第12話

 私が一人、過去に戻ったからと言って、あなたの死ぬ日が先送りにされることも、逆に、早くなることもなかった。


 家の電話が鳴ったことを、思い出していた。


 もう時間は遅く、夏の夜は濃く、私の家の周りだけに落ちているのではないかと錯覚する。階段の中頃に座り込んだ私は、開けっ放しにしておいたリビングの電話が鳴るのを待った。うちの時計の音は、こんな音なのか。ぼんやりと保つ意識と、遠く冴え渡る、時間を食った私の魂。それは根を同じにしながら、あまりに離れてしまっていた。


 電子音が鳴った。


 どきりとする。


 鳴り始めて、はじめて緊張した。震えはじめた体を、引っ張り上げて電話のほうへと歩く。ふらふらと、体に重さがなくなったような気がした。


 ふと、誰も助けてはくれないのだ、と思う。

壁を伝い、開け放したドアを掴み、薄闇のなかで光る赤に縋り付いた。


「はい、」


 声は弱く、一人のリビングに広がる波紋も儚い。 電話をくれたのは、あなたのおばさんだった。やさしい声は気丈に立ち、その中を流れる悲しみさえ叱咤して、あなたの死を私に伝えてくれた。お葬式はしないこと。あなたの両親が、ただただ疲弊してしまっていること。私には、どうしても会いたくないこと。ただ、それはあんまりだと思うから、おばさんの一存になるが、火葬の前にあなたを見送りにくるかを私に問うた。私は迷った。あなたの死に顔を見るのは二回目だ。瞼に張り付いたその冷たさが、生前のあなたをどれほど遠くへ追いやるのか。私は、もう知っているのだ。死んだあなた。あなたの顔を見たくないだなんて、信じられなかった。たとえそれがもう死んでいても。


「会いたい、です」


 考えている途中で、私は口にしていた。現実ではどれくらいの時間が経っていたのか。電話の向こうで、あなたのおばさんの細い溜息が聞こえた。 死んだあなたに、私は会うのか。それをまだ会うと言っていいのか。今口を開いたのは、今の時間にいた私の残留物か、それとも私さえ拒めない、私の本心なのか。時折電話の向こうで慌ただしい声が走っていった。今、生と死の狭間で戦っている誰かを、懸命にサポートしている声だ。それが何故か奮い立たせた。


「会わせてください」


 あなたのおばさんが受話器の向こう側で細く、私に聞こえないように、出来る限り弱く吐き出された息の音を拾った。


「ありがとう」


 あなたのおばさんはそう言って、明日の朝、あなたが運び出される前に、会わせてくれることを約束した。


 電話を切った後、私は座り込んでしまう前にそばの椅子の背を握った。立ちくらんだように、ぎゅっと固い背を握りしめ、内側を吹き荒れだした嵐に体を慣らした。そうだ。あなたが死んでから、私は目を覚ましてはこの中に放り出され、日常の些細な連想から平手を打たれ、動けないという背を押され、腕を掴まれ、底の見えない夜の縁へ落とし込まれた。そしてまた、朝がくることの繰り返しだった。


 誰にも、この衝撃を話したことはない。だから上手くなるしかなかったのだ。つよい衝撃を受けたとして、けして周りに気取られないように。やさしく問いかけられたとして、大丈夫かと背を擦られたとして、私は、それに報いる応えをもっていない。嵐の中、なんとか止まり、過ぎ去ったその時に少しでも進むこと。それしか術がなかった。 しんとした室内に、細く溜息が垂れ流された。


 まっ暗だ。


 あまりにすとんと落ちた言葉に、胸が掻き毟られることを予想出来なかった。ああ、あなたが死んだ。死んでしまった。そうなることは、分かっていたのに。はじめて対面したあの病院の休憩スペースで、あなたは言ったのだから。自分の死を。それは本当は誰でも抱えているはずのものだけれど。それを私は、あまりにはっきりと形を持って手渡された。あなたは、死ぬと分かっていて、私と関係をはじめたのだ。その心を想像することは出来ない。私はあなたに出会えて人生をはじめられたと思う。けれど、あなたがいたからこそ、私の終わりは断定されたとも思う。


 暗い部屋の中で、私は一人だ。両親が二人揃って帰りの遅い日だった。私は、一人、あの日もやはりこうして耐えた。過去の私は、背を掴むことが出来なかった。そもそも、おばさんに何も答えられず、反射として電話を切ってしまった。がちゃりという受話器の奥の音ですら、はっきり聞こえた。私は体中の力が抜けて、その場に頽れた。そのまましばらく、じっとしていたはずだ。動くことを体が思い出すまで。そもそも、自分には体があることを思い出すまで。長かった気もするし、すぐに戻ってこられたようにも思い出す。あまりに、今日から遠くに来ていたのだ。こんなにも、この日が朧気になるくらい。経ってしまえば、三度の瞬きの合間のような気がするのに、確かにこの体で生きた日々の十年は、私のなかをすり減らしたのだ。その削り滓のようになってしまった私が、これからまた十年を過ごす。あまりのことに、笑いが零れた。滑稽で、哀れな音が、暗い室内に転がった。


 十年前の、私は。


 あなたが永遠に去ったことを聞いて、呆然と座り込み続けた。両親が帰ってきた音に我に返った。母が買い物をしたて来たのだろう。がさがさとビニール袋の音。靴を脱ぎ、母がリビングへと入ってきた時、私は立ち上がってはいたが、それ以上には何も取り繕えなかった。椅子の背に、なんとか支えてもらわなければ、震えが体を支配してしまいそうだった。母は、私の顔が真っ青だと心配した。駆け寄ってきたその手に、私は縋りたいと思った。そしてそれ以上に強く、そう願った自分を激しく嫌悪した。


 何故だったのだろう。あの時の私は、あなたの死にすら、傷つくことを否定したかったのかもしれない。あなたが私に与えるものに、私が傷つくことが許せなかったのかもしれない。なにより、母は、あなたのことに心を割く私をよく思っていなかったから。そんな母に助けを請うことは、母の考えていたことを肯定することになる。それが私には許せなかったのかもしれない。


 私は母になんと言ってその場を去ったのか。


 自分の部屋に戻っても、私の心は嵐の中にあり続けた。いったいどうしたらよかったのか。泣き叫びたいと、思い、喉元まで叫びは上ってくるのに、最初の一音がどうしても出てこなかった。うろうろと、狭い部屋を歩き回り、ベッドに沈み込んではまた、じっとしていられなくて立ち上がった。その繰り返しに、体はゆっくりと疲弊し、意識が最後の一指を放すまで、私は嵐の中だった。


 意識を失った私を、母か父がベッドに運んだのか、うまい具合にその場所にベッドがあったのか。目が覚めた時、私はいつもと同じ視界にいた。


 頭が上手く動かなかった。なんだか全てが造り物めいていた。嘘のほうが、よっぽど色に重みがあった。自分の手の色が、昨日までとは全く違うもののようだった。気が触れる一歩手前に立ち尽くしては、私は意味も分からず呼吸を繰り返した。 あなたのおばさんが、私の家に来てくれたのは、目が覚めて暫く経ってからだった。学校があるとか、体調が悪いとか、何もかもが吹き飛んでいった。おばさんの目を見た時、それはあなたと同じ深さを称えた目だったために、私は。


 玄関先で、母がおばさんを不思議そうに見ていた。父を呼んで来るべきか考えていたのかもしれない。私は昨日の服のまま、靴を突っかける形で母の脇をすり抜けた。母の声が後ろにかかったが、振り向くことも、反応を返すこともできなかった。あなたのおばさんの前に立ち、なんと言えばいいのか分からないまま、ただ頭を少し垂れた。あなたのおばさんは、たった数日会わなかっただけとは思えないくらいに変わっていた。変わったというよりも、中に収まっていたとても大切なものが抜け落ちてしまって、その分の収縮に耐えられなくなっている。そんな印象だ。顔は青く、唇は生気の欠片も乗っておらず、髪の毛は引き詰められて今にも千切れてしまいそうだった。あなたのおばさんの目には、私も似たようなものに映っていたのかもしれない。あなたによく似ていた目が、私の目をゆっくり見返して、そこには少しだけ何かが戻ったように見えた。


 あなたのおばさんは、助手席に私を乗せると黙って見ている母の方へ向かった。サイドミラー越しに、あなたのおばさんが母へ頭を下げているのを見た。母は引き結んだ唇を数度開いて、あなたのおばさんへ何か言ったようだったが、それはあまりに小さく折りたたまれた情報で、私には読み取ることは出来なかった。


 車を走らせている時、あなたのおばさんは何度か「ごめんなさい」と口にした。窓の外へ視界を投げ出していた私は、何を言われたのか分からないまま、その「ごめんなさい」だけを拾って食べた。頷く以外に、何も言えなかった。このまま、何も話さないでいたかった。


 外に目を向けていたはずなのに、あなたのおばさんが車を止めてから、そこが病院ではないことに気付いた。入ったことのない地下駐車場で、私は空の方を見た。もう今日が晴れていたのか、曇っていたのか、思い出せなかった。


 あなたのおばさんが、私の手を引いて中に入った。そこはおそらく葬儀を執り行う場所なのだろう。建物内は、どこもかしこも意識して華やかさを排し、その代わりに手入れを繰り返した穏やかな空気が積み上がっていた。


 その中の一室の前で、あなたのおばさんは止まった。私を振り返り、やさしい指で私の頬をそっとつまんだ。それがあなたのおばさんにとっても、何かの一押しになったようだった。もう一度ドアの方へと向き直ると、息を整えてそのノブを握った。ひんやりとした空気が這い出てきた。小さな部屋で、あなたは横たわっていた。闇が灰色に薄められて、微かに残るあなたの残滓を、出来る限り閉じ込めようとしているみたいだった。簡素なベッドというよりも、清められた台の上に乗せられているようだった。枕元には、あなたが持っていた何冊かの本が置かれていて、ドラマで見たことのあるような、蝋燭や花などは何もなかった。そのあまりの殺風景な様子に、あなた自身までもが混ざって、それはまるで舞台のセットのようだった。


「直葬にすることに、決まったの」


 あなたのおばさんが言った。その言葉といっしょに、肩をそっと押され、私は部屋の中へ一歩踏み行った。どこにでもある、床材の冷たさが這い上がった。ここには、あまりに繰り返し死が横たえられ、そして出て行ったから。ここでは、死は仕組みのようだ。それ以上の何もなかったみたいだ。入ってしまえば、あなたは驚くほど近くにあった。物と同じだった。そこにはなんの柔らかさも生きていない。流れが停止した室内では、物質量が決まっていて、その限界まで詰め込まれていたものが、私の侵入によってさらに極小に縮んでいくような。遠回しに、生の気配を拒むような、その部屋の中で、あなただった体は、もうすでに私の敵対側のものだった。


「直葬って、なんですか」


 あなたの家族のことは、あまり聞かなかった。仲が悪かった、という単純な関係ではなかったように思う。あなたは、確かに両親に愛情を感じていた。あなたの父親には会う機会はなかったが、母親の顔は見たことがあった。会ったわけではない。私が一方的にあなたの病室から出て行くその女性を見ていただけだ。すぐには部屋に入ることが躊躇われて、私は無意味に階段のところまで行って何度か下の階とを上ったり下りたりした。


 何からか分からなかったけれど、何かから逃げたような気がした。


 それに少しの後ろめたさを感じて、私があなたの部屋のドアをノックする時には、うつむきながら指の節を当てたのだった。


 あなたはそんなこと知るはずもなく、いつもと変わらず笑顔で迎え入れてくれた。


 いったい何の話の流れで聞いたのか。


「母が来ていたんです」


 そんなことばではじまったはずだ。あなたはやさしい目をしていた。その目は私の好きなあなたの目だった。あなたが何を負って私に母親の話をしたのか。その時の私が受け止め切れたとは、とても思えない。それでも、あなたの話を、あなたの目を見つめながら聞き入る私の姿を、あなたは静かに見つめ返していた。


「母は、心配をするのに疲れているんです。疲れていることに罪悪感を感じている。それは仕方がないことだと、思うことが難しい人なんです」


「それでもここを見舞うことを止められない」


「母も母で病院に用事があるんです。うまく眠れないことから始まり、今は服を着ることや、立ち上がったりすることさえ、心がとても消耗するそうです」


「母は、ここに来ないほうがいいんでしょうね」


 そう言いながら、あなたが私から目を逸らした。私は、だからあなたがどれほど母親にここに来てもらいたいか、母親に伝えたいことがあるのか、けれど、その気持ち全てが母親を更に追い詰めるものであると分かっているのだと、分かった。


 私に、言えたことは「お母さんが、来られない分、わたしが来ます」だった。あなたは目を見張り、すっと笑った。それが嬉しそうだったと思うのは、欲目だろうか。もう一度、あの顔が見られたら分かるだろうか。あなたの母親の話にも、もっといい相槌が打てたのだろうか。あなたを重荷に感じながら、愛していることが変わらない人だったことを、私は。


 あなただったものが横たわる。


 それを見下ろしながら、ただただ私は理解を染みこませていた。


 あなたに、わたしは、さよならも言えなかったのだ。


 あなたのおばさんが迎えに来てくれたことを、音で知った。


 私は前日に母に、今日学校を休むことを告げていた。理由を話したら、母は心の底から気の毒そうに顔を湿らせた。その目が涙を浮かべることは無かった。母の目の中にあったのは、あなたへの感情ではなく、私が傷ついているのでは無いか、これから傷つきに行動をしてしまうのではないか、という心配だけだった。


 母は、何時頃に出掛けるのかを聞き、朝ご飯は食べていくのかを聞いた。外から帰ってきたばかりの母の首には、小さな石の付いたネックレスが付けられていて、それを外そうと両腕を高く持ち上げるようにして、手を首の後ろへ回しながら、


「何時頃に帰ってくるの?」


と聞いた。私は両親の部屋を出ようと柱に手をついたまま、「分からないから、用意しなくて大丈夫」と言った。鏡越しに、母の顔がより曇った。それを見えなかったことにして、私は部屋の外へ出た。あなたの死を誰かに伝えることの、苦痛はもうなかった。私にとって、あなたはもう十年前に死んでいた存在で、不思議なこの一週間ほどが、すべて夢のような出来事なのだ。鮮烈で、常に溢れ出ているような現実感のある。これが夢だったとして、私は、もう覚めなくてもいいと思っていた。


 母は、一度目の光景と同じく、外にでてあなたのおばさんと何かを話していた。私はきちんと制服を着て、あなたのおばさんに頭を下げた。朝はまだ始まったばかりだというのに、今日もまた恐ろしく暑い朝だった。夏服の白までが、焼けただれてしまいそうな。


「おはようございます」


「おはよう。さあ、どうぞ、隣に乗ってちょうだい」


 あなたのおばさんは白いお面を付けているような顔で笑った。唇にも頬にも、色が薄い。汗一つ浮かばないその色が、今にも倒れてしまいそうだった。母が、そんなあなたのおばさんを見て、不安そうにしていた。言われた通り、先に助手席へと乗り込んだ私は、少しだけ開けた窓から、ふたりの声を拾った。


「お嬢さんは、必ずこちらまで送りとどけますので」


「あの、失礼ですが、そちらもお疲れでしょう。あまり無理されないよう、電話をいただければ迎えに行きますので」


「ありがとうございます。そうですね、こんな顔では、逆に心配になってしまいますよね」


「いえ、そうですね、でも、こんな時に休んでいられないというご心情は、お察し致します」


「すみません。では、帰る時にはご連絡いたします」


「よろしく、お願いします」


 母と、あなたのおばさんが頭を下げ合う間に、私は窓を閉めた。母が、運転席の向こう側で、心配を貼り付けた顔を覗かせていた。あなたのおばさんは、ゆっくりと、はじめて運転をするように、丁寧に車を発車させた。


「クーラー、なかなか効かないわね」


 そう言ったあなたのおばさんの頬には、やっと細い汗が滴っていた。


 同じ道順を走り、同じ建物の駐車場へと入った。けれど、同じ場所には停まらなかった。私の記憶の中では、この二つ隣りに停まったはずだ。ここまでの流れでも、少しずつ何かがずれていたのだろうか。ぼんやりと過ごしたつもりはなかった。それなのに、こんなにもくっきりと、私の記憶と違っていると感じたことはここまでなかった。


 あなたのおばさんが先にドアを開け、夏の空気が流れ込む。私もその後を追ってドアを開けた。厚い壁に阻まれたような、外の空気の中へ足を突き刺す。


「今年は特に暑いわね」


「そうですね」


 あなたのおばさんは先に立って、建物の中へと入っていく。見慣れない黒のパンプスが、音を立てた。その靴裏を見つめながら、私もその足音を追いかける。


 正規の玄関口ではないために、壁の寂しさが浮き上がる。飾られている絵が、優等生面の均一な明るさのなかで楚々と立ち尽くす。外の暴力的な明るさでさえ、ここまでは入って来られないのだ。石壁のように隙間無く敷かれた雰囲気が、慣れたように私の肩をさらっていった。


 職員には誰も会わないまま、あなたの安置された部屋へとたどり着いた。あなたのおばさんは、そっとその先を私へと譲ってくれた。あなたの家の名前が、無地の白に印字されて、そのプレートがあまりによそよそしいことに胸が詰まった。


 意識しないまま、私は息を止めてそのドアを開けた。冷たい。かたい。そのドアから手を放すと、通路とはまた違う明るさで飾られた部屋に、あなたのかたちが横たえられていた。


 この衝撃は、どうしようもないようだった。


 胸を大きく突き上げられたかと思えば、その勢いを加速させながら内側へ抉りこむように、それは落ちてきた。


 あなたは、死んでいた。


 あまりにやさしい人だから。誰にもやさしそうな人だから。誰だって欲しいと思ってしまう。これは仕方が無い。仕方がないのだ。ここには、もうあなたはいない。あなたの目が、ゆっくりと水分を失っていく。


 はっと、息を吸い込んでしまったのが、いけなかった。これは、と気付いた時には過呼吸に陥っていた。吸い込む音が、空気の抜ける音に聞こえる。心臓の音が走りまわり、苦しさに冷や汗が吹き出す。胸の骨が痛み、目の前が遠のいていくのが理解できた。あなたのおばさんの手が、背中に近付いていたのをすり抜けて、私は固い床へと膝を打ち付けた。耳の中は暴風で満たされ、肩も膝を追って床を目指す。


 目が覚めた時、私は混乱した。


 目にした天井には、見覚えは無く、ああ、やはり私は自殺に失敗したのだ、と思った。ここは運び込まれた病院なのだと。どこか、ほっとした気持ちであたりを見た。


 カーテンで仕切られた場所ではあったが、ここは病院ではなかった。


 明るい外が透けて入り込んでくる。空気が、無理に気管を通ろうとする。


 白いカーテンの向こうで、人が動く気配がした。ゆっくりと起き上がって、足を下ろす。私は夏の制服を着ていて、紺色のスカートを履いていた。懐かしいローファーがベッドの横に揃えられていた。


 私はやっと絶望した。


 涙が頬を流れ、それは何筋もが一度に走った。転がり落ちるように、速い。頬骨に立ち止まることも出来ずに、身を放っていく。ぼたぼたと、屋根を打つ雨のような音が、折り重ねられた紺色の上で鳴った。


 あなたの死を、私はまた見送ってしまったのだ。 拒むことができないまま、また約束をしてしまった。


 喉が引き攣るでもなく、嗚咽が漏れるわけでもなく、ただただ涙が零れた。


 あなたの死を悲しんでいるのか、これからの十年を生きなくてはいけない、自分を哀れんでいるのか。あまりに悲しい。


 水を送り出しているばかりの目が、ふと、見慣れたものを引っかけた。


「あ」


 声が零れた時には、それを手に持っていた。ベッドサイドに置かれた、小さな棚に、袋に入れられるでもなく置かれていた本。それはあなたが病院で何度も開いていた本だった。薄くて、小さな、冊子のような本。それは物語ではなく、詩の書かれた本だ。緑の表紙。すこしざらつく紙の上の、どこか不器用さを感じる印刷された文字。


 これは詩集ではないのだと言っていた。いくつもの詩をまとめたものが詩集。この本には、一篇の詩が書かれているのだと。添えられるのは色ばかりで、絵にもならない。短い言葉がページをまたぎ、繰り返される。簡易な言葉。簡潔な一文。色のある中で、それらは隅にそっと置かれ、少しも主張をしない。それなのに、最後のページだけは真っ黒な中、言葉だけが白く浮かび上がる。あなたが、一番大切にしていた本だった。


「それは、あなたにと言っていたわ」


 部屋を仕切っていたカーテンをつまみ開けながら、あなたのおばさんが顔を覗かせていた。朝見た時より顔色が少し良くなっているように見える。彼女はどこか恥ずかしそうに笑った。


「あなた倒れたの、覚えてる?」


「はい、すみません、大変な時に」


「私もつられちゃったの」


 涙は止まらないままだったが、私の周りを吹きすさぶ暴風は少し勢いを緩めたようだった。彼女の、私のよく知っている病院で見てきた笑顔とは違う、肩の荷が下りたような、心配事が片付いたような笑顔が、私の骨を握りしめる。


「あなたが倒れたのを支えてるうちに、私もふらふらって」


 彼女はカーテンの内側に入り込み、私の隣へと腰を下ろした。一人分の重たさに薄いマットレスが沈む。感覚のなかで私の体はその方向へ傾いた。「あの子の母親が私たちをみつけてね。怒られたわ。姉さんがあんなにちゃんと怒ったの、久々で、なんだか懐かしかったわ」


 そう言いながら、そっと私が手に持っていた緑の表紙を指先で撫でた。


「この本、あなたにどうぞって」


「え」


「姉さんが」


 あなたのおばさんは笑った。何度でもこれから起こる悲しいことを、超えていこうと思っている。生きることを欠片も失っていない。あなたの失われた人生のその空白を、暗渠を、そのままで進んで行こうと決めている。そんな笑顔だった。


「あの子も、そうしてもらうことが一番いいっていうはずよ」


 彼女は笑いながら、私の涙を追い越すように涙を流した。


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