第10話 溶け込む心

 アサギはどこという目的地もなく、トボトボと足を動かしていた。踏み出す足は重く、歩幅は小さい。擦れ違う人から声をかけられないことが、唯一の救いだった。

 話しかけられても、カラ元気で対応できる余裕も無かったのだ。

 頭の中では、母から投げかけられた言葉の数々が廻っていた。


(なによ。追い出すみたいに、帰りなさいって言わなくてもいいのに……)


 母から必要ないと拒絶されているようで、アサギの胸中には悲しみが去来する。涙までは出ないにしろ、気分が塞ぎ込むくらいには殺伐としていた。

 母には、アサギの気持ちが伝わらないのだろうか。

 ただ純粋に、母が心配なだけなのに。

 親の心配が子は分からないと言うけれど、親だって子が心配していることを理解していないじゃないか。

 理解してもらえないことは、悲しいし、寂しい。


(お母さんは、私と一緒に居たくないのかな)


 母の言うとおり、もう皇子の屋敷がある都に戻ったほうがいいのだろうか。

 でも、戻ってもやることがない。必要とされていない場所に留まることは、アサギにとって苦痛だった。存在意義が、そこにアサギが居る意味が無いのであれば、ただ虚しいと感じてしまう。


(でも、お母さんの心配も理解できないわけじゃないのよね……)


 噂好きの小母さん達が、離縁されたのではと口々に妄想を語り合っているのを知らないわけじゃない。

 アサギが姿を現せば噂話をやめてしまうし、直接尋ねられることもないから、わざわざ自分から弁解に行かなくてもと思ってしまうけれど……正直なところ、煩わしくて仕方がないのだ。

 都のことを尋ねられても、皇子の住まいのことを尋ねられても、も〜羨ましいわ〜というお決まりの台詞が返ってくるだけで、なんの実りもない。そういう羨望を受けて自尊心が満足する人なら、そんな会話も大歓迎なのかもしれないけれど……アサギは違う。どちらかと言えば、その手の会話は苦手だった。

 悶々と考え事をしながら足が向かった先は、大神岳(おおかみのたけ)に降った雨や雪が地面から湧き出して形成された泉。生活に必要な飲み水や料理の水は、みんなここから汲んでいた。

 ポコポコと湧き出す清らかな水は、とても冷たい。澄んだ泉を眺めていると、水の流れが見えてきた。

 うねるように伝わっていく水の動き。手で掬えば分離して、手の中からこぼれ落ちれば、また一体の水となる。


(水って……不思議だな)


 手を浸せば触れられるし、掬うこともできるのに、掴もうとすれば逃げていく。砂に似ているけれど、一粒から成る砂と違って、水の一粒は見えない。一滴はあっても、それは一粒じゃないのだ。


(今、水の一粒になりたいかも……)


 存在が分からないくらい、溶けてしまいたい。

 ヤマト族だのイヅモ族だの、そんなものとは関係なく、ただのアサギとして雑多の中に埋もれてしまいたかった。

 所属がなければ不安もあるし、心許なくなるだろう。けれど、諍いや揉め事に巻き込まれて不自由を感じるのであれば、不自由を感じないよう気ままに生きてみたらどうなるだろう。

 それは逃げなのか、新たな試みであるのか分からない。分からないけれど、囚われることなく生きていけたら、アサギの大半を占める寂しいという感情から解き放たれるのだろうか。

 きっとアサギは、大好きな母に依存しているんだ。

 親離れができず、甘えてしまう。母の優しさで、この寂しさを覆い隠し、紛らわせてほしいと。知らず頼ってしまうのだ。

 だからだろう。母から突き放されると、途端に足元が危うくなる。


(生まれ育ったこの里でも、私の存在意義は無いのかしら)


 寂しい。淋しい。さみしい。

 アサギの視界は歪み、ポタリと落ちた涙の滴(しずく)は泉と同化した。


(羨ましい……)


 個でなくなった涙に嫉妬してしまうくらいなのだから、相当に精神がまいっている。

 アサギは自嘲すると、寝転んで空を見上げた。

 高い空に、二羽の鳶が飛んでいる。

 バッサバッサと翼を駆使して、互いに攻撃し合っていた。

 どちらかが、どちらかの縄張りを侵したのかもしれない。


(鳥の世界でも縄張りを巡って争いが起こるのに、人の世で争いが無くなるわけがないか)


 争うことは、自然の摂理。世の理なのだろう。弱肉強食とは、よく言ったものだ。

 争いに勝っても、また次が来る。終わりが来るまで終わらない。そもそも、終わりは来るのだろうか。

 終わらないから、各地の諍いを平定するべく兵を率いて出向いて行く皇子の役割が無くならないのだ。


(あの人、無事かしら?)


 もう、何ヶ月も顔を見ていない。

 傷を負ってやしないだろうか。病にかかったりしていないだろうか。命が……あるだろうか。

 里に帰って来てからも、心配をしなかったわけじゃない。心の片隅には、いつも皇子が居た。

 気にかけていたという程度だけれど、ちゃんと気には留めていたのだ。

 曲がりなりにも、アサギの伴侶。大事にしなければならない夫なのだから。


(都からの知らせも無いし、変わりは無いんだろうな)


 便りがないことが息災な証拠と思っておこう。

 アサギは湧き水の泉に手を浸し、両手で掬うと顔を洗った。

 ヒンヤリと冷たい水が心地よい。サッパリとした気分になり、陰鬱な気分が少しだけ晴れたようだ。


(気枯れの禊は、効果ありね)


 もう一度水を掬って口を近づけると、喉を潤す。身の内を浄めるように、冷たさが喉を通って胃の腑に辿り着いた。


「見つけた」


 突然、背後から聞こえた男の声。

 驚きに声を上げようとするも、大きな体に抱きすくめられた。

 匂いと、この腕の感触には覚えがある。


「皇子様?」


 アサギが問うと抱擁が解かれ、夫の顔が目の前に現れた。


(あぁ、ちゃんと私は顔を覚えていた)


 長らく会っていないから、顔を忘れてしまっているのではと懸念していたけれど、杞憂だったみたいだ。


「皇子様……なぜ、ここに?」


 尋ねれば、皇子は怒ったように眉根を寄せる。


「なぜと聞くか。よし、答えてやろう。マツとチヨに案内させた。里の者達に、そなたの行方を聞き出してな」

「マツとチヨ?」


 首を伸ばして皇子の背後を見遣るも、幼馴染み二人の姿はない。気を利かせて、早々に去ってしまったのだろうか。


「あの……いえ、そうではなくて……なぜ妻木の里に?」


 尋ね直せば、むむむっと皇子は眉間のシワを深くする。


「不覚にも、妻が気がかりで仕事が手につかぬのだ!」


 それは、怒って言うことだろうか。

 アサギがキョトンとしていると、皇子は不貞腐れた子供のように口をへの字に曲げる。


「母君が危篤だという知らせは聞いた。帰って来ぬのも、まだ母君の体調が戻らぬからだろうと」


 でも……と、皇子はアサギの頬を包むように両手を添えた。アサギの額に自分の額を当て、深い溜め息を吐く。


「我は不安だったのだ。愛しいそなたが、このまま我の元へ帰って来ぬのではないかと……胸騒ぎが止まらなかった」

「そんな、大袈裟な……」


 あながち間違ってはいない皇子の胸騒ぎに、アサギは後ろめたさを抱きながらも苦笑いを浮かべた。

 皇子はアサギの額に軽く口付け、再び腕に抱く。アサギの頭に頬を擦り寄せ、安堵の息を漏らした。

 アサギは抗うでもなく、皇子のしたいようにさせている。意外と、抱きすくめるられるのも、額に口付けられるのも、嫌じゃない。素直に受け入れられている自分に、アサギ自身が驚いていた。

 皇子はアサギの耳元で囁く。


「都でなくとも仕事はできよう。だから、アサギの元へやって来た」


 皇子はアサギの瞳を真っ直ぐ見詰め、真面目な顔付きで告げた。


「我の帰る家は、そなたの居る場所だ」


 アサギの顔面が、にわかに熱を持つ。

 そんなことを言われては、ときめかないわけないじゃないか。


(どうしよう……嬉しい)


 アサギは自分の顔を押さえ、皇子の胸にボスッと顔を埋める。

 以前のアサギならば、なにそれ思い込み激しいんじゃない? とか思っていただろう。けれど、今は違った。皇子の言葉が、素直に胸に響く。

 意図せず、皇子と夫婦になったことで、アサギに新たな存在意義が備わっていた。それとも、新たに皇子へ依存してしまっているのだろうか。

 どちらにしろ、アサギの胸中を占めていた寂しさが、どんどん薄らいでいく。


(そうか。私には、この人が必要なんだ)


 ヤマト族やイヅモ族という所属は関係なく、アサギにとっては個としての皇子自身が必要なのだろう。アサギにとって、必要な魂の片割れ。


「皇子様」


 皇子の胸に顔を埋めたまま呼ぶと、心なしか緊張した声音で「なんだ?」と返ってくる。


「どうやら私……自分が認識していたよりも、皇子様のことが好きみたいです」

「なっ! えっ?」


 突然の告白を受けて動揺が激しい皇子がおかしくて、アサギはクスクスと笑う。


「皇子様。私の元へ来てくださり、ありがとうございます」


 顔を上げて微笑を浮かべると、すぐ目の前に赤くなっていく皇子の顔がある。

 アサギは薄く髭の生えている顎に指を添え、皇子の唇にそっと口付けた。

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