エピローグ3)三番目の舵取りのその後


「やれやれ、どっこいしょ」

 小柄な男は手にしたバケツの中身をひっくり返し、豚たちの前にぶち撒けた。

「まったくお前たち、良く食うなあ」

「それが済んだら、壁の修理をお願い」キルケーが声をかけた。

「はいはい、判っていますよ。まったく、姉御は人使いが荒いんだから」

「お前には何もかも迷惑をかけてすまないとは思っているんだよ、でもあたしの腕はこんなだからねえ」

 キルケーは包帯を巻いた腕を振ってみせた。この間の大騒動で受けた怪我はまだ癒えていない。それはキルケーの館も同じで、壁のところどころに大穴が開き、屋根の一部は火に焼かれて崩れている。つい先日、ようやく館の中の死体の片づけが終わったところだ。復興にはまだまだ時間がかかる。

「まあ、本気で文句を言っているわけじゃあ無いんです。あの船で舵取りをやっているよりうんといい」

 三代目舵取りは言った。豚舎の壁に立てかけてあった長ブラシを取り上げ、床を掃除し始める。

「ほんとに働き者だねえ。あんたは」キルケーは目を細める。

 ヘラクレスのおかげでキルケーが築き上げた全ては消えた。

 配下の怪物たちも、猛獣たちも、その全てがだ。多くが殺され、多くが逃げ去った。最終的にはヘラクレスは魔法の薬にも打ち勝ち、人間の姿に戻るとこの島を去った。彼が何故キルケーを殺さなかったのかはわからない。恐らくは、まだキルケーに隠し球があるとでも思ったのだろう。

 魔法の薬もそれを作る施設も、その全ては今は瓦礫の下だ。必要な材料も道具も一から作り直すのに、一体どれだけの時間がかかるのか見当すらつかない。

 かろうじて生き残った猛獣たちはキルケーの力が失われたことを知ると、この島を去った。魔法の薬の効果を支える祭壇も破壊されたため、中途半端に人間の姿に戻っている。きっと彼らは異形の存在として、これからの神話の歴史の中に再び登場することになるのであろう。キルケーはそう思った。

 あまりの破壊の凄さを見ると、人は復讐さえ忘れて虚脱する。そうでなければきっとキルケーは彼らに殺されていただろう。

 そこまできて初めて、キルケーは普通の人間との付き合い方というものを、三代目舵取りから学んだ。魔法の力を背景とした脅迫の下で支配しなくても、友人として、そして家族の一員として共に暮らすことはできるのだと、魔女キルケーはこの歳になって初めて知った。

「夕餉の支度ぐらいはできるよ。今日はあんたの好物を作るからね」

 キルケーは台所へ入ろうと背を向けた。どのぐらい昔だろう。こうして他人に背を向けても安心できた時代は。そうだ、もう魔女は止めよう。キルケーはそう決心した。

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