第14話 帰還命令

 ホウキと名付けられた息子は、皇子を真似て皆から鶯王と呼ばれていた。


 生まれてから三ヶ月。鶯王はスクスクと成長し、関わる人達を幸せな気持ちにさせていた。近頃は首もすわってきたようで、うつ伏せになると一生懸命に頭を持ち上げようとしている。縦に抱くと視線が変わり、不思議そうに周囲を見渡している姿も可愛らしい。

 ぷっくりと膨らむ、しっとりとした手触りの頬。肌のキメが細かくて、羨ましい限りだ。


 日に日に、鶯王に対して愛しさが増していく。アサギも少しは、母になれているということだろうか。

 眠る鶯王の柔らかな髪の毛を撫でていると、部屋の出入口に気配を感じた。


(誰かしら……)


 顔を向けると、静かに皇子が佇んでいる。


(こんな時間に、珍しい)


 今は昼前。諍いを平定しに出ていない普段ならば、政務を行っている時間帯だ。


「どうかなさいましたか?」


 声をかけると、皇子は鶯王に目を向けた。


「眠っているのか?」

「はい。寝顔をご覧になりますか?」


 どうぞ、と場所を譲れば、皇子はアサギの隣に腰を下ろす。片膝を立てて座ると、鶯王の顔を覗き込んだ。

 すぅすぅと寝息が聞こえる。微かな寝息は、規則的で心地よい。気候のよさも相まって、隣に寝転べば、そのまま一緒に眠ってしまいそうだ。


 皇子の頭が、アサギの肩に乗る。


「可愛いな」

「左様でございますね」


 同意をするも、皇子の言葉は続かない。

 アサギも特に話したいことがあるわけではなかったから、鳥の囀(さえず)りが聞こえる穏やかな時間に身を委ねることにした。


「アサギ」


 ポツリと呟くように名を呼ばれ、はい、と返事をする。

 アサギの肩に頭を預けたまま、皇子はアサギの手を握った。


「共に……ヤマトへ来ぬか?」

「ヤマトへ……ですか?」


 藪から棒に、どうしたと言うのだろう。


「先程、兄上からの使いが来て……早急にヤマトへ向けて出発せねばならなくなった。遅くとも、明後日には……」

「それは、また……急でございますね」


 出立の準備が整うのだろうか、と気にかけていると、肩から重みが消えた。皇子が、真っ直ぐアサギを見詰めている。


「あとから、遅れてでもかまわぬ。ヤマトへ来てはくれまいか?」


 皇子の申し出に、アサギは首を横に振った。


「鶯王も、まだ小さく……ヤマトまでの道のりは大変でございましょう。それに、母を一人残して行くわけには参りません」

「ならば、母君も共に」


 アサギはまた首を横に振る。


「母は参らぬでしょう。怪我をしてから、身の回りのことさえままならず、手を貸してもらわねば暮らしていけぬ状態です。皇子様や妻木の頭領、里の者達のおかげで生活ができています。そんな母を一人残して……ヤマトへ行くことはできません。アサギは、この地で皇子様のお帰りをお待ちしております」


 安心させようと笑みを浮かべれば、皇子に抱きすくめられた。


「そなたが母想いなのは、重々承知しておる。でも……我は、アサギと共に居たい」

「勿体なきお言葉。そのお気持ちだけで、十分幸せでございます」


 なんて、嘘だ。


 皇子がヤマトへ帰ってしまうなんて、寂しくて仕方がない。


 マツやチヨの元で夜を過ごすときや、諍いを平定するために長く留守にするときなど、初めの頃はなんとも思っていなかったのに……今では、傍に居ないことが寂しくて仕方がないのだ。


 皇子と夫婦になってから、アサギも随分と気持ちの面で変化があったらしい。


 正妻という立場にあるのだからと律してはいるけれど、第二夫人と第三夫人にヤキモチだって焼いている。

 こんなことでは、さらに側室が増えたらどうなってしまうのか。オオクニ王の正妻であったスセリ姫のように、強く出てしまうようになるかもしれない。


 自分が想定していたよりも、独占欲が強くて驚きだ。


 皇子はアサギの手の甲を擦り、指を撫で、そっと優しく絡める。手の温もりと、撫でられた感触が残る皮膚から、皇子の気持ちが流れ込んでくるようだ。

 まるで後ろ髪を引かれるように、ねっとりと。

 皇子が耳元に顔を寄せる。


「次は、いつ戻って来られるのか……分からぬのだぞ。それでもよいのか?」


 低い囁き声が、鼓膜を震わす。アサギは目蓋を閉じ、皇子の声の余韻に浸った。目蓋を持ち上げ、静かに口を開く。


「使いの者より伝えられた内容が、そのような事柄だったのですね」


 確認するアサギに、皇子は答えない。アサギに伝わってはならぬような内容だったのだろう。


「皇子様……」


 アサギは、皇子の指が絡まる自分の手に、そっと反対の手を重ねた。


「皇子様は私の夫であり、鶯王の父でありますが、ヤマト族の皇子です。ご自分に課せられた任を……果たしてくださいませ」

「アサギ……」


 皇子はアサギの頬に手を添え、そっと唇を重ねる。角度を変え、鳥が嘴(くちばし)で実を啄(ついば)むようにアサギの唇を何度も食(は)む。いつもより時間が長く、アサギはだんだん恥ずかしさで脳が沸きそうになってきた。

 皇子の胸を押し、顔を離す。少し不機嫌に睨めば、皇子は気にも留めずアサギを抱き寄せた。


「そなたは、物分りがよすぎる。わがままを言わぬ。心配だ」

「ふふ。それは、どういった心配ですか」


 物分りがよいのだから、褒めてほしいくらいだ。


「いつの日か、押さえ込んでしまった感情が暴走をせぬかと……心配なのだ」

「では、適度にわがままを申すことに致しましょう」


 クスクスと笑うアサギに、皇子も嬉しそうな笑みを向ける。


「ああ、そうせよ。可愛いわがままなら大歓迎だ」


 では、とアサギは要望を口にした。


「アサギは鶯王と共に、ここへ残ります。ヤマトへは参りません」

「アサギィ〜」


 皇子は年甲斐もなく、子供のように唇とがらせて不満を伝えてくる。アサギはスンッと澄ました表情を浮かべて見せた。


「これは私のわがままです」

「そのわがままは、聞き入れられぬ」


 間髪入れずに返ってきた皇子の答えに、アサギは苦笑する。腕の中から、夫の顔を見上げた。


「ご安心ください。アサギと鶯王は、いつの日か……またこの地に皇子様が帰って来られる日をずっとお待ち申し上げております。約束です」

「離れ難い……。離れたくないぞ」

「もう! 皇子様こそ、わがままを申されますな」

「分かっておる」


 分かっておるが……と口の中で呟き、皇子はアサギを抱き寄せたまま、片方の手で鶯王の頬を撫でる。鶯王は、少しだけ顔をしかめた。


「成長を見届けられぬのが、心残りぞ」

「ご安心ください。大事に、立派に育ててみせます」

「うむ。頼んだぞ」


 皇子は名残を惜しむように、再びアサギに口付ける。そして、とても寂しそうな笑みを浮かべたのだった。

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