第109話 初日/温泉/水着があるからこそ許される温泉の話:後
ケントが気絶していた時間は、ほんの一分もなかった。
気がつけば、彼はどこかに寝させられていた。
「……ぅ――」
意識がほんのり目覚め、耳に音が入るようになる。
すると聞こえるのは、一緒に風呂に入っている二人の声。
「なぁ、なぁ、大丈夫か? ケントしゃん、大丈夫……?」
タマキは、不安に声が震えていた。
いや、これは怖がっている声だ。何てことだと、ケントは驚いた。
自分が彼女を怖がらせてしまうなんて……。
「大丈夫、すぐに目を覚ますわよ。だからそんな泣きそうな顔をしないの」
次いで、真理恵の声が耳に届く。
ああ、こちらはしっかりしている。しっかりと環も気遣っている。
自分を信じてくれている。それだけでなんて心強い。
――とはいえ、このまま寝ていても二人に心配させるだけ。
「う……」
小さく呻き、ケントはゆっくりまぶたを開ける。
起きて、自分が大丈夫なことをちゃんと伝えないといけない。そう思っていた。
「ケントしゃん!」
「賢人君!」
「ぅ、あ、二人とも、す、すいませ――」
ケントの声が途中で止まる。
目を開けたら、視界の左右を二人の顔が占めていた。
右側には、菅谷真理恵。
左側には、タマキ・バーンズ。
どっちも風呂から出てケントを介抱していたらしく、間近で顔を覗き込んでいる。
近いよ、近い。すごく近い。二人の吐息を鼻先に感じられるくらいに、近い。
「え、あ、う、お……?」
眼前にある天国の如き光景に、ケントは日本語を忘れた。
「ケントしゃん!」
タマキが嬉しそうに笑うが、その瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。
それを見た瞬間、ケントの脳内に嵐が吹き荒れた。自殺願望を確かに自覚した。
お、お嬢を泣かせちまったァァァァァァァァ――――ッ!?
罪悪感と罪悪感と罪悪感が徒党を組んで押し寄せてくる。これは勝てない。
「賢人君、大丈夫? 痛むところはない? まずは深呼吸をして、ゆっくりよ」
一方で、真理恵はまだ安心していないようだった。
真剣な面持ちでこっちを見て、指示をくれようとしている。安心できる。
ああ、楽な気分になれる。
真理恵に従い、身を委ねることで、こんなにも気分は穏やかになっていく。
「ぁ~、大丈夫です。はい、深呼吸ですね、わかりました……」
眼福すぎる光景は心臓に悪いので一度目を閉じて、ケントは深呼吸を繰り返す。
風呂から出てまだ熱が残る体が、少し落ち着いた気がした。
「ケントしゃん……」
「いや、すいません。お嬢。もう大丈夫ですから」
「ホント?」
タマキは、まだ泣きそうな顔のままだ。
それがまだケントの心に罪悪感の刃を突き立てて、息が一瞬詰まりそうになる。
「マジで大丈夫っす。せっかくのお風呂なのに、お騒がせしました」
努めて平静を装いつつ、ケントはタマキの頭を撫でた。
すると、彼女の表情はパッと明るくなって「うん!」と元気よくうなずく。
「よかった~! ケントしゃ~ん!」
そして抱きつかれた。
「うぉっほ!?」
ケントが、のどの奥から変な声を漏らす。
当然の話だが、今、二人は水着姿であって、ケントなどは上半身裸だ。
だから、よりダイレクトに伝わってしまった。
タマキの、その大きな胸の感触が。
瞬間、またしても脳髄が沸騰し、ケントの意識は昇天してしまう。
「あ、あれ、ケントしゃん? ケントしゃん!?」
ぐったりするケントに幾度も呼びかけ、タマキがさらに強く抱きしめた。
つまり、タマキのおっぱいがもっと強く押しつけられるということだ。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~……」
お年頃の中坊にとって、これはもはや拷問だ。幸福という名のオーバーキルだ。
「何してるの、環さん!? 彼、のぼせて倒れたところなのよ!」
違うんです、違うんです。
のぼせたワケじゃないんです。確かに血圧は急上昇しましたけど違うんです。
そう釈明したいところではあったが、いかんせん体が動かない。
いや、具体的に述べると、少しでも長くこの感触を感じたいので動きたくない。
どれだけダメージを受けようと、こういうところは健全な青少年のケントだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
タマキがションボリしてしまった。
そんな彼女を、真理恵が腕組みしてジト~っとねめつけている。
「あの、菅谷さん、もうそのくらいに……」
「いいえ、ダメよ賢人君。環さんはメンタルが鋼よ。叩けるときに叩かないと」
何とか真理恵を止めたいケントだが、不本意ながら同意せざるを得なかった。
「うぅ~、オ、オレェ~……」
「環さん」
「ひぅ……ッ」
真理恵に名を呼ばれ、タマキがビクリとする。
二度目のケントの失神は、半分意識が残っていたが、傍目にはわかりようもない。
タマキも、二度目は自分が原因と理解しているようで、しおらしくなっている。
だが、真理恵はそんなタマキを前にしても、怒りを緩めようとはしない。
「わかってるの、環さん。賢人君は目が覚めたからよかったけど、もしかしたら危険な状態かもしれなかったのよ? そこに、抱きついてショックを与えるなんて……」
「ううう、ごめんなしゃい……」
いつものタマキを考えれば、本当に信じがたいほどに大人しくなっている。
ただ、ケントとしても別に怒っているワケではない。
むしろ、こんな風にうなだれるタマキはあまり見たくないのが本音だ。
だが、真理恵が厳しい態度で臨んでいる。
それはケントを心配してのことなのだろう。
真理恵の気遣いと怒りが嬉しく感じられもするため、賢人も強く出られない。
「ねぇ、環さん。あなたが賢人君のお友達なのはわかるわ。仲がいいことももう十分に伝わってるわよ。でもね、賢人君はまだ中学生なの。それはわからない?」
「……わかる」
唇を尖らせ半べそをかいている状態だが、ケントのこととなるとタマキは素直だ。
こんな状況、ケントこそ申し訳なくなる。彼は真理恵におずおずと声をかける。
「あの、菅谷さん、俺はもう本当に大丈夫ですから……」
「賢人君」
名を呼ばれ、真理恵に真っすぐ見つめられてしまう。ドキリと胸が跳ねた。
「あなたが優しいのは知ってるわ。でもね、そういう性格だから環さんに強く出ることができないのは、違うわ。それじゃあ、今みたいにあなたが辛い目に遭うわよ?」
「うぐ……」
自分が辛い目に遭うのは別にいい。そこはどうでもいい。
だが、タマキに強く出られない部分を指摘されると、ケントも言い返せなくなる。
「大体、何で賢人君の方が気を遣っているの? 年上は環さんなんだから、環さんが賢人君の面倒を見てあげるのが筋なんじゃないかしら。って、私は思うけど……」
「それについては、本当に何と言えばいいのやら」
菅谷真理恵には『出戻り』については口外しないこと。
それは、アキラから通達されたことだ。タマキですらしっかりと守っている。
「環さん、あのね」
「な、何だよぅ……」
「お願いだから、もう少し賢人君に優しくしてあげて。この子は、守られる側なの」
言われた瞬間に、ケントの胸の奥がズキリと痛んだ。
やっと収まりかけていた黒い熱が、少しだけ大きさを増したように感じた。
だが、それを知る由もなく、真理恵は言葉を続けていく。
「賢人君はね、ご家庭の事情もあって甘えられる相手がいないの。あなたが彼のお友達だっていうのなら、その辺りをもう少し考えてあげてくれないかしら。私も至らない部分がったら言ってほしいわ。私だって、賢人君には安心していてほしいもの」
真理恵の、落ち着いた声音での、配慮に溢れた説得。
それはケントに黒い熱を思い出させたが、同時に感動も呼び起こすものだった。
菅谷真理恵は正義の人だ。
ケントは、それを改めて思い出した。そして、尊敬の念を新たにする。
だが、言われたタマキは――、
「何それ、ヤダよ」
全否定であった。
「え……」
これには、真理恵も絶句する。
だが、それまでシュンとなっていたタマキは態度を一変させて、口を開く。
「何だよそれ、ふざけんなよ。菅谷真理恵! おまえ、ケントしゃんを弱いヤツみたいに言うな! ケントしゃんはスゴいんだぞ! オレなんかよりずっとずっと、スゴくて強いんだ! そんな、弱虫みたいな言い方するな! 失礼なんだよ、おまえ!」
「環さん……」
真理恵は言葉を失っていた。ケントも何も言えなかった。
これまで、はしゃいで暴れることはあっても、決してネガティブな感情は見せてこなかったタマキの、突然の激昂。それを前に、二人は揃って固まるしかなかった。
「ケントしゃんは今は年下だけど、でも、でも――、オレを守ってくれるんだ!」
怒っていたタマキだが、その言葉だけは、本当に嬉しそうな笑顔で。
だけど、その笑顔にケントの胸はまた痛みを増す。何でだよ、と、自分でも思う。
「賢人君が、環さんを守る? 逆、じゃなくて?」
「そうだよ! ケントしゃんがオレを守ってくれるの! だろ、ケントしゃん?」
「え、そ、そうなの、賢人君……?」
満面笑顔のタマキと戸惑いを浮かべた真理恵が、ケントのことを見る。
一体、この状況で何と答えろと言うのか。もう何度目かもわからない窮地だった。
「お、俺は……」
追い詰められて、小さく呻く。何と答えるのが正解なのか。
真理恵の言い分に乗って、タマキの言葉にかぶりを振るべきなのか。
それとも、タマキの言い分にうなずいて、真理恵に強がって見せるべきなのか。
わからない。どうにも、判断できない。
あまりに色々ありすぎたせいで、頭の中は真っ白で、何だかムズムズもして――、
「…………ッッくしょん!」
くしゃみが出てしまった。
それを見た真理恵がハッとして、
「いけない、長く外に出過ぎていたわね。話はあとにして、お風呂に入りましょ」
「う~、そうする~、すっかり冷えちゃったぜ。夏でも風はちめた~い」
辺りはすっかり夜。
気温はそこそこあるけれど、そこに風が加わればやはり体は冷える。
三人は、体が冷め切る前に改めて露天風呂に使った。
冷えかけた体に、熱が染みていく。心地よくてケントは「はぁ」と息をついた。
そこにタマキが近寄ってきた。
ちょっとうなだれて、元気なさげである。
「あの、ケントしゃん……」
「お嬢?」
「ごめんね、オレ、調子に乗って、ケントしゃんに……」
ここでちゃんと反省できるのが、タマキ・バーンズのいいところでもあった。
ケントは彼女に笑いかけて、軽く頭を撫でた。
「大丈夫っすよ、あのくらい。どってことないっすから」
「本当? 本当に大丈夫?」
撫でられたタマキは、だがまだ不安そうに上目遣いで彼を見ている。
それが「うっわ、可愛いッ!」なケントだが、さすがにそれは表に出せない。
「マジっす、マジ。だからそんな顔せんでくださいよ」
「……うん!」
言われたタマキはまた笑顔になって、大きくうなずいた。
「やっぱりケントしゃんだね、ケントしゃんはスゴくて、強いんだ!」
「いや、俺はそんなスゴくねぇし、強くもないっすよ」
それは、タマキには謙遜にしか聞こえなかっただろう。
だがその言葉は、今のケントにとっては、ただの本音でしかなかった。
――黒い熱が、彼の胸をジリジリと焦がし続けていた。
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