第44話 暇つぶし

 アサギの部屋にカナが訪ねてきたのは、山の端に太陽が隠れようとする間際だった。

 茜色の夕陽が差し込む部屋で二人きり。

 カナはアサギの前に座すと、深く頭を下げた。


「鶯王様から、母君へと言葉を預かっています。この言葉は、母であるアサギ様にのみ向けられたもの。あの場で口にするのは、はばかられました」

「そうですか……」


 鶯王がなにを語ったのか、聞きたいのに聞きたくない。

 聞いてしまったら、そこで本当に全てが終わってしまいそうで。


 アサギは両手で顔を覆い、天を仰ぐ。


(あぁ、聞くのが怖い……聞きたくない!)


 でも、死の間際に託された言葉が聞けることは幸い。そう、幸いなのだ。

 戦に夫や子供を出し、里に残った者は、そのほとんどが死に際の様子を知ることができないだろう。だから、きっと……そういう立場の人達にしてみれば、アサギのことが羨ましいはずなのだ。


 それなのに、どうしよう……やはり聞くのが怖い。

 助けを乞うていたら、どうしよう。恨み言を口にしていたなら、この身が切り裂かれそうだ。


(鶯王……私の、可愛い子……!)


 痛かっただろう。苦しかっただろう。怖かっただろう。それなのに、こんな母に言葉を遺してくれた心優しき子。


(あぁ、悔しい。胸が苦しくて、どうにかなりそうだわ)


 毎日、無事を願っていたのに。子を想う願いは、どの神も聞き届けてくださらなかった。現人神であるはずの大王でも、鶯王の命を救うことができなかったのだ。


(どんなに崇め奉ろうと、神は人間のことなど気にも留めてくださらないのね……)


 願うことなど、ただ人間の自己満足でしかないのか。

 アサギは、溢れ出る涙を止めることができない。嗚咽が漏れ、俯いた。


「アサギ様。お伝えしても、宜しいでしょうか?」


 カナの落ち着いた声音に、グラグラと揺らぎ、倒れそうになっていた気持ちが支えられる。

 母のために向けた言葉が伝えられなければ、それは鶯王の未練になってしまうだろう。


 アサギは覚悟を決め、顔を覆っていた手を膝の上に置いた。涙と鼻水でグチャグチャの顔を見られたくなくて、カナから少し顔を背ける。


「取り乱して、申し訳ありません……」

「いえ」

「鶯王は、なんと?」


 鼻声になってしまったけれど、取り繕うことはしなかった。というより、無理だった。


 カナが息を吸う音が聞こえる。いよいよだ、とアサギは目蓋を閉じた。閉じた拍子に、また涙がポロリと零れる。カナが発する言葉を聞き盛らなさないように、嗚咽は必死で我慢した。


「母に……先に逝く親不孝を詫びてほしい。武功を立てられず、申し訳ありません……と。そして、最後に。夢を叶えてあげられなかった……ごめんなさい、と申されました」

「夢……っふ……ぅう」


 やはり、そうだ。鶯王を死なせた原因は、アサギの言葉。アサギが、鶯王を死に至らしめたも同然だ。


(なんて、優しい子……)


 止めたくとも、涙が止まらない。また顔を覆い、肩と背中を震わせる。


(私は、私が許せない)


 同じくらい、アサギは頭領のことも許せない。

 マツもチヨも、大事な鶯王も奪われた。頭領の指示によって奪われたのだ。


「怨めしい」


 頭領が憎い。殺してやりたいという殺意が、腹の底から沸き起こる。静まっていた腹の中に巣食ったドロドロが、再び意志を持ち始めた。


 ーー頭領が居なくなっても、里はどうにでもなるだろう。


 頭領にとって、駒の代わりがあるように。頭領が居なくなれば、誰かが替わりをこなすのだ。


 ーー頭領は、居なくなっても替えがきく。

(本当に? 替えがきくのかしら……)

 ーー頭領が交代し、今より政がよくなるのなら、それもよし。

(けれど、衰退したら?)


 その責任は、アサギに生じてしまうのではないか。


「私が、手を貸そうか?」


 カナの口調と雰囲気が、ガラリと変わる。

 おしとやかで穏やかな女性の顔は消え、畏れを抱くような威圧感と存在感を放ち始めた。


 アサギは、緊張に身を強ばらせる。


「手伝う、って……なにを?」

「心に浮かぶその者が、憎いのであろう? 私が、手段を与えてしんぜようと申しておるのじゃ」


 カナの瞳は妖しく輝き、見詰めていれば吸い込まれてしまいそうだ。


「しかし、その身を穢すことになる。人ではなくなるやもしれん」


 カナの言葉に、アサギは怯まなかった。

 穢れだろうとなんだろうと、手段があるのなら、実行に移すのみ。


「やるわ。もう、この世に未練は無いもの」


 大切な人は、みんな居なくなってしまった。大王の傍には、アサギが居なくてもいいのだ。

 頭領の駒であり続けることでしか存在できないのであれば、存在していることをやめてしまいたい。


(マツやチヨも、こんな気持ちだったのかしら)


 自分を大切にする気持ちなんて、カラカラに尽きてしまった。


 夕陽は沈みきり、夜の闇が侵食し始める。

 カナは立ち上がり、背中を丸めるアサギをそっと抱き締めた。


『私の名は、金屋子』


 金屋子、とは……どこかで耳にしたことがある響き。


 アサギが顔を上げると、いつの間にか装いを変えたカナの姿が目の前にあった。

 カナの全身は仄かな光に包まれ、身にまとう衣は白く長く女神のよう。しかしどこか荒々しい。迂闊に近寄れば、身に危険が及ぶと本能が伝えてくる。


(人間じゃない……)


 カナはアサギの手を引いて立ち上がらせた。


『戸惑うておるか?』


 言葉が出てこず、アサギはコクコクと何度も頭を縦にする。


『信じてくれるか分からぬが、これが本来の私の姿じゃ』


 カナの体は宙に浮き、部屋の中をクルリと旋回した。アサギの前に戻ってくると、また人間の姿に戻り微笑む。


「人の姿は仮の姿。私は退屈しのぎで、人間界に干渉する気まぐれな神なのじゃ」

「本当に、神様が……」


 存在しないと諦めていた神が、目の前に姿を現しているという現実に、理解が追いつかない。

 カナはアサギの戸惑いなど気にかけた様子もなく、言葉を続ける。


「私は鍛治製鉄を司る神。製鉄を生業とする大牛蟹達と、姿と身分を偽り行動を共にしておったのじゃ」

「そんな……なんで、神様が……そのような?」


 カナはわずかに口角を上げ、不敵な笑みを浮かべた。


「日常に刺激が欲しかったのじゃ。暇で退屈な時間が続けば、神をも殺せる。存在しがいがなければ、死んだも同じよ。それに比べ、人間は飽きぬ。営みの中に混ざっていると、感情が忙しい」


 とても愛しく大切な事柄を思い浮かべているのか、カナは慈愛に満ちた笑みを浮かべている。一度目蓋を伏せると、今度は申し訳なさそうな表情をアサギに向けた。


「人の姿であるときには、神力が使えぬ。そんな私を庇い助けたことで……大事なご子息の命を失ってしまったことに、少なからず負い目を感じている」

「いえ……優しい子に育ってくれたと、喜ぶべきなのでしょう」


 綺麗事を述べてみても、アサギの憂いは晴れない。神という存在を助けたというのであれば、鶯王のことを誇りに思わなくては。


 でも、やっぱり悔しい。


 アサギの目に、また涙が浮かんでくる。

 沈黙の帳が降り、しばしの静寂が訪れた。


 もし……と、カナが口を開く。


「そなたが必要であると望むのなら、私が無念を晴らす手伝いをしよう」


 カナの申し出に、アサギの口から「なぜ」という言葉がついて出た。


「なぜ……そこまで、気にかけてくださるのですか?」


 金屋子の神は膝を折り、アサギの手を握る。


「ただの、気まぐれじゃ」


 素っ気ない言い方とは裏腹に、カナの瞳には懺悔の色が濃く浮かんでいた。


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