余情

第22話

少し、心配していたの。

　そう口を滑らせたあなたのおばさんに、私は飲み干したホットココアの紙コップに力をこめた。潰してしまうことがたやすいその形が、どこか憐れな気がして、そのことに可笑しさが込み上げた。これはただの物だ。本と同じ。小石と同じ。そして頭上で大きく枝を広げている木々だって。

「今は、心配いらないとおもってもらってますか」

「そうね」

　あなたのおばさんは、もう温くなっているだろう梅昆布茶を一口あおった。ふわりと広がる梅の小さな花の香り。甘くて、心を軽い力でノックしてくる。

「あの子が亡くなった当初よりは、ずっと心配が減ったかな」

「まだ十分じゃないんですね」

　彼女は、ふふ、と笑いを零して隣あう私を見た。笑顔がやはり柔らかくなった。それはあなたが生きていた頃よりも、ずっと。それがいいことだと、あなたは言うのだろう。そう言うだろうあなたを、あなたのおばさんは知っているのだ。だから負い目を後ろへ引かせて笑う方を選べる。

　足下でかさこそと木の葉が鳴った。地面は埋まっている。せっせと公園を清掃する人が居るはずなのに、時間帯のためか、至る所で木の葉が吹き溜まっていた。黄色はゆるく濁り、茶色と黒が散っている。赤はあまり見当たらない。そのせいでくっきりと浮き上がって見えた。

　木の葉が盛大に落ち始め、気温は下降をはじめている。夜の長さが一日ごとに長くなっていることを実感できる時期だった。

　ふたりで散歩をしよう。

　そう誘われたのは昨日の夜だった。

　いつものようにあなたの詩集を読んでいた。月が明るい夜。電子音が鳴った。電話だと分かって、私は落ちかけた涙を拭った。鼻をかんで、喉を落ち着けてから通話ボタンを押した。

「もしもし」

　あなたのおばさんの声が、私の水分の多くなっていた部屋の中へ落ちる。今から会おうといわれたら少し面倒だと感じた私に、あなたのおばさんは笑いながら

「明日、散歩をしましょう」

といった。場所はあなたの入院していた病院のそばの、大きな木がたくさん植えられている公園。現地集合で、できるなら朝の内がいい。

　それなら九時に。私の言葉にあなたのおばさんは、了解、と冗談めかして返した。病院に近い入り口を指定して、電話は切れた。

　今日はあいにくの曇りだけれど、まだ日中の気温はそこまで低くはない。ベストだけの私と、薄手のコートを羽織った彼女は同じくらいの時刻に落ち合った。

　私が集合時間の十分前にいることを知ってから、彼女もそのぐらいの時間に現れるようになった。こんなに早く来なくてもいいのにといった私に、あなたのおばさんは

「私はあなたが待っているのに平気に十分を過ごすのは気分がよくないの。でも待ちすぎるのも好きじゃないから、あなたと同じくらいに着くようにしているの」

と胸を張られた。十分くらい待っていることは、私にとって何でもないことなのに。彼女は頑なに首を振るのだった。同じ時間を共有したい。それは少ない時間なのだから、無駄にはしたくないし、無駄にもしてほしくないのだと。

　公園の中は、天気のためかあまり人が居なかった。過ごしやすくなってきた頃だから、子供がたくさんいるかと思ったけれど、この時間はまだ活動時間ではないのだろう。鳥の声がいくつか振ってきては足下で転がった。浅い木の葉の川の中を、軽くつま先を蹴り上げたりしながら歩いた。時々通り過ぎる年配の二人組が楽しそうに笑い、そろいの服をきていたり、腕を絡ませ合ったりしているのを見送った。おだやかな空気が、大きな道路の音を遠くさせている。この公園は、背の高い木がたくさん生えている。見上げると世界は、細やかで繊細な細い枝先で区切られていた。

　このベンチを選んだのはあなたのおばさんだった。喉が渇かないかと。すぐ側に自動販売機があり、あたたかい飲み物がたくさん揃っていた。お金を入れようとする私の手を制して、今日は奢らせるようにといった。すこしいいココアにしていいかと聞いた私に、彼女は嬉しそうに笑った。

「あの子は、この公園が好きだったの」

「来たことはありますか」

「あったかなあ。具合がいい時、ここまで看護師さんやボランティアの人たちと連れてきてくれたことがあったの。そういうイベントみたいな。この距離だけど小さなバストを借りて、車椅子なんかも用意されて、入院患者と家族とで。たぶん春だったんじゃないかな」

「お花見の人がたくさん居そうですね」

「うん。ここ出店もでるでしょ。だから時間はずらしてあったんだろうけど、けっこう人が居たと思う」

　あなたのおばさんはゆったりとした曲線を描くように目の前の空間を見ていた。丸みのある茶色い光が、その当時を淡く空気に乗せているのが分かる。そうしてあなたが描かれている場所を私もみたいと思った。私が出会う前のあなた。私をしらないあなた。滲むような光を抱いて、あなたの目はどんなふうにまどろむのか。私が見ている空間があなたのおばさんの視界と重ならばいいのに。

「私は腹立たしい気持ちでいたの」

　やわらかな口調だった。落ちていく木の葉がゆらゆらと空間を切り分けていく。

「あの子が具合いがいいのなら、家に少しでも返してくれたらいいのに。いや、これでまた具合が悪くなったらどうするんだって」

　あなたの体は、異常ではないことも怖がって異常に強力な武力を使おうとするのだと、聞いた。小さなことが、大火事になる。それは家を燃やしきるだけでは治まらないこともある。その時は森がひとつなくなってしまうことだってある。そうしてその焦げあとを目にして、やっと後悔は体に刻まれるのだ。

「あの子のことを心配するようにへの字にしてた口は、でも結局は具合が悪くなったあの子を看病する自分への可哀想や、そのことで姉さんから責められることを考えて捻り曲がっていたの」

　空っぽになった紙コップの中に、ココアの黒いあとが細い細い三日月を描いていた。

　薄く曇った空に持ち上がっていく太陽が、落とす影絵はとても薄い彩りで地面に描かれる。

「そういうものですよ」

　私は出過ぎた言葉だと思いながら続きを放した。

「私だって、そう思ったと思います。もしも私の立場じゃなくて、ずっと世話を焼く立場にいたら、心配も不公平も不満もぐちゃぐちゃに混ざり合って、どれがどこまでの感情かなんて区切れなくなくなっていると思います」

「そうかな」

　大きく蹴り上げた爪先が木の葉を舞い上げる。誰も通らないのを確認して、子供のように。赤や黄色が低く踊る。模様の変わった絨毯に足をおろしながら、私は紙コップを潰した。ぺこ、とたいした音は立たないのに指先にはきっちりと感触が残った。

「あなたの心配だって、私のためにしたかったのよね」

　あなたのおばさんが梅昆布茶を飲み干した。先に立ち上がり、振り返って笑う。

「心配をすることで、私は立ち直れたんだと思う。自分とあの子だけの空間でそれをすることが、とてもしんどいと分かっていたから。あなたの心配をして、あなたのことを考えることで、上る壁に凹凸をみつけたのよ。だって、あの子の心配をするのと、それはとても似ていたから」

　歩きはじめる前に、自動販売機のそばのゴミ篭に空の紙コップを捨てた。曇り空が続く公園の端の方へ、そして二人でまた歩き始めた。