第17話 お向かいさんちのひなたちゃん
一年くらい前、だったなぁ。
二月頭の、特に寒い時期。まだ『僕』だった俺は、家から追い出された。
特に何かしたワケじゃなかった。
ただ、あの豚がそうしたい気分になったから、俺は部屋に入れてもらえなかった。
しかもシャツと半ズボンなんていう恰好のままで。
二月の寒風は、まだ六歳だった俺を容赦なく蝕んだ。
ただでさえ、ほとんどモノを食わせてもらえてなかった俺は、やせ衰えていた。
そんな体力もない状態で、防寒具もなしに外に出されればどうなるか。
子供は風の子っつったって、幾らなんでも限度がある。
吹く風にたちまち体温を奪われ、俺は激しく震えた。
唇は色味を失い、震えが過ぎて視界も揺らぐほどだった。
ひもじい、ってのはまさにああいった状態のことをいうのだろう。
玄関を何度叩いても、豚の調子に乗った笑い声が聞こえるだけ。
部屋に入れてもらえず、本格的に手足がかじかんできた俺は、外を彷徨い始めた。
最寄りのコンビニまでは、歩いて十五分。
そこまでの道など当時はまだ知らず、知っていたとしても子供には絶望的な距離。
俺はアパートの周りを歩いて、外にいる人に助けてもらおうと思った。
そのときに出会ったのが、買い物帰りの二人の主婦。
近くに明確な『死』を感じとっていた俺には、彼女達はまさに救い主に見えた。
俺は見るからに金のかかっている服装の主婦達に、体を引きずり近づいた。
「……た、助けて」
俺は、片方の主婦に手を伸ばし、縋りつこうとした。
必死だった。
この機会を逃せば、自分は本当に凍え死ぬ。切実にそう感じた。だが、
「何よこのガキ、汚いわね!」
着ているコートを触ろうとした俺を、その主婦はそう言って突き飛ばした。
道路に倒れた俺を見下ろし、もう片方の主婦も虫でも見るような顔つきをする。
「きったな……、乞食なら他でやってよね。行きましょ」
「冗談じゃないわよ。このコート、幾らしたと思ってんのよ、全く」
「そんなことより寒いわね、早く戻りましょう」
「あ、うちに寄ってって。この前で、通販でいい茶葉を買ったのよ~」
道路に転がったまま、呆然となる俺の前で、二人はアパート前の家に入った。
その家は、風見家。そして俺を突き飛ばした主婦は、風見祥子。
その後、俺は豚の気まぐれで何とか部屋に入れてもらえた。
だがそのときにはもう、主婦達の顔は俺の脳裏にしっかりと焼き付けられていた。
――恨みって感情は、多分、一番抱くのが簡単で、捨てるのが難しい感情だ。
一度抱いてしまったら、もうダメだ。
捨てようとしてもしつこくしがみついてくる。病んだメンヘラ女みたいに。
筋違いなのかもしれない。
元凶はあの豚で、この主婦達はただ通りすがっただけかもしれない。
だが、俺は助けを求め、主婦達はそれを拒み、見捨てた。
それは確かに起きた出来事だ。そして、それでもう十分すぎるのだ。
俺はこのとき、恨みを抱いた。
風見祥子と、もう一人の主婦に。軽く、小さく、だが確固たる恨みを。
金鐘崎アキラは、抱いた恨みを忘れない。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
大股に、そして早足で、俺は二人に近づいていった。
「こぉんなところでなにしてるんですかぁ、ねぇ!」
思い切り声を張り上げる。
すると、互いに引っ張り合っていた母娘が、揃ってこっちを見た。
「……?」
祥子が、怪訝そうな顔をして俺を見る。
その、あからさまな『あんた誰?』という表情から、俺を忘れてるのが窺える。
「風見さんちのママとひなたちゃんですよね! 僕です、金鐘崎アキラです!」
名乗っても、やはり祥子の反応は鈍い。
だが、俺はそもそもこいつに話しかけちゃいない。
自ら名乗ることで、俺がここに介入することを知らせたいのは、娘の方だ。
「助けて! 助けてぇ!」
狙い通り、ひなたは俺を見て泣き喚いた。
そうだよなぁ、ひなたちゃんは今、とっても怖いよなぁ。
どこかの誰かも知らないお兄ちゃんでも、助けを求めたいよなぁ。
助けが欲しいひなたと、この場に割り込みたい俺。
互いの利害はここに一致して、俺は込み上げる笑みを抑えつつ祥子の方を見る。
「おばちゃん、何してるんですかぁ! ひなたちゃん、嫌がってますよぉ!?」
「う、うるさいわね、他人の家のことにクビ突っ込んでこないでよ!」
俺が叫ぶと、露骨に焦り出す祥子。
その視線がせわしなく周りを見回している。誰かを警戒してるのか。
「このガキの親はどこよ! ガキを放置して、親は何やってるのよ!?」
お袋ですか、お袋ならあっちの壁の陰に隠れてますよ。
完ッ全に風景の一部と化して我関せずを決め込んでますよ、あのアマ。
「おばちゃん、何してるんですか! ひなたちゃん泣いてて可哀相ですよー!」
「ッ、うるさい、ガキ! 私はこの子の母親なのよ!」
「やだァ、ママ、やだの! 助けて、パパァ!」
ああ、なるほど。祥子が警戒してるのはひなたの父親か。
こいつにとってのタイムリミットは、父親がここに来るまで、ってことね。
「おばちゃん、ひなたちゃんを離して! 女の子を泣かすのは悪いことです!」
「うるさいって言ってるでしょ、このガキッ!」
祥子が、空いてる方の手で肩にかけてたバッグを振り回してくる。
だが俺はそれをヒョイと避け、そこからわざと当たったフリをして転ぶ。
「痛ッ!?」
そしてこれみよがしに悲鳴をあげる。
すると、祥子が俺を見てニヤリと勝利の笑みを浮かべるが、それは悪手っすよ。
「痛ァァァァァァいィィィィィィィィ! なんでぶつのォォォォォォォォッ!」
おまえは俺をガキと
「な、何よ、いきなり! やめなさいよ!?」
突如ギャン泣きする俺に、祥子が激しく取り乱す。
昼下がりの住宅街に、けたたましく響く俺のわざとらしい泣き声。
ほ~れほ~れ、どうするよ、風見さんチの奥さんよ?
俺ちゃん、一度行動し始めたら恥とか、外聞とか幾らでも投げ捨てられる人種よ?
「泣きやみなさいよ、うるさいのよ! いい加減にしないと、カレにチクるわよ!」
……カレ?
その一言で、何となく風見家の事情の一端が垣間見えた気がした。
ま、関係ないけどね。俺はこのままウソ泣き続行よ。
十秒以上も大声で騒いでいると、徐々に周りから人の動く気配がしてくる。
そろそろ、どこかの家から様子を見に来る人が出てくるかも。
「くっ、ちょ……!」
祥子もそろそろヤバイと思い始めたか、俺ではなく周りを見る。
そこに、彼が颯爽と駆けつけてくる。
「ひなた!」
「お父さァん!」
ひなたを探していたと思しき風見家の旦那さんだ。
うぉぉ、スッゲェイケメン。走ってるだけなのにすでにそれがサマになってる。
「クソッ!」
「祥子、またおまえは!」
汚く毒づく祥子とひなたの間に割って入り、旦那さんが妻をきつく睨みつける。
「ひなたに何の用だ! 俺達の件はすでに決着したはずだろう!」
「うるさいわね、離婚も親権も、私は何一つとして納得しちゃいないのよ!」
「それで、ひなたを連れていこうとしたのか、おまえは!」
「連れていく? バカ言わないで。ひなたが行きたいって言ったのよ、ねぇ?」
いけしゃあしゃあと言って、祥子が娘に視線で圧をかける。
「いや、無理矢理だろ、誰がどう見ても」
だがそこに、俺が華麗に介入だ!
「この、ガキッ!?」
祥子が一見整ったその顔を醜く歪ませる。フヘヘヘヘ、いいツラだァ。
「き、君は……?」
「おにいちゃん、ひなたを助けてくれたの!」
突然の闖入者に戸惑う旦那さんの方に、その背に隠れたひなたが説明をする。
「そうなのか、それは、助かったよ……」
「違うわよ、ふざけないで! この子がひなたをいじめてたのよ!」
追い詰められた証拠が、支離滅裂なことを言い出す。
しかし、そこにさらに俺バリに華麗に介入してくる人物が登場した。
「い、いえ。あの、そちらの奥様がお嬢さんを無理矢理強引に連れてこうと……」
「あんた誰よ!!?」
ウチのお袋です!
このアマ、形勢が固まったとみるや、さりげなく参加してきやがった。
その、率先して長いものに巻かれていく姿勢は大したモンだよ。
人間としては見下げ果てた行動だけどな。
だが、ここでお袋という証人の登場はなかなかデカい。
旦那さんが、祥子に対する目つきをさらに厳しいものにする。
「祥子、やっぱりおまえは……」
「……う、うるさい!」
もはやこれまでと判断したようで、祥子は踵を返して逃げ出した。
「ひなたは諦めないからね、覚えてなさいよ!」
ぐっほ。
ヤベェぞ、捨て台詞がとんだド三流だ! や~い、三流、ド三流~!
祥子が逃げたのち、ようやく他の家から住民が顔を出す。
いや、遅ェよ、おまえら。閉じこもりすぎだよ。亀か何かかよ。
「ありがとう、おにいちゃん!」
ぺこりと俺に頭を下げてくるひなた。
ほほぉ、小さい割にしっかり教育が行き届いてるじゃねぇか。いい子だな。
「とりあえず、ここでは人の目もあるので、自分の家に来てください」
旦那さんがそう言って、ひなたと手を繋いで自宅の方に歩き出す。
お袋は俺に視線を送ってくるが、まぁ、行くしかないだろ。
風見祥子の情報をゲットする、またとないチャンスだからな。
あの女を地獄に墜とす。そのために、情報は幾らでも欲しいところだ。
「――それにしても『ひなた』、ねぇ」
父親に手を引かれて歩くあの幼子の背中を、俺はしばし見つめる。
あの子の名前、異世界の俺の末っ子と同じなんだよなぁ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます