第57話 わたしに、光をくれた人だから

 広い部屋の中を、大きなくらげが漂っている。

 ゆらゆらと、ゆらゆらと。


 透き通った体の中には、虹色の光が輝いている。

 キラキラと、キラキラと。


「殺す。絶対に、殺すわ」


 くらげを従えている主は、迸る激情のままに、目の前の叔母へ言葉を叩きつける。

 強く見開かれた瞳に燃え滾るのは、言葉よりなお明確な殺意の炎。


「ま、待って、美芙柚ちゃん、一体……!」

「お嬢さん、いけません」


 前に出ようとする佐村夢莉を、高市が引き留める。


「あの子は本気です」

「ば、馬鹿なことを言わないで、高市! 美芙柚ちゃんが私を殺す? そんなこと、言うはずがないわ。あの勲兄さんの娘なのよ。そんな暴力的なはずがない!」


 んん?

 取り乱す夢莉の言葉に、俺は引っかかるものを感じた。

 それは、俺達と彼女の間にある決定的にして致命的な齟齬のように思えた。だが、


「ガタガタうるせぇのよ、佐村夢莉! あんたは、ドロッドロに溶かしてやるわ!」


 ブチギレたミフユちゃんが、先に襲いかかってしまった。ま、いいか。

 ミフユの異面体スキュラであるNULLが、毒の詰まった触手を伸ばす。


 常人であれば、触れたらアウト。

 一発で全身を毒に冒され、即死コース待ったなし。ではあるが――、


「させん」


 高市が前に出る。

 そして、伸びくる何本もの触手を、その手と足ですべて弾いていく。

 触手の先端に当たらないよう、場所を選んで打ち払ってるのか、こいつ!


「クッ、このデカブツ! 邪魔するんじゃないわよ!」

「邪魔はする。仕事だ」

「うるせぇわよ! だったらあんたも死になさ――」


 高市の姿が、フッと消えた。


「え」


 一瞬呆気にとられるミフユの背後に、その巨体が影と共に現れる。速い!?


「しばし、眠らせる」


 ミフユが振り返るよりも早く、高市がその首筋に手刀を打ち込もうとする。

 俺はマガツラを呼び出そうとするが、これは、間に合わないか。


「アッハハァ~! オレも混ぜてくれよ~ぅ!」


 だがそこに弾んだ笑い声と共に、バカ娘がリングイ~ン!

 ミフユと高市の間に割って入ったタマキが、すげぇ楽しそうに殴りかかっていく。


「貴様、タマキ・バーンズ!」

「あ、オレのこと知ってるの? って、あー! おまえケンゴか! ケンゴだろ!」


 高市の素性に気づいたらしいタマキが、満面の笑みで大声をあげる。

 ケンゴ、という名前には俺も聞き覚えがあった。


「ケンゴ……、ケンゴ・ガイアルド! 異世界で『岩にして草』と呼ばれた、東から流れてきたっていう、凄腕の忍者か! だから俺でも気配が読めなかったのか!」

「アハハハッ! 久しぶりだなぁ、おまえとは決着つけられてなかったからいい機会だ、今この場で決着つけようぜ、ケンゴッ! ポコポコに勝負だァ!」


 何故そこで擬音だけが可愛いのか。


「だが断る」

「あれ?」


 ケンゴはタマキの誘いに乗ることなく、すぐさま退いて夢莉の前に戻った。


「何だよケンゴ、せっかくの再会なんだから、決着つけようよ~!」

「断る」


 ブーブー言うタマキに、だがケンゴはにべもない。

 そりゃあ、ボディーガードなら、まずは雇い主を守るのが第一だろう。


「そこをどきなさいよ、デカブツ。あんたも溶かすわよ」

「やってみろ」


 脅すミフユに、ケンゴは臆することなく立ち塞がる。

 その傍らの空間が歪み始めている。あっちも異面体を呼び出すつもりか。


「ま、待って!」


 そこで、夢莉が声を震わせて制止をかけてくる。


「お願いだから、待って、美芙柚ちゃん! 何、これは一体、何なの!?」


 夢莉は、混乱しているようだった。

 ま、彼女は『出戻り』ではない普通の人間だ。異面体を見て驚かないワケがない。


 そして、夢莉はまだ状況が呑み込めていないのもわかった。

 今のミフユが、そんな求めに応じると思っている時点で、何もわかってねぇ。


「うるさいわね。今から死ぬあんたが、それを知ってどうするのよ」

「み、美芙柚ちゃん……」


 夢莉は愕然となる。予想だにしていなかった、というツラだ。


「お嬢さんはやらせん」


 ケンゴが、異面体を出現させる。

 それは、空間の歪みがそのまま人の形を取ったような、奇妙な姿をしていた。


「高市、あなたまで!? そ、それは何なの!」

「お下がりください、お嬢さん」


 混乱度合いを増す夢莉に、ケンゴはあくまで冷静だ。


「タマキ、あいつの異面体の能力は?」

「え~、それ教えちゃったら……」


 タマキが不服そうに唇を尖らせるが、俺が一瞥すると「わかったよう」と応じる。


「あれは大透影オオトカゲ。能力は、自身と本体を透明化することだよ」

「なるほどね、実に忍者らしい能力だ。そして――」


 俺も、マガツラを具象化させてケンゴを睨み据えた。


「おまえはもう、俺には勝てないぜ、ケンゴ・ガイアルド」

「何……?」

「ホントだぜ、ケンゴ。親父殿の異面体は、そういう性質なんだよ」


 タマキはバーンズ家最強だ。

 だが俺は、そのタマキに今まで一度も、負けたことがない。


絶対超越オーバードライブ。相手の能力さえ知れれば、それを必ず超越する」

「貴様、アキラ・バーンズか!」


 今さら気づいたところで、もう遅い。


「詰みだ、ケンゴ・ガイアルド。おまえも、佐村夢莉も」

「……クソ」


 それまで無表情を貫いていたケンゴの顔が、そのとき初めて歪んだ。

 しかしミフユはそれに反応をせず、夢莉のことを射貫かんばかりに睨んでいる。


「殺してやるわ、佐村夢莉」


 ミフユが、一歩近づく。

 凄まじい殺気だ。近くにいる俺ですら、肌に冷たさを覚えるほどに。

 一般人の夢莉は、ヘビに睨まれたカエルになるしかないだろう。そう思ったが、


「待って!」


 夢莉は、この期に及んで美芙柚に事情を尋ねようとしてくる。


「どういうことなの、美芙柚ちゃん。いいえ、あなたは本当に美芙柚ちゃんなの? 私の知っているあの子は、礼儀正しくて頭がよくて、素直な子だったのに……」

「何も言わずに大人に従うのが素直っていうなら、そうなんでしょうね」


 ミフユは、夢莉の言葉にますます顔を怒気に染め上げる。

 俺も、夢莉に向かって言いたいことができてしまった。


「夢莉さんさぁ、あんた、言ってることがおかしいぜ」

「な、私の何が……!?」


「だってあんたさ、ミフユのこと、全然見てねぇじゃん」

「え……」


「今のミフユはおかしい。こんな子じゃないはずだ。昔の従順で素直だった美芙柚こそ正しい。今のミフユは美芙柚には見えない。昔の美芙柚こそが正しい姿だ、って。さっきからあんたを見てると、そんな風にしか言ってないように思えるんだがな」

「だって、そうじゃない! 美芙柚ちゃんは、佐村美芙柚なのよ! この子はこんな殺伐とした子じゃなかった。もっとお淑やかな、あの佐村勲の娘なのよ!?」


 ああ、そういうことか。『あの』か。そうかそうか。

 俺達と佐村夢莉との間にある決定的な齟齬を、このとき、俺は理解した。


「ミフユ」

「…………」


 ミフユは無言だった。


「少しだけ、俺に預けてくれないか?」

「…………」


 ミフユは無言だった。


「ありがと。ごめんな」

「…………」


 ミフユは無言だった。だが、俺達は通じ合えていた。

 俺は改めて、ミフユの隣に立って、佐村夢莉へと目を向ける。


「夢莉さん、ちょっと教えてくれないか」

「な、何を……」


「あんたの中の佐村勲は、一体どんな人間なんだ」

「勲、兄さん……?」


 夢莉は俺の質問の意図を計りかねているようだった。

 しかし、しばしして、小さい声でだが佐村勲について語り始める。


「勲兄さんは、私の、自慢の兄よ。勤勉で、努力家で、実直な性格で人当たりもよくて、才覚にも恵まれていて、およそ欠点なんか見当たらない、本当に完璧な人。あの人を夫にできた美遥さんが、羨ましくて仕方がなかったわ。娘の美芙柚ちゃんも可愛らしくて頭のいい子に育って、親子三人でとても幸せそうで――」

「わかった、もういい」


 まだ語りそうだったところを、俺は止めに入る。これで明らかになった。


「夢莉さん、あんた、佐村勲の本性が何も見えてなかったんだなぁ」

「え、ほ、本性……?」


 狼狽する夢莉から、俺はミフユの方へと視線を移す。


「あんたが幸せそうだと言ってた佐村家は、ミフユにとっちゃ、地獄だったんだぜ」

「…………は?」


 夢莉が、口をポカンと開けて押し黙ったままのミフユを見た。


「え、そ、そんな美芙柚ちゃん……? あなたの家族が、地獄? 何それどういう……。いえ、いえ、違う。そうじゃないわ。そうじゃないのね。美芙柚ちゃん」


 にわかに、その声に力を込めて、夢莉がミフユに問いを投げる。


「――勲兄さんは、?」


 俺は、少し驚いた。

 佐村夢莉、思っていたよりも頭の回転が速いし、思考も柔軟だ。

 てっきり勲を神格化して盲信してるタイプかと思っていたが、違ったようだ。


「大人の男が子供の女にする一番ゲスな行為を想像すればいいわ」


 そして、ミフユの返答がこれ。

 冷淡に過ぎる、感情など一切乗っていない声での回答に、夢莉は言葉を失った。


「それって、性……、そんな、嘘。そんなの……」

「夢莉さん、そいつは酷な反応だぜ。あんたは今、『美芙柚の言っていることは正しくない。勲がそんなことをするはずがない。美芙柚は嘘をついている』って言おうとしてるんだぜ、わかってるかい。被害者に向ける言葉としちゃ、あまりに残酷だろ」

「被害者……」


 夢莉の頬を、汗が伝い落ちていく。

 彼女の中の価値観は、今、激しく揺らいでいるようだった。


「わたしのNULLを見なさい、佐村夢莉」


 ミフユが言って自分の異面体を指さす。

 広い部屋の中を、大きなくらげが漂っている。

 ゆらゆらと、ゆらゆらと。


 透き通った体の中には、虹色の光が輝いている。

 キラキラと、キラキラと。


「あれは異面体スキュラ。わたしの中の心の一部が、形になったもの。あれが司るものは私の中の『自由と不自由』。わたしは、自由が欲しかった。だから色を失って、形を失って、誰も触ることができない自分になろうとしたのよ。そうすれば誰もわたしを縛ることはできなくなる。そう思ったから。NULLはその残滓」


 ミフユの言葉を聞きながら、俺は娼婦時代のこいつを思い返す。

 心の形を自在に変質・変形させて、どんな男にも対応した『聖女にして悪女』。

 だがそれは、男性不信と現実逃避を突き詰めた末に得た、最終手段だった。


「色を失うことで、わたしはわたしでなくなりかけた。全部、原因は佐村勲。あの男が、わたしに『オンナ』であることを強いてきたから、わたしはそれから逃げるために、色と形を投げ捨てた。でも、そんなわたしに新しく色を塗ってくれた人がいた」


 ミフユが、俺の手をギュッと握ってきた。俺も、その手を握り返した。


「わたしのNULLの中に灯る光は、アキラがくれたもの。あの光がある限り、わたしの色が薄くても、わたしはわたしでいられる。光があれば、輪郭はわかるから」


 徐々に、徐々に、ミフユから勢いが失せていく。代わりに声が、震えて、濡れて。


「アキラは、わたしに光をくれた人なの。彼と別れろというなら、わたしは戦うわ。そんなこと言うヤツ、百人でも、千人でも、一万人でも一億人でも、殺して、殺して、殺し尽くして、世界を滅ぼしてでも、わたしはアキラを選び取る……!」

「もういい、ミフユ。もういいから」


 うなだれて泣くミフユを、俺は抱きしめる。

 そして、震えているミフユを自分の胸で支えながら、俺は再び夢莉を見る。


「どうなんだ、夢莉さん」

「え……」

「あんたはまだ、佐村勲が正しいと言うつもりか。今のミフユは、おかしいと」


 俺は、刃物の冷たさと鋭さをもって、佐村夢莉に問う。

 すると夢莉はその場にがっくりと膝をついて、俺達へただ一言だけ零す。


「――ごめんなさい」

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