第44話

 彼女のコートは、結局クリスマスプレゼントに私が半分を持つことで買うことになった。彼女は大いにはしゃいだ。

 実物を見に行ったのは、雑誌を見てからすぐの休日だった。大通りに面した、何件もの洒落た店が並ぶ一帯。服の好きな人たちからは有名な場所だが、私には敷居が高く感じられ、そこを歩く人たちには一種の資格のようなものが必要なのではないかと、歩きながらも考えていた。抑えめな色味で合わせられたマネキンが並ぶ道を、二人で歩き、私たちは目当ての店へと入った。店員が困惑した様子を感じたら、すぐに出ようと思っていた私は、丁寧で、失礼にあたらないラインで親しく挨拶を投げかける店員に、ほっと息を吐いた。服を買い慣れている彼女でさえ、少し緊張している様子に、私はその背中を見守る他にな出来ることはなかった。彼女がそばに居た店員に、雑誌の名前と、コートの特徴を伝え、試着ができるかを訪ねた。店員は快く案内し、恭しく彼女が求めたコートを差し出してくれた。

 その時の彼女の感激した様子は、後ろに控えていた私にも伝染するほどのものだった。彼女は鏡の前に立ち、そのコートを羽織った。見た目には少し重たそうに見える生地だけれど、空気を抱くように作っていて、肩への重たさはとても少ないのだと、控えていた店員は説明した。

「どうですか」

 彼女は、鏡の中からその背中側にいた私へと聞いた。その目をみれば、私の答えなど必要ではないのが分かったけれど、私は素直に感想を口にした。

「とても似合っていると思う」

 単純な私の答えに、彼女は確かに満足した様子だった。彼女の頬の明るさは、光っているようだった。

 そんなにも気に入った様子だったけれど、どうしても即決できない値段だったために、一度そのコートは店員のもとに返されることになった。店員は、丁寧な一礼のあと「またのお越しをお持ちしております」と見送ってくれた。

 夢のような店を出て、帰り道、どこかでお茶をしようとぶらぶらと歩いている間、喫茶店をみつけて席に着いてからも、彼女のコートへの言葉は続いた。それは感想というよりも、恋をはじめて経験する少年が相手を賛美する時の言葉のようだった。注文の紅茶とケーキがやって来てからも、それは続いたが、喫茶店を出る頃にはそれは不自然に静かになっていた。

 あの値段が納得出来るほどのコートだったことが、彼女の中の諦めるという選択を失わせていた。では買いましょうと、即断するには、値段に足が重くなってしまっているだけで、少しだけその背中を押す手があれば、すべてはうまく転がっていきそうだった。

 私は彼女の手を握った。

 季節が移っていく様を示すように、街路樹の葉は微かな繋がりでぶら下がり、いつの間にか力尽きて落ちていく。

 喫茶店のテーブルの光沢の上、彼女の手はほっそりとして、頬の興奮の色とは違い冷たかった。手袋をするほどではないという考えが甘かったようだ。彼女にしたら珍しいことだと思った。前日から天気予報を見て、次の日の服装を決めてしまう性分だというのに。今日、あのコートに対面することをそれだけ楽しみにしていたということだろうか。私は彼女に押しつけられたリップが塗られた、唇の両端をいつもよりも持ち上げた。企てを話し出すような、唆すような、そんな顔を目指した。

「君のクリスマスプレゼントを考えていたのだけど、あのコートの半額出すよ券、はどう?」

 彼女はやっと目の前の私に集中を取り戻し、私の言った言葉の意味を、しっかりと解体して、吟味して、反芻しはじめた。理解が染み渡って、ついに表情にそれが現れていく。血液の僅かな増量が血管を通った場所から、さらに甘く色づくような変化だった。私が握っているばかりだった手に、力が甦り、彼女は身内の喜びを注ぐように、つよく握り返した。

「いいんですか」

「いいから提案しているの。私、けっこう貯金あるから。通帳を見たらびっくりするよ。見せないけど」

 私の言葉に笑いながら、彼女は

「善は急げ、ですね」

と、今まで手を付けていなかったケーキとお茶を片付けだした。その様子を笑いながら、私も残っていたものを口に運ぶ速度を上げた。

 一時間空いたかどうかの逡巡で戻ってきた彼女に、店員は笑顔を見せた。「先ほどのコートでよろしいですか」と声をかけられ、彼女は力強く頷いた。

 私は思いついて一歩前に出て、店員に声をかけた。

「プレゼント用にしてもらえますか」

「かしこまりました」

 察したような空気は出さず、店員は「少々お待ち下さい」と伝えてレジの奥へと消えた。彼女が私の隣に並び、店員の消えたドアを共に見つめた。

「すぐには開けちゃ駄目ってことですか?」

「クリスマスなんてすぐだよ」

「私もプレゼント考えなくちゃなぁ」

「あのキーホルダーで十分なのだけど」

「駄目です。そんなの楽しくないじゃないですか」

 彼女は力強く私を諭し、そしてゆったりと口元をくつろげた。

「せっかく、いっしょにいるんですから」

 暫くして紙袋を抱えて出てきた店員は、先に会計をすることを伝えた。彼女は最近作ったクレジットカードを出し、何か重々しい契約の判を押すように店員の持った受け皿へと置いた。

 会計を無事に済ませ、出口まで見送りに出てくれた店員は、恭しく、そのコートの入った紙袋を彼女に手渡した。手に渡った重さに、彼女の喜びがより深くなったことが伝わった。

 深いお辞儀に見送られながら、彼女は暫くの間何も言わなかった。二人の間で揺れる紙袋の固い音が、彼女の履きはじめたショートブーツの靴音が時々重なる音に、耳を澄ませながら歩いた。

 部屋へ帰り着いてから、彼女は私に紙袋を預かってもらいたいと言った。クリスマスプレゼントと言った手前、さっきの会話ではそう言ったけれど、必要な時に着られなのでは買った意味がないのではないかと言うと、

「そういうところですよ」

と私に人差し指を向けて、軽く睨んだ。私は、そういうものかしらと、とりあえず紙袋を受け取った。

 それからひと月と待たず、突然の寒波を知らせる天気予報に、私は早朝に起だし、そっと彼女のベッドのそばへとあの紙袋を置いた。起き出すには早すぎる時間だったけれど、健やかに眠る彼女の呼吸を見ていたら、起きている決心がついた。今日彼女はゆっくり起きてくるはずなので、まだまだこの紙袋には気付かないだろう。私の出掛けるころに、彼女の反応が聞けるかどうか。

 キッチンの小さなコンロに火を点けた。今日一番の仕事は終わったような気持ちだった。温かい紅茶を飲んでから、この余った時間をに何をするかを考えることにした。窓の外の世界は、まだ夜だと言い張れるほど、青く、暗かった。


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