第113話 二日目/湖の小島/君は俺の手を握り、笑って
郷塚賢人も、やっと小島に到着した。真ん中に大きな岩山がある小島だ。
タマキから遅れること、およそ二分ほどのことであった。
「ヘッヘ~! ケントしゃんに勝っちゃった、やったぜ!」
得意げにVサインをしてくるタマキに、ケントは深ぁ~く息をついた。
「待った。これはさすがに待ったです。お嬢!」
「え~、何でだよぉ~!?」
「泳いでないじゃないですか! 遠泳レースでしょ、これは!」
ケントとしては正論を言っているつもりだ。
泳ぎで負けたなら仕方ない。しかし水の上を走るのはさすがに、さすがに……。
「……なるほど、
アキラが言っていたことが、こうなってみると実感として理解できた。
何ならついでに、そこから芋蔓式にもう一つ思い出したことがある。
『ルールは簡単! この先、大体250mくらいのところにある小島、見えるか? 見えるな? アレだ、アレ。アレに最初に着いた人が勝ち! 以上!』
うわぁ、何てこったよ。
「……ちくしょう、あの野郎、『泳いで着いた人が勝ち』とは一言も言ってねぇ」
絶望感に手で顔を覆う。
しかも、事前に聞かされた上でケントも承諾したので、文句もつけにくい。
「ほらな、ほらな! オレの勝ちだろ、これ! な、ケントしゃん!」
どちらかというとアキラへの敗北感に打ちのめされるケントに、タマキが言う。
彼女はとても必死な様子で、ケントは指の隙間からその様子をチラリと見る。
「……勝ちにしてほしい?」
「してほしい! ――ダ、ダメかな?」
ほら~! すぐそうやって上目遣いしてくる~! しかも自覚なしに~!
「いや、いいっす。先に着いたのはお嬢だし、お嬢の勝ちで」
言いたいことは山ほどあったが、結局はこうなる。
自分は、この少女には絶対に勝てない。今はそれを痛感している。
「やった~! ケントしゃん、ありがと~う!」
「だぁぁぁぁからッ、抱きつくのはやめてくださいよぉ!?」
柔らかいし、いい匂いするしで、理性が。健全な中学生男子のなけなしの理性が!
「あ~、それで、俺は負けたワケですけど……?」
と、ケントはタマキに問う。
当然、自分に何をお願いするつもりなのか、という確認だ。
「うん、そ、それなんだけど……」
タマキは笑顔のままで、急に歯切れが悪くなり始める。
頬も赤いし、視線が微妙に泳いでるし、もう、ここまで来ると露骨に怪しいぞ。
そう思っていたケントだが、次のタマキの一言でそんな思いは消し飛ぶ。
「ケントしゃん、周り、誰もいないね……」
「あ」
気づいた。気づかされてしまった。
ここは、テントのある場所から250m程離れた小島。そこに今、二人きりだ。
「え、あ……、あ~……、そう、すねぇ……」
気づいた途端に意識してしまい、ケントは自分の顔が熱くなるのを自覚する。
まともにタマキの顔を見ることもできず、ああこれ、今のタマキと同じ状態だぁ。
「ケントしゃん」
「は、はいッ! 何でしょうか、お嬢!」
呼ばれ、ドキッとしながら背筋を正して直立不動。
タマキは一瞬驚いたように彼を見て、それからすぐにクスクス笑った。
その笑う様子が、本当に可愛らしく見える。ズルいと思った。
「ケントしゃん、手」
「手?」
言われるがまま、特に意識せず、右手を挙げる。
その手に、タマキは左手を重ねて、キュッと握り締めてきた。
「うぃ!?」
「来て、こっち。一緒についてきて。それが、オレのお願い」
ケントが面食らって硬直していると、タマキがつないだ手を引っ張ってくる。
笑顔の彼女に引っ張られて抗うことなどできようか。ケントは素直についていく。
すると、タマキは岩山の裏へと向かっているようだった。
一体、この先に何があるのか。ケントは不思議に思う。
そしてここで、エロ猿中学生脳が働き、二人きり、さらに奥へ、もしやこれはッ!
「え、え、お、お嬢……!?」
取り乱す。どうしようもなく取り乱す。
だけどタマキはいたずらっぽく笑うだけで、何も言おうとはしない。
やがて、岩山の裏手に回った二人の前に、ポッカリ口を空けた洞窟が姿を見せる。
オイオイ、絶対に誰にも見つからない場所じゃないか。これは、これはッ!
否応なしに盛り上がる、ケントの脳内。
そういうことなのか。つまりお嬢は、ここでひと夏の経験を? 俺を相手に!?
駆け巡る思考。早まる血流。心臓の高鳴りがどエライことになっている。
この場に橘颯々がいたならば、心底からイヤそうな表情を見せたことだろう。
あとついでに、この脳内は真理恵には見せられない。絶対に。
「こっち」
舌ったらずに言って、タマキはケントを洞窟の中へといざなう。
暗いと思われたその奥だったが、入ってみるとそこそこ広い上、明るかった。
「これ、上が吹き抜けになってるのか……」
見上げれば、岩山の天井はなくて、いびつな円形に切り抜かれた空がそこにある。
「そうだよ、それにほら、見てよ」
タマキは言って、空ではなく地面の方に目を向ける。
反射的にケントもそれを追いかけて、そして、大きく目を見開いた。
「うぉ……」
思わず、唸る。
そこにあったのは、小さな泉だった。
そこは浅く、泳げる大きさではない。しかし透明度が非常に高く、澄んでいる。
泉の底に、水が湧き出ているポイントがある。それがはっきり見て取れる。
だが、ケントが唸ったのはそこではない。
空から射す陽光を受けて、かすかに波立つ水面が、キラキラと輝いている。
泉の周りとそこは白い砂で、輝く泉を引き立たせていた。
目にすれば誰であろうと言葉を失うであろう、強烈なまでの天然の美。
どんな絵画も、この鮮烈な美しさには及ばない。中学生のケントでもそう感じた。
「綺麗だろ、ここ。前に見つけたんだ。オレ、前にもここに来たことあってさ」
「そう、なんですね……」
泉の美しさに目を奪われているケントは、そう返すのが精一杯だった。
「ここにしようって決めてたんだ。ここで言おう、って」
小さな、タマキの呟き。
ケントの心臓が、竦んだ。彼はタマキを見る。
「お嬢……?」
そこには、瞳を潤ませ、頬を朱に染めて彼を見つめる水着の少女がいる。
その顔は大層照れ臭そうで、でも、ほのかににじみ出る強い決意も感じとれる。
「覚えてる、ケントしゃん」
「な、何をです……?」
「あの雨の日、オレを助けてくれたこと」
その言葉一つで、ケントの脳裏に克明に蘇る、あの日の出来事。あの大雨の音。
「お嬢、まさか、覚えてるんですか……?」
「少しだけ、ほんの少しだけ、な」
タマキは人差し指と親指を使って『ちょびっと』と示してみせる。
「大半は覚えてないよ。覚えてるのは、雨の音と、ボロい家の中と、そこにいた同じくらいの小さい子と……、あとはケントしゃんに抱き上げられてる安心感だよ」
「安心感……」
あのとき、ドラガ達『人竜兄弟』はいつでも逃げられるよう準備を整えていた。
兄のドラゴには幼い娘がいて、タマキが言っているのはその子のことだろう。
その娘がどうなったかは、ケントは知らない。
これについては、おそらくはタマキも同じだろうと思う。
「オレね、ケントしゃんに抱えられて、本当に安心してたんだ。多分だけど、そのときのオレは『この人なら自分を守ってくれる』って確信してたんだと思う」
照れ顔で気恥ずかしげに話すタマキだが、ケントの内心はそれどころではない。
彼にとってのあの一件は、タマキを救った美談ではないく拉致を許した大失態だ。
「ケントしゃんはさ、あの『人竜兄弟』をケチョンケチョンにしてたよな。詳しくは覚えてないけど、でも、オレはすごく安心できたんだ。ケントしゃんが来てくれて」
「お嬢……」
心臓が、さっきとは別の意味で跳ねる。
タマキが彼に向けるまなざしには、今までよりも固く強い信頼が感じられた。
彼女は信じている。心から信じ切っている。
自分が、ケント・ラガルクが、何があってもタマキ・バーンズを守ってくれると。
だが違う。
それは、間違いだ。
あの雨の日の一件だって、タマキを守れなかったから、拉致された。
もうその時点で、ケントは彼女の信頼に応えきれていない。
なのに、タマキはそれに気づいていない。純粋に、そして盲目的な信頼のせいで。
「変な話だけど、オレ、あれでわかったんだ。『強い』っていうのがどういうことか。それがわかって、すごく強くなりたくなったんだよ。だから武闘家になった」
「な、何ですか、それ……」
完全に初耳だった。
自分の死後、タマキが武闘家になったのは知っていたが、まさか、そんな理由で。
「エヘヘ、ちょっと強くなりたすぎて、結局、
「え、ぇ……?」
結婚、しなかった。それもまた初耳で、しかもかなり衝撃的な事実だ。
そんなことはないと思いたいが、今のはどう聞いても自分がきっかけではないか。
アキラが『重い』と評した、タマキが生涯未婚だった理由。
その一端を知り、ケントは混乱する。目の前の少女の想いに呆然となるしかない。
違う。それは違う。
自分という存在には、そこまで想われるだけの価値などない。
ケントの中で、燻り続けていた黒い熱が今こそ再燃する。
それは瞬く間に心の中を燃え広がって、彼の意識を激しく焼き侵していく。
だがそれに気づかないまま、タマキは語り続ける。
無邪気に、ケントへと全幅の信頼を置いたまま。語り続ける。
「ケントしゃんはきっと、これからもオレを守ってくれる。オレはそれを知ってる。もちろん、オレだって守られるばっかりじゃないよ。オレ、強くなったんだ。ケントしゃんほどじゃないけど……。でも、だからオレも、ケントしゃんを守るよ!」
「…………」
ハキハキと、目の前の少女が恥ずかしげにしながらも元気に喋っている。
その大きな瞳に映る自分の顔を、もう、ケントはまともに見ることができない。
「だから、さ、その、ね? ……えっと、オレ、これからもずっとケントしゃんの隣にいたいんだよ。ケントしゃんに、守ってほしいって、お、思ってるんだ」
言いにくそうに頬を掻き、少女はケントにそう告げてくる。
それを自分に言うこと自体、嬉しいのだろう。顔はずっと笑顔のままだ。
だが違う。違う。違う。その想いは、違う。
キラキラとした光を宿す少女の瞳とは反対に、彼の心が黒いものに覆われていく。
それは、焼き尽くされた心の残骸。炭か。灰か。どちらも大した差はないが。
意を決したようにうなずいて、タマキが拳を握る。
そして彼女は、最も大事な一言を、今こそ彼に告げようとした。
「だからケントしゃん、オ、オレ、ケントしゃんのことが好――」
「違うッ!」
それを潰したのは、ケントの悲鳴だった。
「ぇ……」
タマキの顔から、表情が消える。
丸くなったその瞳に映り込むケントの顔は苦しみに歪みきっていた。
「違う、違うッ! 違う――、お、俺は……、俺はッ!」
「ケ、ケント、しゃん……?」
膝を折り、歯を剥き出しにして頭を抱えるケントを、少女は呆け、見下ろす。
決壊したものが、彼の心を飲み込んで荒れ狂った。思考が全然働かない。
「――ほぉ、これは面白い」
これまで、清々しさしかなかった光射す泉に、不快な風が流れ込んでくる。
いつからそこにいたのか、初老の男性が洞窟の中に姿を現した。
「あ、あんた……?」
ケントには、その人物に見覚えがあった。
キャンプ場の管理人で、ドラガに代わりテントを運んでくれた橋村という男だ。
「フッ、フフ、機を窺っていれば、何とも面白い場面に出くわしたものだ」
「あんた、何を言って……、ッ!?」
意味がわからず問おうとするケントは、だがハッと息を飲む。
橋村の額には、人間にはあり得ない、反り返った二本の角が伸びていた。
「……おまえ、ドラゴ・ゼルケル!?」
ドラゴ・ゼルケルこと
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