部屋の床に反射して眩しく、今日は布団を干そうかと考えていた。私は彼女の言葉に反応するまで、たっぷりとその光を目に入れてしまい、瞬きの時には暗く緑色の残像が見えた。

「そう」

「きっと覚えていないだろうと思ってました」

 彼女は呆れたようにしてみせながら、私の心を何とか読み取ろうとしていた。

 十年。その時間に私はぴんと魂の糸が伸ばされるような衝撃を感じた。目が突然に鮮明に世界を捕らえ始め、本当の意味を読み取ることができるようになった様な気がした。

 その表情の変化は、彼女の目にも鮮やかだったようで、驚いたように私を見ていた。まるい彼女の目は、もう少女のものではなくなっていた。同じように私の目も同じではないのかも知れない。同じものを見ていようと努めたところで、その努力自体がすでに自身の動いた距離を強固に示していることになる。それを理解していても、私は自分の目が見つめるものを変えないことを、心に誓ってここまで生きてきたのだった。

 あなたが死んだ日。十年前の重圧が体に甦った。あなたがいない世界に放り出されたことのショックを、どうやって誤魔化して生きていけばいいのかを、考え続け、立っていることさえも困難だった日々。それは確かにあったものだ。そしてその世界の続きが、この日のはずだった。たしかに一度目の私の十年は、そうやって過ぎていった。それが変質してしまったのは。

「大丈夫ですか?」

 すぐそばで彼女が私を覗き込んでいた。その目にはあの高校の図書室で出会った美しさが、丸々と残っていた。

「だいじょうぶ」

 口に出しながら、それが自分の口から出た言葉であることに驚いていた。彼女がまだ心配そうに私を見ていたけれど、私は支度があるからと部屋へと戻った。休日である今日の予定を考えれば、一体何の支度をするというのだと、あまりの愚かしい言葉の選び方に笑いがこみ上げた。

 この部屋に引っ越しをしてきてから、ものは殆ど増えていなかった。ベッドシーツやカーテンはもう見飽きてしまっていた。毛羽だったクッションカバー。読み返すこともなくなってしまった小説たち。ただ一冊、今も繰り返し開いている緑色の本と、そして一度も開いていない赤い本。日に焼けてしまった背表紙は、色の強さをやさしく洗い流してしまっていた。日に焼かれないように、光から隠して持ち続けた緑の本とは、まるで違う存在だった。状態に雲泥の差がついてしまっていた。

 そっと、明るい部屋の中で赤い本を取り出してみた。その手触りや、表紙の圧倒的な赤は変わらない。そして開いて見ても、私はタイトル以降のページには、どうしても進むことが出来なかった。今日も諦めて、そっとその表紙を閉じる。

 彼女に出会って十年近くになるのならば、私の人生もまた残り僅かになったということだった。ほっとして泣いてしまいそうだと思い、同じだけ彼女を置いていくという事実が胸を重くした。ここまでいっしょに居ておいて、なんという言いぐさだろうか。分かっていたことを、今更後悔しておこうとしている浅ましさに、今度こそ呆れきった笑いがこみ上げてきた。それを隠す気になれず、私は乾いた笑い声をぽろぽろと零した。



 その日から、私は食事が上手くとれなくなった。目に見えて口に運ぶ回数が減り、一日の食事の回数自体も減っていった。心配する彼女には、夏バテが早めにきてしまったのだと言い訳をした。

 睡眠の質も著しく下がっていた。毎晩夢を見た。それはけして悪夢ではない。ぼんやりとした、背景の端っこが暗い場所へ溶けていくような場所。そこであなたと過ごす。それだけの夢だった。何かを話すこともあった。笑い合うこともあった。あなたはいつも穏やかで、私はその目を見つめていた。世界はとても静かで、穏やかだった。波は小さなものが繰り返し寄せるだけで、足下をいつの間にか濡らしていた。あなたの足下は室内であるのに、私の足下は砂だった。時には草原だった。星空が広がっていることもあった。私はそれをあなたに伝えようと思うのに、言葉は出てこないのだ。あなたは私を見ているだけで、全てに納得しているようだった。それが悲しく思えてきて、私は逃げるように夢を終える。

 目が覚めると、私はまわりの明るさに衝撃を受けた。そしてどれくらい、今までいた場所が薄ぼんやりとしていたのかを知ってしまう。体はだるく、体がうまく起き上がらないこともあった。彼女が痺れを切らして起こしに来ても、ぎりぎりまでベッドから出られないことが続いた。

 そんな毎日が続いて、仕事にも支障がでるようになった。小さなミスがくり返され、クレームもくるようになった。動きが鈍くなり、表情がうまく取り繕えなくなった。何人かのスタッフには、痩せすぎていると心配を口にされた。その声がやがて店長の耳にも入り、ある日私は休憩室に呼び出された。店長は私の体調の悪さは隠しようがないといい、一度病院へ行くことを勧めた。そして有給の消化として、少しの間休むようにと言った。ちょうど世間は夏休みに入っていて、店に働き手は十分にあるからと。私はその言葉に素直に頷き、そのまま辞めることを伝えた。店長は驚き、引き留める言葉も口にしたが、私の気持ちがすでに固まっていることに気づき、言葉を途中で引っ込めた。

「わがままを言って、申し訳ありません」

「いや、こっちこそ。何か力になれたことがあったんじゃないかな」

「いいえ。完全にこちらに原因のあることです」

 私の言葉に、店長はまだ何かを言い足そうとしていたが、ちょうど店長を探しに来たスタッフのノックの音でその言葉を呑み込んだ。私は店長へと一礼すると、一度店に戻った。そのあと、店を閉めた後で退職のための書類への判を押し、署名をした。店長は店側の都合での退職で話を進めてくれようとしたが、私はそれも辞退した。これからの時間、どんなふうに話を進めても大丈夫な蓄えは作っていた。あとひと月もない。私にはもう時間はないのだ。それがひどく心を打った。荷物を整理するためにもう一度店に顔を出すことにして、その日は帰った。

 何年もくり返して通った道が、するすると私に寄り添っては遠ざかっていった。夏の夜空は小さく、闇はすっと澄んでいた。いくつもの星の輝きは弱く、昼間にしっかりと染みこまされた熱気が、まだ首のあたりまで溜まっていた。息が上がりそうになるのを、ぐっと堪えて家路を急いだ。

 帰り着いた私の顔を見て、彼女はまた言葉を飲み込んだ。そして絞り出すように「おかえりなさい」と言った。私はできるだけ柔らかな表情で「ただいま」を返した。

「少し話をしたいの」

 言いながら手を洗い、そして先に風呂をいただくことを告げた。背中にへばりついたシャツを脱ぎながら、ドアの外に立ったままの彼女の存在を感じた。

 短い入浴を終えて、髪の毛を乾かしながら自分の今をまじまじと見つめた。短い髪の毛はすぐに乾いたけれど、張りの薄まった肌には、つぶれた水滴が残っていた。目の下にへばりついた隈は濃くはないけれど、存在を疑うほど薄くもなかった。不健康そうな顔色で、私は鏡の中から情けなく笑いかけていた。その姿は、一度目の十年を生きた頃の私とは違う人の様だった。では、この鏡の中の人は、いったい誰なのか。私の問いかけに、答えてくれるものがあるはずはなかった。

 どれくらいそうしていたのか。それほど長い時間ではなかったはずだけれど、ドライヤーの音が止んだというのに、一向に戻ってこない私を心配して、彼女が洗面所のドアをノックした。

 ドアを開けた私を認めても、けして彼女は安心した顔をしなかった。食事はどうするのかと聞く彼女に、私はインスタントのスープだけでいいと伝えた。彼女の沈んだ気持ちが私にも重たかった。

 台所に立とうとする私を、彼女はおいやって自分の分と私の分のスープを作って持ってきてくれた。同居してすぐに買い揃えたそろいのシンプルなマグカップ。二人での生活で、食器はほとんど増えることはなかった。私はカップを受け取り、そして彼女にも座るように請うた。足を折って座る彼女は不安そうで、テーブルの下で握り合わされた、手の指が細かに震えていた。

「あのね、今日、仕事を辞めてきた」

 そう言った私に、少なからず彼女は安堵したような顔をした。もっと最悪な言葉を聞くことを覚悟していたのだろう。しかし、その覚悟はまだ必要であることを、彼女に知らせたかった。足の短いテーブルを挟んで、私と彼女は見つめ合った。彼女が何かを言い出す前に言い切ってしまいたい。その気持ちが、私の口を押し開いた。

「あのね、私の体調が悪いのは知っていると思う。仕事でもその影響が出てきてしまったの。店長は有給を消化する形で暫く休んだらどうかと言ってくれたけれど、いつまで続く不調なのか分からないし、期限を決めての療養では気持ちが焦ってしまう気がしたから、その話はお断りした」

「そうですか」

「そう。だから、私一度この同居を解消したいの」

「え」

 彼女の表情の灯が落ちた。零れて消えきる火の欠片までを、じっと見ていた。彼女の目の中で、光が回る。世界の一辺を握りしめていたのに、それが自分を突き放すものに変質してしまった。そんな裏切りにさえ思うことができない一瞬を、彼女は全身で味わっていた。彼女の目を見つめたまま、私は続けた。

「一度家に戻って、ゆっくり考えたいの」

「それは、私との関係も含めてということですか」

 泣き出すのではないかと、気持ちが揺れた。彼女の中の揺れが、彼女の感情を溜めたコップを倒してしまうのではないかと不安になった。庇護の気持ちが一瞬湧いた。かわいそうに、と。私が振り下ろすものが、彼女の首を落とすというのに。

「そうね」

「ずっと」

 彼女が声を荒げた。足場の悪い高所に突然摘まみ上げられた子猫のような、悲壮な声だった。彼女の目が、ひしゃげる。

「ずっと、私は、手を差し出してきました。知ってましたよね?それがどれくらい苦しくても、やめませんでした。尽くしてきたなんて思ってはいません。私は私の心を開いて、いつでも手を掴んでもらえるように。私のできることをしてきました。強要はしない。探り出すこともしない。ただ、いっしょに居られるように、私は」

 彼女のつむじが見えた。顔を手で覆った彼女は、体を折り曲げて微かに震えていた。

 私は謝罪に首輪をかけ、鎖で繋いで喉の震えにけして触れないところへ押し込んだ。何度も考えてきた状況を、今作り出しているのだ。自分自身で、この状況をいつか生み出すことを想像しながら、彼女といっしょに居たのだ。いっしょに居られることに、甘えたのだ。彼女といることは、心地よく、私は安全な場所で丸くなっていられた。彼女の向けてくれたものは、恋情に限りなく近しい親愛だった。彼女がどれほどの時間を費やして、私を理解しようとしてくれたのか。だからこそ、彼女に謝ることはしたくなかった。

「この部屋の更新は、まだ先だから、それまでの半分の家賃は払うよ。ここをどうするのか、ゆっくり考えてほしい」

「いつ、出て行くんですか」

 彼女は顔を覆ったまま、聞いた。

「支度ができたら、すぐかな」

 大した荷造りは必要ではないのだから、仕事もなくなった私には、荷物を移すだけなら二日もかからないだろう。

 もう私が決意を翻さないことを、彼女は分かっていた。ここまで甘えてしまったことを申し訳ないと思いながら、私は蹲ったままの彼女の背中を見つめた。撫でてあげられたら、私は楽になるのだろう。

「ありがとう」

 立ち上がって、彼女の入れてくれたスープの入ったカップを手に、自分の部屋へと戻った。とろりと冷えたスープが、今の私の口には有り難かった。飲み干したカップの底に、黄色い溶け残りが、砂浜で残された小山のように残っていた。すぐに中を濯がなければあとが面倒だと分かっていても、彼女の背中を思い出してくじけた。

 疲れていた。そして一歩終わりへ歩いた自分に安堵していた。私は大丈夫だ。ここまでの人生が少しばかり変化をしても、私はきちんと終わりへと歩いている。この道へ続く道が少しばかり曲がりくねっていようと、たどり着く場所が同じならば問題はなかったのだ。

 私はもうベッドまで這うことも面倒で、冷たいフローリングに頬を押しつけて目を閉じた。床伝いに聞こえる彼女の押し殺した泣き声を聞きながら、今日はどうか悪夢を見せてくれと願った。


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