余情
とし総子
第1話
やっと、ここまできたのだ。
そう思った。
登山家が、至宝と仰いだ山に登り切ったような。
果てなど無いようだった海の向こう、焦がれた陸地に足を下した船乗りのような。
これはそういう気持ちだ。
あの日、あなたに言われた10年。
私には絶望にも、希望にも見えた時間の提示。
何度もその日を調べては、眠れない夜の底を這いずって抜けた。
胸に、脳裏に日付を瞬かせてきた。星のようだった。
消えることはない、消えるための日付。
あなたと約束を交わした日から、一週間後に、あなたは死んだ。
この世界から消えた。
私の手では届かなくなった。誰の手でも届かないものになった。
あなたは私の胸の中に生きている、とか。あなたはみんなの心の中にいつまでもいてくれる、とか。バカみたいだ。そんなわけない。見えないものはないものと何も変わらない。そんなことみんな分かっているんだろうに、暗黙の了解だとばかりに口を揃える。ばかみたいだ。いない。
あなたはいない。いないから、私も消えるんだ。
十年後。あなたはそう言った。
その間に私が心を許せるものができるかもしれない。
その間に私が、あなたを過去に置き去れるかもしれない。
あなたを私が、いい思い出だと、そう了承するかもしれない。
もしも、そう思えたなら、必ず、後ろ暗い気持ちに少しくらいなっても構わないから、生きてください。
そう言った。
私は頷かされたのだ。
頷いたからには、守らなくてはいけなかった。
その日から10年。
私は約束を守った。
17歳だった私は、吐きながら高校に通った。
卒業するまで、毎日学校に通った。
青い顔で授業を受ける私。目をギラつかせながら先生を睨むようにして、必死で受けた授業。
卒業旅行もいった。学校の行事とは別に、数人の友人たちと2泊3日の。お金を貯めるために受験勉強を昼間に、夜はコンビニにバイトを詰め込んで、寝るその瞬間まで何かをしていた。
その後、友人たちは夢を抱え、それぞれの道に必要な進路へと、少しだけ不安を揺らしながら旅立っていった。
私は家計の負担にはならない短大へ進学した。
大学生活は時間を埋めるのが更に楽になった。必須の授業だけではなく、取れるだけコマを埋め、昼中のほとんどを大学の周辺で過ごし、夕方に夕飯を食べに一度帰宅してはまたバイトへと出かけた。何度かサークルへ誘われたが、老後私が稼ぐお金が入らない両親のために、少しでもお金を残そうと思っていたので、散財を招くそれらはそっと手を振って視界をずらした。
父はよく、友人はできたかと聞いた。母もまた、友人は、それも異性の友人はできたのかと聞いた。二人の問いかけの違いに気づきながら、私は無難な言葉を返すばかりだった。
短大を卒業して、私は家から勤められる会社へ就職した。
業種はけして自分の好き嫌いでは決めなかった。やりがいや、生き甲斐を求めてはいなかった。
配属された部署で、ただこつこつと業務をこなした。それがこの会社で求められる能力で、私が提供できる能力だった。その合致は私にとって幸福だった。
仕事を始めて、父が時計を贈ってくれた。値の張るそれを、私は毎日巻いて出社した。この時計が、私の遺品になるのだろうと思いながらだ。
会社員になって一番困ったのが休日だった。
勤め始めたばかりの人間に、土日に出社してこなす仕事はなかった。
それから私は図書館に通うようになった。
どれを読みたいかを考えることが苦痛で、日本人作家のあ行のはじめから読み始めることにした。
開館の10時から、閉館の20時まで。昼食に自分で作ったおにぎりを喫茶スペースで口に放り込む時間以外は、定位置に決めた隅っこにあるモスグリーンの一人掛けの、柔らかな背もたれのない椅子に座り続けた。大抵は二冊を読み終えて帰宅する。夜は父の晩酌に少し付き合う。そうして土日をこなし、また会社へ。
私は、よくやったと思う。
そうやって私は十年を送った。
長かった。
でも、終わりが見えていれば、歩き続けることはできる。その証明ができた気がした。
夏の終わりが見え始めた8月28日。
私はこんなにも安堵に満ちた8月を過ごせることに驚いた。
それはまわりも同じで、少し柔らかな顔をした私を見て、不思議そうな顔をされることがよくあった。
生きられてよかった、そう思った。
9月4日、私は近くの川に睡眠薬を大量に飲んで飛び込んだ。
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