第二十九話:元カノを掴まえる

 講義室前の廊下で、壁にもたれかかって待機する。

 すると予想通り、講義終了のほんの少し前には現れた。


「よう、久しぶり」

「智樹……」


 まさか待ち構えているとは思っていなかったのだろう。

 紗香そいつは一瞬、面を喰らったような表情で静止した。

 そちらに向かって、一歩近づく。


 同じく講義を終えた面々が、俺と紗香を避けながらそこかしこに歩き去っていく。

 入口近くに佇んでいるためこちらに向けて一瞥こそくれるものの、すぐに興味を失ったかのように自らの日常へと戻っていく。

 どうやらまだ俺たちが二人でいることには、それほど違和感を覚えてはいないらしい。

 そのことに、なぜか無性に安堵した。


 ――実は『会おう』と決心してから、既に数日経過している。


 まずは講義後を狙って話しかけようと思っても、いつの間にかいなくなっていて、上手くいかなかった。

 それならばと何度となくメッセージを送ってみたものの、そもそもの返信が遅く、ようやく返ってきたと思っても、のらりくらりと躱されていた。

 避けられていると感じたのはどうやら俺の勘違いではなかったらしい。


 だから少し意表をついて、こうして待ち構えることにしてみた。

 我ながら、もはやストーカーみたいだ。

 これでもどうしようもなかったらいい加減諦めなければならないと思っていたため、立ち止まってくれたのは正直言ってありがたかった。


「えっと…………じゃあ、私、行くから……」


 多分、紗香としては俺と話し込むつもりなどないのだろう。

 気まずそうにそれだけ言って視線を逸らし、どこかへ行こうと背中を見せた紗香に、俺は再び声をかけた。


「なあ」


 びくり。肩が少し跳ね、紗香の足が止まった。


「ちょっと話せないか?」

「…………別に話すことなんてないでしょ」


 紗香は俺に背を向けたまま応える。


「紗香はないかもしれないけど、俺はあるんだよ」


 ――二、三秒ほどの沈黙が訪れた。


 迷っているのか?

 ダメ押しに「頼む」と投げかけると、紗香は観念したかのように、溜息をひとつしてからこちらに向き直り、近づいてきた。


「……彼女に何か思われても知らないから」

「友達と話すくらいのことで、目くじら立てられる理由がないだろ?」


 言うと、紗香は苦笑いをして、「それもそうだね」と諦めたかのように小さく零した。


 △▼△▼△


「――で、話したいことってなに?」


 俺たちは大学から少し離れたところにある見晴らし台とやってきていた。


 別に綺麗な景色が見たかったわけではない。

 ただ、ここは夜景が綺麗なスポットとして地元ではなかなか有名なため、夜はまばらに人がいたりもするが、陽の高いうちはほとんど見かけない。


 俺がゆっくり話せるところを希望し、紗香が人気ひとけのないところを希望したため、こんな場所になってしまっただけのことだ。


 頷き、うるさい心臓を宥めるように息を吐く。

 そして並んでベンチに腰かけている紗香の方を見ずに言った。


「この前喫茶店で別れるとき、なんで……泣いてたんだ?」


 紗香が身を強張らせた。


「……泣いてない」

「嘘つけ」

「嘘じゃないよ。だいたい、なんで私が泣く必要があるの」

「そうなんだよ。紗香に泣く理由なんて、ただひとつだってないはずなんだ。だから――だからこそ、わかんねえんだよ」


 確信を持って見破られていると思ったためか、はまた俺が自説を曲げる気がないとわかったためかわからないが、紗香は否定もせずに黙り込んでしまった。


「なあ、頼むから教えてくれよ。俺もう、わかんねえよ。紗香に別れようって言われたあの日から――いや、もっと前の、俺たちがすれ違っていったあのときから、全然わかんねえ。何が悪かったのかも、それどころか紗香が何を考えてるのかも、何もわかんねえんだ」


 紗香は何も言わない。

 黙ったまま、俯きがちに地面に視線を固定している。


「このままじゃ、前に進めないんだよ。俺はさ、お前とずっと繋がっていたいんだ。別に前みたいに頻繁に会ったり遊んだりしようって言ってるんじゃない。だけどこんな形で離れるのは絶対に嫌だ」


 単なる俺のわがままだってことは自覚している。

 けれど、どうしても嫌だった。

 紗香にとっては関係ないことかもしれない。

 だがこうして避けられている以上、俺に対して何らかの感情を持っているんじゃないかと思った。

 行動を起こさせているその正体を、俺は知りたかった。


「俺たち、友達なんだろ? 何でも言い合える、友達になったんだろ? だったら――」

「――友達なんかじゃない」


 決して大きな声じゃなかった。

 だがそれでも、その言葉は、俺の耳にはっきりと届いた。


「友達じゃあ、ないんだよ。私にとっての智樹は」

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