最終話 狂乱の神々(後編)


 空中浮遊呪文リトフェイトは本来、大の大人を空中に永遠に浮かせるだけの力は無い。罠におちそうな一瞬だけ、この呪文は時間を稼ぐ。

 だが、キリアの様な強力な魔術師が同時に九回まとめて唱えれば、遥かカント寺院の頂きから飛び降りた男一人ぐらいなら受け止められる。

 俺はほっとしながら大地に降り立った。目の前には黒い亀裂が口を開けている。これがキリアが言っていた『世界の亀裂』か。今はキリアの行ったなんらかの呪文で固定されている。

「この先に何があるかは判らん。だが、今、飛び込まなければ後は無い」

 全ての群衆に聞こえるようにキリアが叫んだ。

 キリアはそれから背後にそびえるスルトを指差した。

 すでに、ティルトウェイト呪文の最後のくだりに入っている。

「続け!」叫ぶなり、キリアが飛び込んだ。

 俺も慌てて飛び込んだ。


 暗黒、そして静寂。


 亀裂の中がどんな状態か俺は想像した。だが、こんな有様とはキリアでさえも想像しなかっただろう。

 簡単に言おう。館の中だ。


 大きな館の玄関の中に俺は立っていた。前でポカンと宙を見上げているのはキリアだ。

 背後の開いたドアからシオンと月影が滑べり込んで来た。

 今まで気付かなかったが、ドアの脇に立っていた奇妙な服を着た老齢の紳士がドアの向こうを覗き込んだ。つられて俺も覗き込む。

 ドアの向こうは先ほどまで俺たちがいたカント寺院の前の街路だ。

 無数の群衆が俺たちの方へ来ようとドアに殺到するが、開いたドアに足を踏み入れた瞬間に不思議な炎を上げて消えてしまう。

「影の存在の方々には、このドアは耐えられないのです。必要な魔法質量が足りませんので」

 ドア脇の男が静かに説明した。

 いきなりドアの向こうが真っ赤な光に包まれた、光は赤色から黄、白、青と変わり、最後は目もくらむ光の洪水へと変わった。

 バタン。重い音を立ててドアが閉められた。

「超高熱呪文ティルトウェイトですか。この有様では、もう入ってくる方はいませんね。ではこちらへ」

「マーニー!」キリアの叫びには血が混じっていた。

 俺の心を氷のようにその叫びが突き刺した。

 執事はキリアの叫びを遮った。

「マーニーアン様は一足先に御前様の前に連れて御座います。事情が事情ですので。失礼とは思いましたが」

「マーニーは生きてるのか? 一体、どうして?」呆然とキリアがつぶやく。

「門をくぐったからで御座いますよ。自ら行動するもののみが慈悲を受けるのです」

 そこまで説明してから執事は自分の勘違いに気づいた。

「あのお方は確かに影の存在ですが、すでに貴方と長きに渡ってつき合って来た結果、質量共鳴効果は一人立ちできるまで強まっております。

 では、こちらへ」

 余りの異常な状況にまだどうしたらいいか判らないまま、俺たちは館の廊下を抜けて奥へと案内された。

 開いたドアの奥には大きな部屋があった。

 壁一面に何かしら見たことのあるようなものが・・そうだ、これはキリアがマーニーアンと作っていた本と言うものだ。

 金色や赤の文字が、それらの本の背に見えた。

 なるほど、これならスクロールの類に比べて、沢山棚に押し込めるわけだ。俺は納得した。

 勿論、ここにあるような大量の本をどこかで調達できるとしたら、の話だが。

 部屋の向いにある大きな机の前にいるのは、片眼鏡をつけた男だ。

 痩せ身で鼻の下に左右に振り分けられた跳ね上がった髭が実に滑稽に見える。その脇のソファにはマーニーアンが座ってこちらを見ていた。

 無言でキリアはマーニーアンに近付くと抱き合った。

 俺はなんだか少しうらやましくなった。まあ、いいさ。俺には酒がある。

 酒が・・。

「座りなさい。今、酒でもお出ししよう」

 髭の男が言った。こいつが御前とやらか?

 まあ、悪い奴でもなさそうだ。初対面の人間に酒を出すとは。

 俺はソファに腰を降ろすと、待った。体重は爪先にかけて、いつでも剣を抜ける様にする。

 月影はもっと露骨だ。壁際に立ったままで、足の一方をソファの影の中に浸している。

 それに対して髭男はちょっと片方の眉を上げただけだ。

「まあ、いいでしょう。貴方たちが私を疑う気持ちは良く判ります。

 先に名乗って置きましょう。私はマーチャント。ここの管理者です」

 何だか怪しいぞ。何が怪しいって、その似合わぬ髭が怪しい。

 そんな俺の心情を見透かしたのか、髭男は指を一本立てた。部屋がぐうっと歪み、その指先へ向けて雪崩落ちた。

 ピン、と軽い音を立てて髭男が指を戻すと部屋は元の姿に戻った。

「お判り頂けたでしょうか?

 この部屋も館も全て私が作りだしています。

 ご理解頂けたら仕事の話に入りましょう」

「仕事?」俺たちの口から一斉に同じ言葉が飛び出た。

「さよう、仕事で」髭男は自分の曲った鼻髭の先をちょいと撫で付けた。

「ご理解頂けるように、ちょっと角度の違った質問をさせて頂きましょう。

 キリア・イブド・メソ。ウィズ大学の名誉顧問。

 あなた様の論文はいつも楽しく拝見させて頂いております」

「知っておるのか?」キリアの顔が喜びに歪む。ふむ。

「それはもう。この想像の暗黒空間で起こることは全て私の知らざる所は無しです。

 さて、魔術を引き起こす鍵となるのはなんでしょうね?」

「それは当然、空間に存在する基本法則じゃ。特に光速が不定であるという特性じゃ」

 いきなり難しい話が始まった。

 それを見越したかの様に執事が酒を積んだ盆を持って来て配ってくれる。

 積んだ?

 そう、執事が軽々と持ち運んでいる盆の上には飛んでもない量の酒ビンが載っている。

 俺たちについて良く知っているという言葉は嘘では無い。

 俺の咽が卑しげに鳴るのにも関わらず、髭男はキリアとの問答を続けた。

「ああ、そうでは無く、その根本法則を利用するに当っての必要なものです」

「それはやはり・・各個人の持つ生命力じゃ。命そのものに含まれる力。魂の持つ望みの力」

「そうです。魔法使いはその力を引き出して最初の根本法則への連結を行うことで、魔法を使います。これは神に祈るという形の僧侶でも実際には同じことです。程度の差こそあれ。これが基本です」

「そうじゃ」

「では、お尋ねしますが、もし、光の速度が常に一定の世界があったとしたら」

 キリアの顔色がやや悪くなった。

「大規模な反魔法場じゃな。一切の魔法が通用しない世界。以前、そんな世界に関する論文を書いた覚えが」

「拝見しました。あの論文には少し足りない所がありますね。こういうことです。もし、そんな世界が存在するとしたら、魔法に消費されなくなった各個人から溢れ出た生命力は一体どこに行くのか?」

 しばらくキリアは考えていた。

 マーニーアンは黙っている。彼女はすでに知っているようだ。

「もし・・」キリアが答えた。

「もし・・そんな世界があったら、洩れ出た生命力は世界の調和を崩す。だからその世界から弾き飛ばされて、どこかに溜るはずだ。どこか生命力の安定点へ」

「そう、それがここ。想像の暗黒界です。別名は混沌。そしてあなた方が後にしてきたウィザードリイ世界もまた、その暗黒界に生成された小宇宙なのです」髭男は頷いた。

「嘘だ!」キリアが叫んだ。「もし、人間から洩れ出る魔力だけであれだけの街を生成するとしたら、それが例え幻影にしても、ギルガメシュの酒場が十や二十ではたりん人数が必要だぞ」

「現在、その世界の人口は七十億とちょっとです」にべも無く、髭男は断言した。

「七・・十・・億?」キリアの目がこれ以上は無いと言うほど大きく開かれた。


 冷たく、すっきりとした酒を咽に流し込みながら、俺はキリアのそんな様を見物していた。

 難しい議論は俺の仕事じゃ無い。

 しかし・・七十億とかいう飛んでもない数の冒険者を収容できる酒場とは・・一体全体どんな酒場なんだろう?

 それにそこにはどんな酒を置いてあるのだろう?


「そう、お判りのように、これだけの魔力となると、ウィザードリイ世界だけでは消費しきれません。あなた方の住んでいたような世界は他に無数にあるのです」

 髭男が立ち上がると、皆の見ている中央に立ち、両手で何かを抱えるような動作をした。その腕の間にぽっかりと黒い球体が浮かぶ。

「その生命力の性質からして・・」髭男は続けた。「こうして生まれた想像界は、元々の人々の持つイメージの影響を強く受けます。その際たるものは宗教界です」

 髭男が黒い球体を回すと何かの映像が浮かんだ。

 織天使セラフィムの群だ。更に球体を回すと、悪魔の群や、全身に飾りをつけた牙の長い見たことの無い怪物などが映った。中には額に三つの眼を持つ奴までいる。

「こうした世界はそれぞれ独自の論理と存在意義を持って存続します。さて、あなた方の世界の元となったのはゲームです」

「ゲ、ゲーム?」キリアが球体に見とれたまま言った。

「そうです。ゲームです。コンピューターと言ってもお判りにはなりませんね。一種の物語と思って下さい。

 それが人々の間に流行し、多くの者がこの世界を夢見ました。それが想像界に作用し、あなた方の世界は生まれたのです」

 ここで男はウインクした。

「宗教界も実情は大して変わりません」

 髭男の手の中で球体が回る。

 漆黒の闇の中に岩が一かけら生まれる。それはぐんぐんと成長し、見覚えのある形になった。大地だ。リルガミンの街だ。いや・・トレボーの城か?

 その向こうに出来つつあるのは月だ。まだ半分しか出来ていない。

「このようにして出来上がった世界には当然ながら管理者が必要です。」

 髭男は更に球体を回した。

 生まれつつあるウィザードリイ世界に次々と神々とおぼしきものたちが流れ込んでくる。

 それらの間に派手な喧嘩、それとも戦争が巻き起こるのが見えた。

「すでに滅びた世界、落ち目になった世界を管理していた神々です。

 彼等は名前を変えて、仕事を引き継ぎます。彼等は生きるために人間の生命力を必要としますから。

 もっとも中にはオーディンのように自分を変えようとしない神もいます」

 髭男は苦笑した。

「でも、それなら何故、俺たちのウィザードリイ世界が滅びなければならないんだ?」とはシオンだ。

「人の心は虚ろい易いものです。

 ウィザードリイ世界の下敷きになっている元々の物語に、変更が行われたのです。

 そのため、あなた方の住んでいた世界は時代遅れへと変化しました。

 すでに人々の心は古きウィザードリイ世界を忘れつつあります。

 慰めになるかどうか判りませんが・・これはどの世界にも起こることなのです」

 髭男は頭を垂れた。

 傍らの球体の中の光景が変わった。スルトが大地を焼き滅ぼす様が映る。

「この世界は新しく作り直されるでしょう。破壊の後に。さて」

 パチンと指が鳴った。机の向こうで髭男が注目を引く。

 一体、この髭男はいつの間に机の向うに移動したのだろう?

「ご理解頂けた所で仕事に移りましょう。

 あなた方は実に興味深いことを成し遂げました。今まで滅んだ世界は数多いのですが、その中から脱出に成功したのはあなた方が初めてです。まさか、あの様な方法を実現するとは、この私でさえ予想もしませんでした。

 当方の計算では空間限界突破が間に合わずに全員焼け死ぬはずだったのですが。やはり最後のドーム氏の攻撃が効いたようですね。

 とにもかくにも、私を筆頭とする管理者たちは、あなた方に褒美を与えるべきだとの結論に達しました」

 髭男は手元の書類に目を落した。

「あなた方をお望みの世界に送ってさし上げましょう」

 マーニーアンが何かをキリアに耳打ちした。

 それを聞いてキリアが叫ぶ。

「わしは根源の神の世界に行くぞ」

「他の方々は?」

 キリアが行くと言うなら俺が行かないわけには行かないだろう。キリアだけじゃ心もとない。どうせキリアじいさんとは腐れ縁さ。とことん付き合うぜ。

 マーニーアンはキリアと一緒だろうか?

 たぶん、そうだろう。それならばなおさらだ。俺が彼女を守らなければ誰が守る?

「俺はキリアと行く」それが答えだ。唯一の。

「ドーム。お前との酒の勝負はついていない。俺も行くぞ」これはシオンだ。

「根源の神の世界。忍者の生まれ故郷だな」月影はつぶやいた。

 それを聞いて髭男が片方の眉を少し上げた。「確かに忍者がいますよ」

「では、俺もキリアと共に行こう」月影はためらわずに答えた。


 これで話は決った。


「ではそのように。できれば貴方たちをこのまま行かせたいのですが、その前に・・」

「!?」

 なんだ? 俺は剣を握り閉めた。

「根源の神々の世界は我々の想像界の根本となる世界です。

 そこに行くには各自特別な代償を払って貰わなくてはなりません。よろしいですか?」

「その代償を聞いてからだ」キリアがうめくように言った。

「慎重ですね。何、簡単なことです。

 皆さんがお持ちの物を一つ捨てて貰うだけで済みますから」

 髭男は机から書類を取り上げた。

「まず、カント寺院の僧侶マーニーアン。

 ええと、あなたはすでにハンデを背負っているので、代償は支払われたものとします。

 先ほどの話、忘れては行けませんよ」

 それに答えてマーニーアンが頷くのが見えた。何だろう、その話って?

「続いて、偉大なる我が尊敬する研究者である魔術師キリア。

 根源の世界に行くためにはあなたのもっとも大事な物を捨てねばなりません。お判りですね?」

 キリアは首を横に振った。「はっきり言ってくれ」

「はい。根源の神々の世界は、先ほど申しました、光の速さが一定の世界です。

 そこでは殆どの魔法が使えません。

 あなたはこれからの一生を反魔法場の中で暮らすことになるのです」

 キリアがよろめいた。これほどの代償を要求されるとは・・。

 魔術師のキリアから魔法を取り上げたら後に一体何が残る?

 そんなキリアの手を元気付けるように、マーニーアンが握った。振り向いたキリアがマーニーアンの瞳を覗き込む。確かに何かがその間を行き来したように俺は見えた。

 それからキリアはマーニーアンの目を見つめたまま言った。

「承知する。わしはその世界に行くぞ」

「結構です。偉大な決断に敬意を表します。

 では次に善なる慈悲の実践者、ロードのシオン。」

 髭男は次を読み上げた。

「代償を受取りますか?」

「受け取る? 支払うの間違いじゃ?」とシオン。

「いいえ、受け取る、です。

 根源の神々の世界に戻れば、程無くして、あなたは元の妻に出会うことになります」

「つ・・つま!?」シオンのでかい顎ががくんと下がった。

「妻です。あなたがそもそも根源の神々の世界を離れようと思い立った理由。

 貴方の酒好きに毎日絶え間無い小言を言い続けた妻です」

 俺たちは顔を見合わせた。

「では、わしらはもしや、元々、根源の神々の世界にいたと?」とキリア。

「マーニーアン様を除いてはそうです。元の世界から脱出したいと考える人々、どうしても世界に受け入れられないと考える人々、そういった人々がこの想像暗黒界へ攫われて、いや流されてくるのです」

 髭男は断言した。

「人がいなければ想像暗黒界はそもそも成立しません。神だけでは駄目なのです。丁度、バーテンだけの酒場が存在しないように、お客様が必要なのですよ」

 髭男は再びシオンに向き直った。

「さて、どうします?」

 シオンはしばらく考えていた。両腕を胸の前で組む。岩を連想させ、その実、岩よりも堅い奴の筋肉が両肩の辺りに盛り上がる。

 シオンはやっとつぶやいた。

「認めよう。どんな女か楽しみにしていよう」

「きっと、びっくりしますよ」

 髭男はシオンに向けて派手なウインクをすると、今度は月影に向った。

「さて、究極の忍者を目指してのあなたの涙ぐましい努力は良く存じています。忍者マスターの称号を受けるべきだと、かねがね私は思っていたのですけどね。

 あなたは非常に特殊なケースです。

 根源の神々の世界に行けば、あなたの分身である雪風氏たちとは二度と会えなくなります。今後も永遠に・・」

「彼等は・・あの世界に残ったのか? 死んだのか?」月影が尋ねた。

 雪風って誰だ、一体?

「いいえ、死んではいません。と言うよりは彼等の住むウィザードリイ世界とあなた方の住んでいたウィザードリイ世界は微妙に異なる位相に存在しているのです。

 今度のこの異変で多少は影響は受けますが今のところは無事です。

 さて、どうしますか?」

「認めよう。すでに奴らとの別れは済ませた。それにどうあろうと冥界は一つだ」

 あっさりと月影は答えた。

 うーん。何か俺の知らないところで、色々と話が進んでいそうだな。俺はそう思った。もっとも詮索する気はない。大事なことだと思ったなら、月影から話してくれるだろう。

 そうして最後に髭男は俺の方へ向いた。

「先ほどのスルトとの戦い、拝見致しました。素晴らしいの一言に尽きますね。これほどの戦士を世に送り出せるとは私も鼻が高い。

 さて、あなたを最後にしたのには訳があります。あなたの払う代償こそが一番大きいものなのですから」

「断る」俺は言った。

 髭男がばさりと書類を落した。

「私はまだ何も申し上げては」

「お前が何を言うかはわかる。だから俺は断る。この剣を」俺はオーディンブレードを頭上に掲げた。「捨てろと言うのだろう」

「その通りです」髭男は言った。

「貴方の剣はすでに多くの戦いを経て来て、意志を、それも強烈な意志を持ちつつあります。その剣を根源の神々の世界に持ち込めば、どれほどの惨事が巻き起こされるか、想像がつきますか?」

「断る。剣は俺の命、俺の魂だ。魂を失えば戦士は終りだ」

 俺はキリアたちから離れた。

「元のウィザードリイ世界に戻してくれ、スルトと最後の決着をつける」

「そうですか・・それならば仕方がありません」髭男は残念そうに言った。

「でも、いかに貴方でもスルトには勝てませんよ。あれは世界を破壊する神なのです。神ですらスルトには勝てません」

「わかっている」俺はそう言うとキリアたちに向き直った。

「じいさん。マーニーアン。シオン。それに月影。長い間、世話になった。あばよ」

「ドーム。わしらと共に行こう!」キリアが叫んだ。

「駄目だ。じいさん。俺は誓った。いつまでも、剣と一緒とな。

 あばよ。シオン。酒の勝負はお前の勝ちってことにしといてやる。

 月影。お前とはもっと話をしたかったよ」

 俺は剣を持ち直した。スルトに浴びせる一撃は奇襲で無いといけない。次の瞬間には俺は灰になってるだろうから。

「さあ、やってくれ。なるべくならスルトの鼻先にな」

「では・・」髭男が手を振り上げた。

 シオンが髭男を止めようと棍棒を掴んだ。月影が跳躍のためにわずかに前進する。キリアが腕を振り上げた。

 が・・そこで全員の動きが停止した。髭男。管理者の仕業だ。

「良いお仲間をお持ちですねえ。考え直しませんか?」

「くどい」俺はつぶやいた。「戦士には戦士の掟がある。それを捨てれば俺は戦士では無い」

 髭男が再び手を振り上げた。

 俺の目の前の空間に丸い穴が生まれどんどん大きくなっていった。

 その中に焼けただれた大地を枕にして、目をつぶって眠っているスルトの顔が見える。

 これならば奴が目覚める前に少なくとも二回は切り付けることが出来るだろう。たとえそれが蚤の一刺しにしてもだ。


『待て・・・』

 何かの声が部屋中に響いた。落ち着いた頼りがいのある声。

『私もまたあの世界から脱出した。私への報酬は無いのか?』


 これは・・・俺は驚いて剣を握りしめた。オーディンブレードの声だ。

 髭男が腕を降ろすと、空間に開いた穴が閉じて、スルトの顔がかき消えた。


「これはこれは・・そうか、あなたもそうだったのですね。いや、失礼。失念していました」

 髭男が机をかき回すと、引きだしの中から最後の一枚の書類を取り出した。

「ええと・・」


『私の欲しいものははっきりしている。この男からの解放を私は望む』


 なにい!

 俺は・・俺は・・一体どういうことだ?

 剣よ。俺を裏切るのか?


『遥か太古の昔から、剣は持主を裏切って来た。私はお前の誓いからの解放を望む。スルトに焼かれて消え果てるのはまっぴらだ』


 俺はうめいた・・これほどの裏切りに会うとは、俺が一体全体、何をした?


 髭男が手元の書類を改めた。額に皺を寄せる。

「これはこれは。これほど強烈な誓いで縛られていては、解放は非常に困難ですよ」


『だが、方法はある。やってくれ』剣の声が厳然と命令する。


 髭男は一礼した。「お望みとあれば」


 気がつくと、俺は闘技場に立っていた。

 闘技場だ。これは、月にあったあの闘技場をそっくりそのまま再現したものだ。そして俺の前には、俺の剣、オーディンブレードが直立していた。

 剣先を上にして、誰に支えられることも無く。

「オーディンブレード!」俺は叫んだ。

 どこからともなく、声が響いた。

「魂同士により誓われた誓いは、お互いの殺し合いによる死によってのみ解放される。相手を殺した者のみが、闘技場から出ることが出来る」

『そういうことだ』オーディンブレードが震える声で言った。

「止めろ。俺には出来ない」俺は剣を止めようとするかのように手を突き出した。

『だが、私には出来る』剣はそう声を響かせると、突っ込んで来た。

 真っ直ぐに俺の心臓目がけて。

 俺は横飛びにそれを避けた。予感に突き動かされて、地面に伏せる。戻って来たオーディンブレードの刃が俺の頭の毛の先を少し切って横殴りにかすめる。

 俺はそのまま横に転がった。

 瞬時に元の位置に戻っていたオーディンブレードが、先ほどまで俺のいた位置に突き刺さった。

 本気だ。本気で剣は俺を殺すつもりだ。

「止めろ。剣よ」俺は絶叫した。

『止めない。私はお前から解放されるのだ』

 剣先を地面から引き抜くと、オーディンブレードは俺の方へ向いた。

 止めなくては・・だが、どうすればいい?

 剣の切れ味は俺が一番良く知っている。生身の身体などやすやすと突き抜けてしまう魔剣なのだ。

 俺は覚悟を決めた。左手を突き出して身体の前に構える。右手は胸の前だ。

『私を如何にして止める? ドームよ? お前の身体を切断するのはた易いのだぞ』

 そう言うなり剣は再び突っ込んで来た。

 俺の突き出た左手に旋風と化したオーディンブレードが迫る。

 その瞬間、俺は左手を沈めた。

 剣がそれを追って下に下がる。これがこの剣の悪い癖だ。

 目先の獲物を追い過ぎるのだ。それは今までこれと決めた獲物を逃したことが無いせいでもあるのだが。

 オーディンブレードの青みがかった刃が俺の左腕の先をすっぱりと切り落した。

 灼熱、いや氷の一撃。

 その拍子に剣の先が再び地面に突っ込み、刺さった。

 今だ。

 俺は右手を延ばすと、剣が自由を取り戻す前にしっかりと握り込んだ。剣の柄、そこだけが弱点だ。

 オーディンブレードは俺の手の中で暴れたが、俺は剣を離さなかった。自分の左手からほとぼしる血など構ってはいられない。

 そのまま剣先を地面に押し付けて、横向きにした刃の半ばに足をかける。

 オーディンブレードは恐ろしく強靭な金属で作られている。しかし、どんな剣にもこういう弱い点がある。そして剣士はそれを良く知っている。

 相手に剣を折られないためにだ。まさか、自分の剣を押さえることになろうとは。

「このまま、体重をかければ、いかな魔剣と言えども折れるだろう。

 もう、止めろ。俺たちの誓いを取り戻そう」

 それに対する剣の答えは冷たかった。

『お前にはもう飽き飽きなのだよ。ドーム。私を折れ。もう終りにしよう』

「剣よ…」

『ドームよ。かってスーリがお前に向って来た時、私は彼女を傷つけずに止めることができた。だが、それなのに何故、彼女の心臓を切り裂いたと思う?』

 俺の身体が硬直した。

『お前の悲しむ顔が見たかったからだよ』

 何をしているのかわからないまま、俺の足には力が篭り、そうして俺は剣を折った。剣の声が途絶える。


 二つに折れた剣を手にして俺は泣いた。


 周囲の情景が変わった。元の部屋だ。

 髭男が俺の手から折れた剣を取り上げると、執事がうやうやしく捧げ持った盆の上に載せた。

 マーニーアンが駆け寄ると、足元に落ちたままの俺の左の手首を拾い上げ、元の位置にくっつけた。強力な治療呪文、それだけで腕は元のままだ。

 かっての戦神チュールの世界にもこんな呪文があれば、チュール神が主神の座を追われる事は無かっただろうに。

 ・・チュール神? 俺は一体、何を言っているのだろう?

「これで良いですね。全ての代償は支払われました」髭男が宣言した。

「待ってくれ」

 俺はそう言うと、執事の捧げ持つ盆の中のオーディンブレードの破片に触れた。

「剣よ・・」俺は小さくつぶやいた。


『これで良いのだ。ドームよ。

 私はかって別の神話世界で作られた魔法の道具から、再び打ち直された剣なのだ。

 私は呪われているのだ。端目には判らぬ、事象のより深い所で。

 私はお前にたびたび勝利を与えた。が、やがてはいつか、お前を殺す事になっていただろう。

 だからこそ、先ほどの戦いでお前が手を抜いていたら私はお前を殺していた。真に解放されたのは、私では無く、お前なのだ』


「だが、俺は自分の剣を折った。戦士の魂を失った」


『ドームよ。

 今、剣としての機能を失っているこの瞬間、私自身の魔力で、お前の知っていること忘れ去ったことを見ることが出来る。

 ドームよ。かってチュール神はお前に言った。

 「戦士は戦うことを持って魂とする」と。

 右腕を失っても、依然としてチュール神は戦士であった。

 ドームよ。お前は戦士だ。私がいなくても』


 誰かが俺の肩をそっと掴んだ。キリアたちが俺の周りに集まってきた。

 髭男が合図をすると、執事はオーディンブレードを捧げ持ったまま、退去した。


「あの・・あの剣はどうなるのだ?」

「打ちなおして、新しい剣にして、俺が持っていくのさ」

 声とともに背後からごつい手が伸びてきて、俺の髪を乱暴に掻き混ぜた。

「ぼうず。よく頑張ったな。お前たちの長い長い冒険はこれで終りだ」

 俺は振り返り、そこにお師匠様、ファイサルの姿を見た。ファイサルは以前の姿と変わらなかった。半分透明なこと以外は。

「剣は返してもらうぞ。元々俺のものだったしな」

「お師匠様!」

「気づかなかったか? 俺はずうっとお前の傍にいたんだよ」

「ファイサル!」キリアが叫んだ。「お主生きておったのか」

 少しだけ間を置いてキリアは続けた。

「いや、生きておるようには見えんな」

「その通りだ。キリア。俺は死んでいる。この世界も終りになったし、俺はまた別の世界に生まれ出るとするよ。剣と一緒にな。おっと。ついてくるなんて言うなよ。ぼうず。お前はもう一人前なんだ。お前にはお前の未来が待っている。俺には俺の未来がだ」

 ファイサルはもう一度、ドームの髪を掻きまわす。

「元気でな。ぼうず。縁があったら、また会おう」

 髭男は再び髭の先を撫でつけながら宣言した。

「さあ、そろそろ送り出しますよ。随分と時間を食った」




 風が吹いていた。砂を交えて。

 俺たちは大きなすり鉢状になった窪地に立っていた。あの髭男が送り込んだのがここだ。

 見渡す限り、窪地の中は乾いた砂・砂・砂・・。

 窪地の縁にほんの申し訳とばかりにひねくれた草がしがみついている。キリアが目を細めてそれを見つめる。

 それ以上どうしようも無く、俺たちはその窪地を登り始めた。


「すまん。ドーム。シオン。月影」キリアがつぶやいた。

「根源の神々の世界がこれほど荒れ果てているとは。

 わしはお前たちから全てを奪い去り、代わりにこんな荒れ地を」

「まだ、諦めるのは早いぜ、じいさん。この丘の向こうに何があるかは判らん」

 シオンが元気付ける。

 だが、シオンもまた自分の言葉を信じていない様子だった。


 俺は自分の剣のことを考えていた。

 剣は俺を解放するために憎まれ口を叩いて、俺に挑戦したのだ。

 剣が俺を愛したほど、俺は剣を愛したのだろうか?

 この荒れ果てた世界こそ、そんな俺に対する罰なのではあるまいか?

 それにファイサルのことも。

 ファイサルは死んでからずっと俺の傍にいたのだろうか?

 魂となって俺を見守っていた?

 それにスーリのことも。

 結局は世界丸ごとスルトに滅ぼされるならば、スーリの俺に対する復讐は何だったんだろう?

 このすべては、最初にキリアが虚空船を作って旅に出たときに決まっていたんだ。俺には止めることもできなかった。

 いや、本当にそうなのか?

 あの破壊神スルトは、実際には二つのものに縛られていた。一つは虚空に繋がれた魔法の鎖。もう一つは心の中に巣くう狂気。

 魔法の鎖を解いたのはキリアじいさんの虚空船に使われていた魔法のアイテムであるマーラーディアダムだ。じいさんが下手な探求心を出さなかったら、魔法の鎖はスルトを離しはしなかっただろう。

 狂気の方は何だ?

 狂気を司る神はどうしてスルトから手を引いたのだろう。スルトが狂ったままだったら魔法のアイテムを使うことはできなかっただろう。何だか俺は、それが俺のせいだという気がしてならない。狂ったような笑い声が耳から離れない。

 もしかしたら俺には何かできることがあったのではないか?

 どこまでも、疑問は尽きなかった。


 俺たちは重い沈黙と共に、窪地の縁を越えた。


 一転して眼下に広がる緑が見えた。

 丘は峰へと繋がり、見事な湖がその下に広がっている。

 その周りにあるぎざぎざの建物の群は・・。

「街だ!」シオンが叫びを上げると飛び上がった。

 キリアとマーニーアンの顔に笑みが広がった。

 月影が静かに頷いた。


 そして・・俺は・・涙が一滴自分の頬を流れるのが判った。

 剣が自らを折り、俺に与えてくれた世界。それならば俺は力一杯生きて行こうと。

 ・・呪縛は解けたのだ。


「なあ、キリア。俺たち、この世界でもやっていけるかなあ」俺は思わず尋ねて見た。

「じいさんは魔法を失った。そして俺は剣を失った」

 キリアじいさんは俺の顔を見つめると、ローブの下に手を入れ、金色に光る大きな塊を取り出した。

「金じゃ。ドーム。根源の神々の世界でも、これは価値があると聞いておる。

 シオンの担いでいるあの袋の中に一体何が入っておると思う?

 金もまた力の一つじゃ。わしの頭とマーニーアンの頭の中の知識もじゃ」

 それに・・とキリアは続けた。

「剣はまた手にいれれば良い。たとえ剣が無くてもお前は戦士じゃ。

 その鍛え抜かれた身体と死をも恐れぬ精神があれば、それ以上何を気にすることがある?」

「酒だ! 酒の匂いがする!」シオンが街に向けて走り出した。

 月影が周囲を睨みながらゆっくりと、シオンの後を追って丘を下りはじめた。

 俺はそれを見ながら、もう一度じいさんに聞いた。

「じいさん。あんたはこの世界で何をやるつもりだ?」

「ドームよ。聞くがいい。

 あの髭、いや、管理者はマーニーアンにこう言ったのじゃ。

 マーニーアンはまだ本物の人間では無いと。この世界のどこかに存在する根源の神、ウィザードリイ世界の創造者を捜し出せと。

 彼のみがマーニーアンの命運を決めることが出来る。

 ドーム。わしは根源の神々を見つけ出して見せるぞ」

 キリアは高らかに笑うとマーニーアンの手を取って走り出した。

「どんな手段を使ってもじゃ!」


 やれやれ・・まったく、じいさんと来たら・・。

 まあ、いいか。俺は風の匂いをかいだ。微かに酒の匂いがする。

 今までかいだことの無い匂い。だが・・確かに酒だ。


 旨い酒さえあれば、死神とでも握手して見せるぜ。

 俺は新しい街への最初の一歩を踏み出した。

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