Blessed.

まんごーぷりん(旧:まご)

第1話 Stubborn

※注意※

第1話には以下の表現があります。

・女性特有の体調や心理状態の変化に関する描写

・道徳心のかけらもない発言、下品なネタ(軽微)

・嘔吐(詳しい描写はしておりません。)

苦手な方はご注意ください。






 幼子おさなごを目にしたときに感じた愛おしさ――それは私にとって最も忌むべき感情であった。





 姉が無事に出産を終えたのが今年の春で、私たち夫婦を新築のマイホームに招待してくれたのはひぐらしの鳴き始めるころだった。子どもの成長というものはとても早く、生まれたての頃、病院で見たときには真っ赤で得体の知れない生物といった印象すら与えた甥は、今では寝返りを打ち、首も座り、こちらの行動を窺い、あやしてあげればよく笑う、正真正銘の人間の子になっていた。


裕也ゆうやくんは、おねえ達に似て賢い子に育ちそう。なんだか私たちがしゃべっている事を既に理解している気がする」

「褒めすぎだって。親以上に親バカ発動してどうするの」


 姉はそう言って笑ったけれど、実際、裕也――それが甥の名前である――は、赤ん坊の割にこちらの言動に対する反応が大きく、将来はきっと利発な子どもに成長するに違いない、といった気持ちにさせる。彼を産んだ姉自身、幼い頃から優秀な人間だった。成績は良く、学生時代は生徒会長に選ばれたこともある。優秀な大学を卒業し、大手企業に就職した彼女は、学生時代から付き合っていた彼氏と結婚をし、この度健康な男の子を出産したというわけだ。順風満帆な人生。そんな姉を妬むだなんてとんでもない、私は彼女を誇りに思っている。人生の目標としつつも、彼女には敵わないということは分かっているし、それはそれで良いと本当に、心の底から思っている。


実桜香みおかも抱っこしてみる?」


 姉に問われ、私は首を横にふる。


「責任取れない」

「大丈夫よ、あんた小さい頃、春斗はるとをよく抱いてたじゃない」


 春斗、というのは私たち姉妹のさらに下に居る弟の名である。姉の柑奈かんな、私・実桜香、そして弟の春斗は三きょうだい。そこそこ仲良くやっている、と思う。私と柑奈は一歳差の年子姉妹で、私と春斗の間は三つ離れている。


「……ごめん、本当に無理だって」

「代わりといっては何ですが、僕が抱っこしてもいいですか?」


 一緒に来ていた私の夫の提案にぎょっとし、私は彼に目配せをした。やめときなよ、怪我でもさせたらどうするの。ただでさえ――そんな私のメッセージに気づく由もなく、夫は人の良い笑みを浮かべ、赤ん坊の機嫌を取る。


「ええ、ぜひ」


 おそらく、私が壊した和やかな雰囲気を取り戻したくて、夫はそのような提案をしたのだろう。姉もどこかしらほっとした様子で、裕也を夫に手渡した。

 夫の顔を見るや否や、裕也は大きな泣き声をあげた。夫は決して強面だという訳ではないし、その抱き方を見るに、痛い想いをさせたわけではなさそうだ。それは単純に、幼子特有の人見知りがそうさせただけの事であって、夫に非はない。腹が減ったから泣く、おしめが濡れたから泣く、それと大差ない。


「おお、よしよし。怖かったね、ごめんね」


 姉は夫から素早く裕也を取り戻すと、自らの手で彼を優しく揺する。――その瞬間、彼女が私の夫に向けた視線が針のようであったのが印象に残っている。私の大切な息子をよくも泣かせてくれたわね、みたいな。ごめんねぇ、と、理不尽で愛しい生き物に謝る夫を後目に、私はため息をつく。






「実桜香も、子ども欲しいなって思ったりしないの?」


 あれからしばらくし、裕也は眠りにつき、別室では私たち大人の静かな歓談タイムが訪れた。私は姉とともに食卓を挟んで取り留めのない会話を交わし、私の夫と姉の夫は、キッチンにてご馳走の準備に取り掛かっているようだ。


「うーん、裕也くんは可愛いけれどねぇ。……仕事もあるし」

「仕事は、私だってしてたよ。実桜香の会社も、産休育休制度は整ってるんでしょう? 何も気にすることないじゃないの。ねえ実桜香、やっぱり、自分の子どもって、違うよ」


 姉はそう言って得意げに私を見る。ああ、この人もこうなってしまうのか、と私は落胆した。


「産んでみないと分からないんだから。仕事なんかよりずっと大事なことだし、早く考えなきゃだめよ。……ほら、女性の身体にはやっぱり期限があるわけだし、ね」

「そうねえ」

「ママだって喜ぶと思うよ? 実桜香が子どもできたって言ったら」


 ママを喜ばせるために裕也くんを産んだの? なんて訊いたら、姉はどんな顔をするだろうか。ベビーモニターから、小さな泣き声が聞こえる。姉が自分の夫に向かって顎で指示を送り、彼ははいはいはいはい、と返事をし、タオルで手をぬぐいながら別室へと駆けていく。


「旦那も最近、ようやく使えるようになったって感じ」


 私の自慢の姉は一体どこに行ってしまったのだろう。






 その日の帰り道、夫はふと口を開いた。


「実桜香って、子どもが苦手だったんだね」


 少し考えた末、私はそうね、と肯定した。本当はそんなことはない。裕也は素直に可愛いと思うし、なんならその辺の道端でわんわん泣いている小さい子だって、そこそこ愛らしいと思う。そんな幼子にうるさいと舌打ちをする輩なんて殴り飛ばしたいくらいに憎く感じてしまうくらいには、小さな子どもは宝だと思っている。小学生時代は下級生の面倒をよく見ていたため、「さすが、弟くんがいるだけのことはあるね」と大人からよく褒められていた。認めたくないが、私には母性がないわけではなさそうだ――そしてこれはおかしな話ではあるが、いっそ周囲からは子ども嫌いだと勘違いされた方がまだ都合が良い事情が私にはある。

 そもそも夫とは、子どもを設けないという約束のもと結婚した。理由はあまり深く問われなかったし、彼もそこまで自分の血を分けた子孫を残すことに執着がなかったようで、交渉はすんなりと進み、昨年、入籍に至った。夫は幸い次男坊だったのもあり、義実家からの子どもを産めという圧もないまま、私はふたりでの生活を歩み続けようとしている。


「……裕也くんに、めっちゃ泣かれてたね」


 私はおどけて夫にそう言った。夫はまいっちゃったなあと頭を掻いた。――裕也の愛らしさに触発されたりはしないかしら。私はかつての約束を反故にされる恐怖におびえている。






 その晩、珍しく実家から電話がかかってきた。


「実桜香ちゃん、今日は柑奈ちゃんの家に遊びに行ったんだってね?」

「うん。裕也くんもちょっと大きくなってたよ」


 母だった。


「そうよねえ。ママもこないだ遊びに行ってね。……もう柑奈ちゃんも立派なお母さんって感じで、感動しちゃった」


 そうね、と返した。姉は、「立派な母親」になっていた。結婚するまで――いや、産前まではいつも理性的で、どんな困難があろうと穏やかな微笑みを浮かべていた姉。大人びていて、凛とした彼女の姿は今やどこにもなく、ただ一人の生き物のために自分のすべてを捧げ、彼の気に入らないすべてのものを悪とみなし、常に牙をむく準備をしているように思えた。


「別人かと思っちゃった」


 これは半分嫌みだ。母に言っても仕方がないが。


「そうねえ、やっぱり子どもの一人や二人産まなきゃ、女って成長しないもの。……それにやっぱり、男の子でしょう? 特別に可愛いのよ」


 成長、なのだろうか。あれが。電話越しに首を傾げたところで、相手にその表情が伝わることはない。子どものいない娘に向かって、「子どもを産まなければ成長できない」、「息子というものは特別に可愛い」と言い放つ母の無神経さは、これまた仕方ないものとあきらめている。母は相当無神経だが、思いやりのない人間ではないと思っている。裏表が少なく(少なすぎるのが問題なのである)、話しやすい。母が更年期を終えた今、私と彼女の関係は平穏無事である。

 十年ほど前だっただろうか。私が中高生だったその頃は本当に辟易していた。母の無神経さがどうしても気になった私と、とにかく感情論でヒステリックに私を叱りつける母は、本当に相性が悪いと信じて疑わなかった。その頃は姉がしょっちゅう親子喧嘩の仲裁に入ってくれたものだが、そのときにこっそりと言われた言葉が強く印象に残っている。


「ごめんね、実桜香。……ママは更年期だから、我慢してあげてよ。とにかくイライラして仕方がないんだって。実桜香も思春期だし、腹が立つのは分かるけれど」


 姉の言い方に問題があったわけではないのだが、そのセリフに妙な気色悪さを感じたのだった。更年期だから。思春期だから。苛立ちやすい時期だから、仕方がないんだって? 私はこんなにも理詰めで母の発言の理不尽さや弟への極度のえこひいきに怒っているというのに、そういうのは全部ホルモンのせいだっていうの? 可愛い可愛い一人息子の春斗のためなら、私や姉に平気でそのしわ寄せを作るこの母と私が、同等だっていうの? と。

 それからというもの、私は常に自分の体調や機嫌に振り回されないよう、目一杯神経を使って生きてきた。母みたいに恥ずかしい人間にはならないと誓い(その反抗心すら、思春期特有の症状だったのだと後から気づき、死ぬほど恥ずかしくなったりもした)、女性特有の体調変化にも絶対に負けないという強い信念を持った。理性で本能を抑え込む毎日。理由もなく他人の美術作品を台無しにして回りたいと感じた日も、「教室の窓から笑いながら飛び降りたらクラスメイトはどんな反応をするだろうか」という妄想がやめられない日も、行き場のない苛立ちや理不尽な願望を悟られてはいけない。それは私にとって、人前で用をたすのと同等に恥ずかしいことのように思えたのだ。イライラした様子を捉えられ、「生理中?」なんて訊かれるようなことがあろうものなら、その場で首を切って死ぬ、とすら思っていた。

 大学生になりバイトができるようになってからは、ピルに頼るようになった。初めて処方された際に「女性ホルモンに精神を引きずり回されたくないので」と申し出たところ、医師が電子カルテに「PMSの緩和」と記入したのを見て、ひとつ勉強になったと感じたのを覚えている。

 そして、私が子をすことを極端に避けたいと思う理由はそこにあった。もう十年以上も培ってきた価値観だ。ホルモンに脳味噌を動かされるなんて馬鹿なことがあってはいけない。毎月の生理ですらこんなにも面倒なのに、妊娠や出産なんてその最たるものではないか。ましてや息子なんて産まれて、息子が幼稚園の徒競走で負かされた相手の親御さんをシカトするようなモンペにでもなってしまったらどうしよう。それは私にとって、人間としての尊厳を、今までの努力を踏みにじる行為。家族や社会からの要請、甥っ子を見るだけで嫌でも溢れ出す母性、そして周囲の同世代の女性からの哀れみの視線とこれを天秤にかけてもなお、私は今の生活を選んだのだ。





 居酒屋のお手洗いでポーチを取り出しておしろいをはたき、リップを直す。結婚・出産ラッシュでなかなか集まることのできなかった学生時代の友人たちの間で久々に飲み会が開かれたのだった。


「おつかれー」


 疲れてもいないだろうに、紅潮した頬をした友人が私の横に並ぶ。


「お疲れ様」

「ねえ、実桜香。あんたももう、結婚して一年でしょう? 旦那とのアレはどうなのよ」


 学生時代から変わらず下品なノリの友人の下ネタ絡みを、私は笑って受け流す。友人の名は清美きよみと言い、彼女は独身であった。


「ほら、明子も夏美も、赤ちゃん産まれたばかりだからって、来なかったじゃん。付き合い悪すぎ、子どもなんて旦那に任せればいいのに」

「忙しいころだから、仕方がないよ」

「ちょうど一緒くらいに結婚したあんたも育児だなんだって言いながら来ないんじゃないかなって。ほら、あんたってば良妻賢母ってイメージじゃん? そしたらさ、子どもいないってんだからびっくりしちゃった。何? 仕事が忙しいわけ」

「来ちゃダメだった?」

「……」


 思わず口をついて出たイヤミに、清美は反応を示さなかった。彼女の視線の先は、私のポーチの中身だった――

 しまったと思い、ファスナーを閉じたが遅かった。私の心の支えとなっているピルのパッケージは、清美の目に触れてしまったようだ。紛失防止のために、そして一日一回、思い出したときにちゃんと服用できるように、いつも肌身離さず持っているポーチに入れていたのはやはりまずかったか。しかし、良妻賢母が聞いて呆れる。私が作り上げた「理性的で落ち着いた私」は、「理想の母親像」にぴったりだというのはなんとも皮肉な話である。


「ねえ、あんたそんなもん飲んでるの」

「えっと」

「何? 旦那以外に相手でもいるの」

「そんなわけないじゃない! 不倫は不法行為よ、そんな馬鹿なことしない」


 清美は焦る私を挑戦的に眺めた。旦那以外との子どもができないように服用しているのと勘違いしたのか。そうだとしたら、清美っていい歳をして無知なんだな、と感じた。


「浮気も不倫も悪いことだと思わないけれど? 人間だって動物よ、倫理がどうとか、道徳がどうとかの前に、好きになってしまったらしょうがないじゃない」


 的外れで、私の置かれた状況になんの関係もない言説をわめく清美に飲みすぎだよと愛想笑いを返し、背を向けた。


「実桜香のさ。理性とか、法律とか、倫理とかそういう堅苦しいのが正義だっていうの、私めっちゃ嫌いなんだよね」


 そう言い放つと、清美は唐突に口元を手で押さえ、慌てて個室に駆け込む。嘔吐の音を振り払い、酔っぱらいの友人を見捨てて私は席に戻った。

 別に、私と異なる価値観を持つ人間がこの世にいることには何の違和感も抱かない。分かっているから。私はやはりどこか異常だ。女性ホルモンの変動を避けることを第一目標に人生設計をするヤツなんてそうそういない。それでももう、仕方がない。これは私が私だけに課したルール。他人もそうあるべきだなんて絶対に思わないし、私が忌み嫌う、理性をなくした女の姿は、次世代を養い育むための尊いものだということは理解しているつもりだ。ただ、自分のルールを破ってしまえば私は私を許せない。呼吸をすることができなくなってしまうのだ――




『Stubborn』――Fin.

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