第12話 黒天使
中学二年生のときのこと。
その日も金縛りの夜が予告されていた。壁が呼吸をしているのだ。
嫌だな、とは思ったが、実際には耐える以外には何も打つ手がなかった。
いじめっ子に狙われるのと同じだ。どこにも逃げ場はない。
荒廃した学校では悪い奴らに狙われ、家の中ではねじくれた根性の兄に虐められ、夜は夜で怪異に虐められる。まるで世界がすべて敵に回った気分。気分ではなく実際にそうなのだが。
その日は布団に横になるとすぐに金縛りが来た。珍しいことに指一本動かせないタイプの完全な金縛りだ。暗闇の中で金縛りにかかったまま、今日は何が出るのかと神経を研ぎ澄ませていると、天井の隅から羽音が沸き起こった。何千と何万という羽音が。
薄明りの中を舞う、それは黒い渦巻きだった。
小さな何か。ちょうど小ぶりのハエを思わせる大きさの羽音。それが群れを成して天井の角隅から噴き出して来ると、眼前で渦を巻いて飛んでいるのだ。薄闇の中で正体はしかと掴めなかったが、音だけでもかなりのことは判る。
蚊よりは大きい。銀蠅よりわずかに小さい。だが、力に満ち溢れ、渦を巻いて飛んでいる。明らかに知性あるものの動き。よく訓練された軍隊が持つ一糸乱れなき動き。こんなものには今まで出会ったことがない。
渦巻はゆっくりと空中を降りて来ると、金縛りで動けないこちらに近づいて来た。
完全型の金縛りは、呻き声さえまともに出せない。せめて深呼吸ができれば、気合のかけようもあるのだが、深呼吸などという贅沢は許してくれないのが本物の金縛りなのだ。
来るな!
叫んだのは心の中でだ。声は出せないから。
だがそれでも、黒い渦巻きが降下を止め、少しだけ上昇した。それからまたゆるゆると下降を開始した。羽音の渦巻きが近づいて来る。
来るな!
発狂しそうな頭の中で声にならない叫びをあげる。またもや黒い渦巻きが押し戻される。
そのまま朝が来るまで繰り返し、粘る。朝日が窓を照らすと、黒い渦巻きは天井の隅へと吸い込まれ、消えた。同時に金縛りが解ける。
なんと延々八時間の金縛り。最長記録だ。
その日はふらふらになりながら、学校へと登校した。
当時、その中学校は校内暴力の嵐が荒れ狂っていた時期だった。地域の暴力団をバックにした暴走族が中学校の前にバイクを横付けし、その暴走族をバックにしたワルたちが校内で好き勝手をする。それらに負けず劣らす頭の悪い体育教師たちが所かまわず体罰という名の暴力を揮う。そんな時代であった。
それでも真面目な学生であった自分は、授業中に居眠りをするなど考えもよらず、眠い目をこすりこすり授業を受けていた。これが済めば今夜はゆっくり寝られる。そう考えていた。
授業が終わり、家に帰るとその期待は裏切られたのが判った。
壁が呼吸をしている。今夜も金縛りの夜だ。
今まで怪異が二晩も続いたことは無かったので、すっかりと油断していた。いや、油断していなくても何ができるわけでもないのだが。今なら何とかできそうなものだが、当時は何のオカルト知識も無く、昼間に授業をさぼって寝るという大胆な行為もできなかった。真面目な者は常に損をする。いま自分に起きていることが、常識などに囚われるべきではない異常事態だということを理解していなかった。
その夜も、布団に入るとすぐに金縛りにかかった。またもや黒い渦巻きが湧き出て来て、羽音を響かせる。
前夜と同じことが繰り返された。
朝になると黒い渦巻きは消え、後にはげっそりした顔の自分だけが残された。これで二連続徹夜。
誰もこの幼い中学生が味わっている魂の危機には気づかない。そして誰にも相談できない。親にも兄弟にも友達にも。ましてや教師には。
発狂したと思われたくなければ一人で頑張るのだ。
その日も地獄の睡魔との戦いで一日が消えた。
兄には相談できなかった。その昔、近所の悪ガキ連中に連れられて血液銀行跡の廃墟探検に出かけたことがある。そのとき、奥の暗がりから飛び出て来た捨て犬のブルドックに怯えて、全員が逃げた。及び腰で最後尾についていった自分は自然と逃げ出す列の先頭になったが、その肩を掴んで犬との間の盾へと差し出した人物がこの兄であった。
臆病者で卑怯者の兄になど相談しても無駄だ。むしろ話を聞きでもしようものなら、怖い現象に自分がまきこまれるのを恐れて、お前はきちがいだと喚きだすに違いなかった。
では疲れ切った顔の母親はどうか?
母子家庭の我が家は貧乏だったので、怪異に出合っても親に相談することはできなかった。霊能者に依頼するようなお金が無いことは判っていたし、延々と続く兄の陰湿ないじめを止めることもしない母親に失望していたこともある。
友達は?
友達なんかいない。周囲にいるのは喧嘩が弱いとみればすぐにいじめっ子に変わるろくでもない連中ばかりだ。何か変わったことがあれば、虐めの対象にされるだけだ。
教師は?
あの学校の中に信用できる教師が居るとでも?
誰か頼ることのできる人は?
誰もいない。
誰もいないのだ。
夜が来る。また今日も、壁が呼吸をしている。ふうふうはあはあ。どこからともなく視線が注がれている。確実に、あれが来る。
どんなに頑張っても夜が来て、眠る時間が来る。できるだけ起きていようと頑張るが、そうもいかない。灯りを消して布団に入る時間が来た。育ち盛りがすでに二連徹をしている。今日で三夜目。
金縛り。黒い渦巻き。強烈な睡魔。来るなとの声無き絶叫。
ついに心が折れた。今夜を凌いだとしても、また明日来ることが判っているのだから、頑張りようがない。このマラソンにはゴールが無いのだ。
もう、どうとでもなれ。死を覚悟した。中学二年生である。
黒い渦巻きが下降して来ると、全身を包んだ。上に被った布団を無視して突き抜け、こちらの体に重なる。羽音の振動が潜りこまれた体の内側から流れ出す。
きっちりと体の前半分を、黒い渦巻きは浸潤した。こちらの肉体をも空気のように抵抗なく通り抜け、羽音を響かせる。
振動は奇妙に心地よかった。これですべてが終わるという安堵の思いとともに受け入れる。小さな無数の粒が体を通り抜ける。
やがて黒い渦巻きは天井へと吸い込まれていった。後に何故か、探し物は見つからなかった、という思いが残る。
それ以来、黒い渦巻きが現れることはなかった。
長い間、黒い渦巻きの正体は謎であった。色々読んだオカルト文献にも似たような例はなく、その目的、その存在、その正体、すべてが謎のままであった。
それから三十年が経ったある日、ひょんなことから、母親にこのときの事件を話した。それまで一度も話したことはなかったのだが。
「どうしてそのとき私に相談しなかったのよ」母が不満を漏らす。
だって頼りにならなかったじゃない、とは答えなかった。もう終わったことで母を傷つけたくはない。
「あたし、それに遭ったことあるよ」と母がとんでもないことを言い出した。
母の父、つまり祖父は新ホーリネス派教会の牧師であった。当然、母も生まれながらにしてのプロテスタントであった。それが祖父が死んだ後のある時点で、キリスト教を止めている。そのとき、やはり三日間、私と同じ黒い渦巻きに襲われたということだった。
つまりあの黒い渦巻きは、キリスト教に関わる何かだったということになる。
その存在は霊的なものなのであろうか?
少なくとも、あれは、分厚い布団を通り抜けたから物質ではない。そして人間の体を通り抜けたから霊体でもない。と思っていたのだが、そうではないことに気付いた。あれは霊体で、こちらの霊体を軽々と透過できるだけの霊的な硬度と密度があるのだ。衝突の結果として、通り抜けられたこちらの霊体はボロボロになる。だから体の前半部だけを浸潤した。背中の側まで入りこめば、つまり私の霊体を完全に破壊すれば死に至るからだ。
なんという優しさ、そしてなんという残酷さ。私は生きながらにして霊的な解剖をされたということになる。
闇の中を満たす無数の羽音。正体のわからない何か。昔の人たちはそれを称して「蠅の王」と呼んだのではないか。蠅の王ベエルゼブブ。悪魔王の一柱。
神と悪魔は一枚のカードの裏表。天使の上側は悪魔というのはオカルト学での常識である。善悪の分類は人間が勝手に決めた話にすぎない。
しかし、私はキリスト教の信徒ではないのに何故、という疑問は、最近解けた。思い出したのである。
当時、姉が結婚した相手は、デパートでアクセサリを販売する仕事をしていた。ちょっとした思いつきでその人に頼んで、十字架のアクセサリーを一つ手に入れたことがある。 当時金縛りと怪異に悩まされていた私は、藁にもすがる思いで、それを壁にお守り代わりに掛けておいた。針金を捩じって斜めの十字架に設えた、文字通り安物アクセサリの十字架だった。
どうやらその行為を、キリスト教への入信行為と捉えたようなのだ。
天使というのは、思いのほか大ボケな存在である。たぶん、わざとやっているのだろう。ヤクザが因縁をつけるときと同じだ。形さえ揃えば、後は適当な理屈で自分を正当化できる。
彼らが、もしくは、それらが何を探していたのかは判らない。親から子へ何世代にも渡って探すもの。あるいはもしや、何千年に渡って人間たちの中を探し続けているのかもしれないもの。
それは一体何なのだろう?
知りたいとは思うが、もう一度あれに遭いたいとは決して思わない。
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