第17話 ホーバートの終着点


 フェンリル教の教祖ホーバートは、密生した森の中を苦労して駆け抜けているところだった。

 すでに日は暮れ、夜がその帳を下ろしている。運がよければ、追っ手の目をもう少しくらますぐらいのことはできるだろう。

 どれだけの間こうして走り続けていたのだろう。ホーバートは考えた。攻撃は昼下がりの午後に行われた。警備ギルドによるフェンリル教徒の摘発作戦だ。いや、それは正しくない。あれは徹底的と言える壊滅作戦だった。

 すでに信者の大半は捕まったはずだ。残った数名の者たちも、そう長くは追跡をかわしていられないだろう。それが済めば、今度は自分の番だ。教祖がまだ捕まっていないことに、いつ彼らが気づくのか。それがあまり遠い話ではないことに、自分の全財産を賭けるだけの確信がホーバートにはあった。

 今頃は、ミッドガルド界の各地で、同じようにフェンリル教徒が捕縛されているだろう。

 いや、もしかしたら、私刑も行われているかもしれない。フェンリル狼に絡んで、あれだけの騒ぎを引き起こしたのだ。そうならないほうがおかしい。

 どうしていきなりこんなことになったのか、ホーバートには理解できなかった。

 調査委員ザニンガムの話では、あの二級魔術師のファガスが捕まることになっていた。しかし蓋を開けて見れば、王国警備ギルドが目標としたのはフェンリル教徒だったのだ。

 逮捕に来た連中のなかには、悪名高い王国宗教査問会のメンバーまで混ざっていた。

 逃げるときに、三発撃った。魔法の炎の指輪でだ。最初に飛びこんできたうかつな捕縛師が、燃え上がる松明と化すのが見えた。それからお互いが撃ち合いを始め、すべてが無茶苦茶になった。

 ずいぶんと走った。

 そのお陰で、見ないでよいものまで見てしまった。

 あちらこちらで狂乱した信徒たちが、警備ギルドの人間に襲いかかり、その報復として炎に包まれていた。埋めておいた塚も暴かれ、教徒たちが犠牲にした人々の骨が白日の下にさらされていた。

 警備ギルドが連れてきていた巫女たちも叫んでいた。殺された者たちの復讐の声が地の底から呼び戻され、記録される。死者の告発を止めることができる者はいない。

 もはや隠し通すことなど、できはしない。罪が明らかな以上、罰は容赦なく降りかかるであろう。

 このときのために貯えていた黄金までもが掘り返されているのを見たときには、完全なる破滅を感じた。顔を変え、体を変え、臭いを変え、そして魔法のオーラを変える。そのための資金がいまはない。

 逃げきれないと悟ったとき、復讐の決意が生まれた。

 炎の指輪を握り締め、森の中を走った。隙間なく組まれた包囲網の中を、まるで無人の野を走るがごとくに突破した。魔法の警戒装置を反応させることなくすり抜け、襲いかかって来るはずの軍用犬をすべて脅して追い払った。

 ホーバートは自分にこんなことができるとは、いままで考えもしなかった。自分が自分でないようなそんな感覚だ。それがいかに真相に近いものなのかは、理解していなかったが。

 どこに向かうべきかは、わかっていた。

 妖精の森のなかの中心を占める場所。

 魔術師ファガスの家。

 誰を殺すべきかも、わかっていた。

 ファガスではない。やつにはまだ利用価値がある。半ば狂気に染まったホーバートの心の中で何かがささやいた。殺すべきは、あの家にいた少女だ。あの子供こそが、ファガスと創造者ライドをつなぐ糸なのだ。

 いきなりホーバートはよろめいた。危ういところでバランスをとり、たたらを踏んだ。その手が自分の目を覆う。

 創造者ライドだって?

 何のことだ?

 おれが殺したいのは、今回の事件に関係していると思えるあの小人、ファガスだ。関係もない少女を殺して何になる?

 一瞬、本体である詐欺師に戻ったホーバートは、自分の正気と狂気を同時に感じた。自分である自分と、自分でない自分が、正反対のことを喋っている。

 だがその均衡はあっという間に崩れた。第三の人格が、精神の奥の暗闇の中から、隠れていた姿を表して浮上したのだ。

 殺すべきは、あの少女なのだ。ホーバートは結論を出した。ファガスはまだ利用価値がある。神々の武器を再生できる存在が、このミッドガルドにまだ残っていたとは驚きだ。神々さえ知らぬこの事実こそが、最大の武器となるだろう。

 少女さえ殺せば、ミッドガルド界を維持している監視者たちの、ファガスに対する影響力は弱まることになる。その後は、この自分がファガスの耳に欲望を吹きこめばよいのだ。

 最前までホーバートであった存在は、にやりと笑いを顔に浮かべた。

 しかし、ひどい寒さだ。ぶるっとホーバートは体を震わせると真顔に戻った。現実の寒さではない。ミッドガルド界の魔力の薄さが生み出す幻覚の寒さだ。神の相に滑りこんだ状態を、長くは続けられない原因でもある。

 森を駆け抜けるホーバートの足はふと止まった。そこは少し開けた森のなかの道だ。円形に木々は刈られ、気持ちの良い空き地となっている。月の光が差しこみ、その空き地の中の切り株の上に座っている人影を照らしだす。

 ホーバートの口から、すらすらと言葉が踊り出た。

「これはこれはこんな夜中に、どうしましたお婆さん」

 その声に、大いなる森の老婆は顔を上げた。夜を背景に緑に光るその瞳が、老婆の正体をあらわにしている。一緒に生活をしているパット少女にもみせたことのない姿だ。

 老婆の唇がわずかに開き、静かな声がそこから洩れた。

「人を待っているのさ。ここでね」

 そこで言葉を切って、また続けた。

「いや、待っているのは人じゃないね。さっきまでは人だったのだけどさ」

「こんな夜中に、こんな人気のないところで、逢い引きの相手と待ち合わせとは。その歳にしては、なんとも元気なことだ。あのトール神でさえ、老齢を相手にしては、片膝をついたというのに」

 ホーバートはそう言うと、老婆に近づいた。炎の指輪がその指の上できらめきを放つ。

「教えてくれでないかえ? ホーバート。いや、『変身者』よ」

「何をだい? 大いなる森のお婆よ」

 相手の呼び掛けを否定もせずに、絶対の自信と共に歩みながら、ホーバートは距離を縮めた。

「フェンリル狼の口の間に供物を詰めこんだのは、やつを成長させるためだったのかい?」

 そう言いながらも、大いなる森の老婆は杖を握りしめた。

 ホーバートの足が止まった。その手の指輪が、魔法の発動をしめす微かなうなり声を上げる。ザニンガムが訪問したとき、神ならではの力を使ってこっそりと盗んでおいた指輪だ。いかなる魔法の力があろうとも、たかが人間の老婆一人、焼き殺すことなど造作もない。

 もしあのとき完全に目覚めていれば、盗んだのは炎の指輪ではなく、ドラウプニルの指輪のほうだったのに。『変身者』は、静かに、聞こえぬように、心の中で舌打ちをした。

 その口が開く。

「その通りだとも。あの可愛い狼が、おれの息子であることは知っているかな?

 月につながれたあいつには、月から洩れだす魔力しか食うものがない。あの呪われた魔法の鎖のお陰で、月そのものを食えば、自分を食うことになってしまう。ほかに食うものがあれば、あいつはずっと速く成長するのだよ」

 その後を、大いなる森の老婆は続けた。

「そして、狼が予定より早く解放されれば、最終戦争ラグナロクを待つ神々の隙をつけると考えたんだね。本当ならばフェンリル狼はラグナロクが始まった後に解放されるはずだからね」

 憎悪が初めて、ホーバートでもある存在の顔の上に刻まれた。

「お陰でまたしても、息子は封印の中に逆戻りだ。あいつにも食えないものがこの世にあるとは、おれにもわからなかったよ」

「それは無理もないことさ」大いなる森の老婆は静かに笑った。「ミッドガルド界といわず、アスガルド界と言わず、運命の女神たちのつむぐ糸は果てなく強靱なのさ。彼女たちを出し抜くのは、いかに『狡猾なる者』でも、楽なことじゃない」

「人間にしてはよく知っているな。老齢なる者よ」

 ホーバートは歯をみせて笑い返した。いつの間に変じたものか、その口の中に並ぶのは肉食獣の牙であった。

「だが、その知識は何の役にも立ちはしない。その杖に仕込んだ魔法の武器で、このおれを殺そうと考えていたのだろうが、生憎だったな。お前のような者が動くより、おれはずっと速く動けるのだ」

 ホーバートは腕を上げて、指輪の狙いを老婆につけた。指輪の前面に陽炎が揺らめく。

 大いなる森の老婆はホーバートの顔を見た。ホーバートの瞳の裏に隠れる、『変身者』ロキの姿を。その鋭い緑の瞳で。

 ホーバートの体が動揺で揺れた。

 老婆が笑ったのだ。

 大きな声で。

「安心したよ。あんたが万能の存在でないことがわかって。ミッドガルド界の低い魔力密度では、神の力のすべてが働くわけじゃないんだね」

「気でも狂ったのか」ホーバートはつぶやいた。

「いや」大いなる森の老婆はつぶやいた。「気が狂っているのは、あんたさ」

 ホーバートの胸の上に、いきなり木が生えた。それは背後からホーバートの体を貫き、心臓を撃ち抜くと、反対側に突き出た。

「これは!」ホーバートが膝をついた。その手が上がると、自分の胸を貫いた矢を握りしめる。

 恐ろしく不細工で奇妙な形の石弓の矢だ。脆い木を何重にも巻きつけた針金で補強してある。

 信じられないという目で、ホーバートはその華奢な矢を見つめた。

「あんたのことだ。いきなりあたしを殺すことはないだろうと踏んだんで、あらかじめそこに矢が飛ぶように細工しておいたんだよ。

 あたしをお喋りでいたぶる誘惑には勝てなかっただろ? 『耳刺す者』ロキよ。

 まあ、いつまで経っても矢が飛んで来ないから、こっちも少しはひやひやしたけどね。後はちょっとした会話で、あんたを楽しませればよかったのさ。

 そいつが飛んでくる、その瞬間まで」

 大いなる森の老婆は、切り株から腰を上げた。

「神を殺すなど、簡単なことさね」

 それを聞いて、ホーバートの口から声が洩れた。「やりやがったな。婆あ」

「強がるのはおよし。あんたの負けさ。宿り木で作った矢は、神をも殺す。善なる神バルドルに対して、あんたがやってみせたことだからね。いくらあんたでもその結果からは逃れられない」

「おれがバルドルを殺すのはもっと先だがな」

 ホーバート、いや、いまや死にかけているロキ神は指摘した。

「だが、こんなことをしたからと言って、物事は何も変わりはしないぞ。おれの息子はいずれ鎖から解き放たれる。この世界の滅びは運命づけられているんだ」

「そして神々の滅びもね」大いなる森の老婆は指摘した。「あんただって例外じゃない」

「それはどうかな?」死相を顔に浮かべながらもホーバートは言った。

「あんたは運命に対してあがくだろうよ。たぶんね」

 大いなる森の老婆は言った。どことなく悲しげだ。

「だがそれは、あたしたち人間だって同じなんだ。神だろうが、人だろうが、運命の僕であることは同じ。この九つの世界に住む限りはね。あんたが運命に対してあがき、その結果として人の世界を苦しめるのなら、あたしたちもあんたに対してあがくのさ。これまでそうして来たように、これからもそうするだろうよ」

「おれは必ず、戻って来るぞ」ホーバートの口からどっと血が吹き出した。

「わかっているよ。だけど歓迎されるなんて思うんじゃないよ」

 大いなる森の老婆は、ホーバートとホーバートに宿った神が絶命するさまを、冷たい目で見つめていた。

 もちろんこれで、祟り神のロキが死んだわけではないことは理解していた。変身者は無数の顔を持つ。ホーバートはその顔の一つに選ばれただけなのだ。

 それから杖でホーバートの死体を探ると、その先端を使って持ち上げた。

 軽い。皮だけだ。それと服。肉と骨はどこかに消えてしまっていた。

 目のない眼窩。死を示す恐るべきシンボル。ここにあるのは人間のぬけがらでしかなかった。

「やれやれ。こんなもの、パットには見せられないね。おねしょしちゃうよ」

 大いなる森の老婆は、ホーバートの抜け殻を地面に投げ棄てた。

 小さな音を立てて、その抜け殻から小石が転がり出た。月の光の下で不思議な光輝をたたえて、その小石は草の上に鎮座した。

 老婆の杖が火を吹いて、草地を舐める。一瞬で抜け殻は燃え上がり、たちまちのうちに灰になった。

 それからまた、大いなる森の老婆は切り株に腰を降ろすと、つぶやいた。

「やれやれ、あたしももう若くはないね。たかが神を一柱殺しただけで、こんなに疲れてしまうなんて」

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