ドクターTの証明 インタビュー・ウィズ・T
改淀川大新(旧筆名: 淀川 大 )
第1話
1
大きな雫が落ちた。
薄闇の中で打音が続いている。不規則なリズムのその音は鈍く、響かない。そして耳障りだった。その不快をなだめるように、古い時計が規則正しい間隔で音を鳴らす。だが、それにより却って打音の不規則さが明白になった。シンクの上では水道の蛇口が薄く光を返している。蛇口から染み出た水はそこに掴まったまま膨らむと、時には惰弱に呆気なく、時には粘り強く重力に耐えて限界を待ち、落下した。自然の法則に従って直下し、底のステンレスを打つ。中途半端な高さの鈍い音を鳴らして星散した水滴たちは僅かな空気の振動にも耐えられない程に弱く、小さく、美しい粒となって、シンクの内壁にしがみついた。それらが蒸発して消えてしまうまで、あと僅かである。残された時間を計るように、古い時計の秒針が厳酷に「時」を刻んでいく。
粒は、ただ消えるのを待つしかなかった。
店の中は日中にもかかわらず暗い。風に軋む入り口の引き戸が、磨りガラスに格子の影を浮かべている。そこから微かに伝わる光を、内側に掛けられた濃紺の暖簾が更に半減させていた。引き戸の左右にある壁の窓はビールの宣伝用ポスターで塞がれている。天井から吊るされた丸いLED電灯も全て消されていた。
店内を奥へと延びるカウンターの中程に小柄な人影がぼんやりと浮かんでいた。春物のジャケットを着た若い女がカウンター席に腰掛けている。その女の他には誰も居ない。壁際のテーブル席にも人は座っていなかった。彼女の周囲だけが薄い光で仄かに照らされている。カウンターの中のシンクの上に、水道の蛇口から水滴が落ちた。少し間を空けて、次の一滴がシンクを鳴らす。女はその不規則な音を聞きながら、ホログラフィー画像を見つめていた。画像の光が彼女の薄いメイクの顔を照らしている。最新の光学技術により空中に浮かべられた文書画像には、縦書きで小さな活字が並んでいた。その下の平たい機械の手前には、機械から投影されたキーボードの像が浮かんでいる。女はその上で両手の指を動かしていた。
丸い電灯が暖色の光を放ち、室内が明るくなる。女は店の奥に顔を向けた。矢絣模様の縦長の暖簾の前で、痩せた中年の女が壁のスイッチに手を掛けたまま、サンダルに足を入れている。
「おまたせ」
中年の女はそう言うと、こちらに歩いてきた。
若い女は慌ててカウンターテーブルの上の機械に手を掛ける。それを見た中年の女は一瞬立ち止まって言った。
「あら、ホログラフィーを使っていたのね。見える?」
「あ、いえ。大丈夫です。もう切りますから」
若い女は急いで機械を操作し、その上に浮かんでいた文書のホログラフィー画像と手前に投影されていたキーボードのホログラムを消した。そのまま、その薄い板状のパソコンを持ち上げ、足元の虹模様のトートバッグの中に仕舞う。
中年の女はカウンターの中の狭い厨房を歩きながら顔の前で手を一振りした。
「つい癖でね。スイッチを押しちゃうのよ。客が居ない時はこまめに電気を消すようにしているから。ごめんなさいね」
シンクの前に立った彼女は、縁に両手をつき、カウンター越しに若い女の顔を覗いた。
「記者さんだったわよね。どこの新聞社の方だったかしら。お名刺をいただける?」
「あ、はい。すみません」
若い女は、また慌てて身を屈めた。足下の虹模様のトートバッグに両手を入れると、中をゴソゴソと漁り、名刺入れを探す。
体を起こした若い女は、不器用そうな手付きで名刺入れの蓋を開けながら、椅子から腰を上げた。立ち上がっても、椅子に座していた時とさして頭の高さは変わらない。むしろ立ち上がった時の方が低かった。彼女は少し背伸びをしながら腰を折り、カウンターの向こうに精一杯に両腕を伸ばして名刺を差し出した。
「失礼しました。改めまして。私……」
受け取った名刺を読みながら、中年の女は言う。
「へえ。新日風潮社……なんだ、週刊誌じゃない」
女の眉間に皺が寄った。それを見た若い女は、軽く頭を下げた。
「すみません。でも、弊社は新日新聞社の子会社でして、けっして怪しい雑誌では……」
「ま、いいわ。話するって言ったんだし」
中年の女は若い女の発言を途中で遮ると、彼女に座るよう手で促した。
「一緒にいた派手な男……で、いいのよね。あの人も、お仲間?」
「あ、はい。カメラマンです。撮影しないことが取材に応じていただく条件ということでしたので、彼には席を外してもらいました。今、お土産を買いに行ってます」
高さのある丸い椅子に腰を戻しながら、若い女はそう答えた。
カウンターの中の中年の女は話を聞きながら調理台の上に無造作に放り置かれた煙草の箱に手を伸ばす。慣れた手つきで箱から煙草を取り出すと、黙ってそれを口に咥えた。シンクに凭れて少し後ろを向いた彼女は、棚の上の壁に掛けられた古い時計に目を向けながら、咥えた煙草を上下に動かして言う。
「あ、そう。ここら辺のお土産なら『ふろしき饅頭』が名物なんだけど、この時間じゃ、もう売り切れているかもしれないわね」
「そうなんですか……。『ふろしき饅頭』……」
若い女はコクコクと頷いて、聞き慣れない饅頭の名を何度か頭の中で繰り返した。自然と口も動き、小さく声が漏れる。
シンクに片手をついて凭れたまま、少し顔をしかめてその様子を見ていた中年の女は、まだ火を点けていない煙草を口から外すと、それでカウンター越しに若い女を指した。
「で、大手新聞社系列の週刊誌の記者さんが、私に何を訊きに来たの?」
「あ、ええと……。その……」
若い女は視線を逸らす。
中年の女は再び煙草を咥え、背を向けた。棚から酒瓶とグラスを取り出すと、それらを若い女に見せて、ぶっきらぼうに尋ねる。
「飲む?」
「いえ。仕事中ですから。すみません。お気持ちだけで」
若い女は、顔の前で手をパタパタと横に振った。それに頷くこともせずに、中年の女は黙って調理台の上にグラスを置く。彼女はグラスに酒を注ぎながら言った。
「
「あ、そうです。すみません」
また頭を下げた若い女は、顔を上げると、すぐに言い足した。
「それから、
遠慮気味に言う若い女の顔を一瞥してから、中年の女はすぐに背を向けて棚に酒瓶を仕舞い始めた。彼女はそのまま何も答えなかった。黙ったまま振り返り、こちらを向いてシンクの下の引き出しを開ける。中を探して見つけたライターを手に取ると、視線をこちらに向けたまま煙草に火を点けた。細めた目から放たれる視線は鋭かった。最後の質問は余計だったのかもしれない。若い女は直感的にそう思った。無理を言って申し込み、せっかく取り付けた取材である。相手の機嫌を損ねてしまったら、本も子もない。――どうしよう……。そう思い巡らしながら、若い女も黙っていた。募る不安に、思わず眉が強く寄る。
中年の女はじっとこちらを見ていた。咥えた煙草の先から細い煙を立てたまま、シンクの上にライターを静かに置く。一度視線をそこに落とした彼女は、ゆっくりとその目を上げた。そして、再びこちらをじっと見つめた。無音の中、咥えた煙草を深く吸い、その先端を赤く光らせる。眼差しは依然として鋭い。女は指で挟んだ煙草をシンクの中に移動させると、軽く灰を落とした。掛け時計の秒針の音が再び聞こえ始める。
中年の女は口から吐いた煙に答えを乗せた。
「残念。瑠香が彼と出会ったのは、彼女が実験管理局に入った後だし、私は、そことは関係ない人間だったから、彼のことはあまり詳しくは知らないわ」
「そうなんですか……」
若い女は寄せたままの眉を八字に垂らして、視線を落とした。小さく溜め息を吐き、肩も落とす。それを見た中年の女は、今度は視線を外して煙草を吸うと、煙を短く一吐きしてから言った。
「――まあ、そうは言っても、友人の旦那だからね。一応、面識はあるわよ。と言っても、二人の結婚式で一度だけ挨拶をした程度だけど」
顔を横に向けた中年の女は、目を細め、再び煙草を口に運んだ。そのまま口を噤む。
若い女はハッとしたように両肩を上げると、慌てて身を屈めた。足元のトートバッグの中を再び漁り、掌大の薄い「電子メモ帳」を取り出す。体を起こした彼女は急いでそれを開くと、専用のペンを握り、電子メモ帳の平らな表面にメモを書き込み始めた。それに応じてその少し上にホログラフィーで浮かんだ小さなメモ帳画像に文字が並べられていく。彼女はそのまま真剣な顔でメモを取っていたが、ふと顔を上げると、カウンターの向こうで横顔を見せて煙を吐いている女に言った。
「そういえば、堀之内さんは、大学時代に瑠香さんと親友でいらしたのですよね。大学院も同じ大学院で学ばれたと……」
灰をシンクの中に落としながら、堀之内は目線を下げて答えた。
「ええ。大学院では専攻が違ったけれどね。私は生物工学で、彼女は理論物理学。――たしか、量子物理学の応用理論じゃなかったかしら」
「……」
メモを取る若い女の手が一瞬だけ止まった。その様子を横目で見ながら、堀之内は続けた。
「でも、学術的に彼女と交流が無かった訳ではないわ。私がやっていたのはバイオ・インフォマティクスのハイエンドにおけるメトリスク認証技術の最適化。瑠香がやっていたのは、新型の量子効果素子のモデル作成よ。まあ、高純度の量子効果素子を、より簡単に作る方法ね。ナノ粒子を基盤に並べた後に効率よくタンパク質を除去する必要があるの。生物工学的技術を使用して。だから私もたまに手伝ったりしたわ」
若い女は眉間に皺を寄せたまま、懸命に電子メモ帳の上でペンを走らせ続けた。
一通りのメモを終えた彼女は、一度首を傾げてから、前を向いた。堀之内は目を細めてこちらを見たまま煙草を吸っている。その表情は厳しい。
口から強く煙を吐いた堀之内は、傾けた顔を少し前に出すと、皮肉めいた口調で言い始めた。
「何? おかしい? 都会の大学院で最先端のサイエンスを研究していた人間が、こんな田舎町で、スナックだが小料理屋だか分からない小汚い店のカウンターに立っている。そりゃ不思議よねえ。あんたみたいな大手新聞社系列の雑誌社の記者さんにしてみれば」
言い終えると、堀之内は煙草を指に挟んだ手でグラスを持ち上げた。
若い女は困惑した顔で言う。
「いえ。そんなつもりは……」
生のままで酒を一口飲んだ堀之内は、強めに音を立ててグラスを置いた。
若い女は首をすくめて下を向く。堀之内は再び煙草を口に運んだ。若い女は下を向いたままだった。
堀之内は自分が吐いた煙に目を細めながら、投げ捨てるように言った。
「いいわ。書きなさいよ。どうせタイトルは、『試験管からグラスに持ち替えた女。元理系研究者の真実』とかでしょ。いいんじゃない。売れるわよ、きっと」
片笑みながら煙草の火で若い女を指した堀之内は、また横を向いて煙草を吸い始めた。
若い女は再度頭を下げた。
「すみません。でも、本当にそんなことは……」
堀之内は溜め息と共に煙を吐きながら煙草を灰皿に押し付けると、若い女に尋ねた。
「ねえ、あんた、新人さん?」
若い女はコクリと頷いて答える。
「はい。ええと、まだ今年大学を出て入社したばかりです。すみません。あまり取材に慣れていなくて……」
堀之内は若い女の顔を見たまま、持ち上げたグラスを口に近づけ、言った。
「へえ。じゃあ、今の会社の前はどこに勤めていたの?」
「……」
また少し酒を飲んだ堀之内は、グラスを持った手で若い女を指差す。
「たしか、今の若い人たちって、一定期間社会人をやってからじゃないと大学に行けないのよね。私が大学院に進学した頃からだから……二〇二〇年からこっちの話よね。あら嫌だ、もう十八年も経っているじゃない。ごめんなさいね。研究一筋で世間に疎かったものだから、あまり社会の賑わい事とか知らなくてね。朝から晩まで実験と勉強ばっかり。それで気が付いたら、この歳よ。ああ、馬鹿馬鹿しい」
堀之内は再びグラスを傾け、今度は多めに酒を
彼女がグラスを置くと、若い女は尋ねた。
「堀之内さんは、なぜ帰省されたのですか」
堀之内は置いたグラスに手を添えたまま、カウンターの向こうの若い女の顔をにらむように見つめた。
若い女は再び視線を逸らし、再び深く頭を下げた。
「すみません。取材内容とは関係ありませんでした」
新しい煙草を口に咥えた堀之内は、その先端にライターの火を近づけながら言った。
「いろいろあるのよ。大人には」
煙草を深く吸い、彼女はまた、溜め息に乗せて煙を吐いた。
少しの沈黙の後、堀之内は若い女に向けて軽く顎を上げた。
「それで、あんたはどこの会社に学費を出してもらったのよ。たしか、最初に勤務した会社が奨学金か何かの形で学費を出してくれるのよね。大学卒業後に元の会社に戻ったら、無利子で分割弁済。他の企業に就職したら、前の会社に代弁済した国立奨学金機構に分割返済。少し割高で。そうよね? で、あんたはどっちなのよ。もしかして、今の会社に真面目に『出戻り』した口なの? それとも……」
訳も無く他人のプライバシーを探りたがるのは、年配の人間の特性なのかもしれない。若い女性はそう思いながら、質問に答えた。
「いえ。以前は同じ新日新聞社系列のネット新聞社の社会部の方に。アシスタントとして四年ほど……」
堀之内は目を丸くした。
「あら、やっぱりそうなのね。でも、同じ系列って言っても会社は別なんでしょ。じゃあ、あれだ。結局、世話になった会社とは別の会社に再就職したんだ。ふーん……今の若い子は、しっかりしているのねえ」
堀之内は冷ややかな視線を投げた。若い女が何か言おうとして口を開きかけると、堀之内がそれを遮った。
「でも、新日系列ってことは、もしかして、あの新日ネット新聞社? いやだ、新日ネットって言ったら、電子新聞の中ではアクセス数ナンバーワンの最大手じゃない。そこの社会部にいたの?」
若い女は小さく首を縦に振った。
堀之内は少し顔を引くと、怪訝そうに言う。
「ふーん。そうなんだ。でも、大抵の若い子はそういう大手に勤めるために地元の中小企業に学費を出してもらって大学に行くんでしょ。で、大学を出たら恩を仇で返すっていうか、したり顔で古巣を蹴って給料の高い都会の大企業に再就職する。――要は自分のキャリア・アップのためね。あんた、元々いい所に勤めていたのに、どうしてわざわざ大学になんか行ったのよ。奨学金の負担もあるし、給料だって、学歴で待遇格差をつけることが法律で禁じられているんだから、そのまま勤めていてもよかったでしょうに。もったいない。もしかして、もっといい給料の社内部署でも狙ったわけ。法務部とか」
「いえ……その……別にそういうわけでは……」
若い女は少し口を尖らせて首をすぼめた。上目使いで堀之内を見る。堀之内は刺すような視線の下に笑みを見せていた。蔑むような笑みだった。
若い女は視線を下げた。いろいろと思い出してみる。そして小さな声で再び口を開いた。
「――確かに、お給料のことも少し考えましたけど、でも、もう少し勉強して、いろいろ知識を身につけないと、ちゃんとした記事とか書けないかなあと思って……。それで、大学で勉強したんですけど、でも、前の会社も経営とか、いろいろと事情があるみたいで、結局、再雇用はしてもらえなかったんです。まあ、その後いろいろとあって、何とか今の会社の方には拾ってもらえましたけど……」
若い女は下を向いたまま、恥ずかしそうに答えた。
堀之内は、今度は強く眉間に皺を寄せて尋ねる。
「はあ? ちゃんと戻ろうとしたのに、逆に追い出されたってこと? 何よそれ。酷い会社ねえ」
「はあ……」
堀之内の剣幕に少し驚いたように、若い女は相槌とも溜息とも取れない返事をした。
堀之内は煙草を短く吸ってから、再び険しい顔で言う。
「それにしても、拾ってもらったって何よ。捨て犬じゃあるまいし」
「いえ、そうじゃなくて、今の会社で、週刊誌ですけど、一応、記者として雇ってもらえたので、それで頑張ろうかと……」
「どうして、そんなに拘るのよ。今の会社だって、同じ新日系列でしょ。別にそんな薄情なグループ企業の同列子会社なんかに勤める必要はなかったわよ。他の新聞社に再就職してもよかったんじゃないの?」
「あ……その……えっと……」
口籠っている若い女の顔を、堀之内はしかめた顔で見ながら首を傾げ、また煙草を口に運んだ。
その向かいで、若い女はしきりに首を傾げていた。
「拘ったとか、そういうことじゃないんですけど、なんか、流れでそうなったというか、周りの方々が助けてくれたというか……。それに、別の新聞社でも再就職者の募集はしていませんでしたし……。今の会社は、人使いは荒いんですけど、だけど、ここしか選択肢がなかったというのも事実ですし、むしろ、選択させてもらったという感じなので、なんとか……」
少し下を向いたまま口を尖らせて、はっきりとしない口調でそう言っていた彼女は、急に顔を上げた。
「あ、でも、記者にもなれましたし、今はよかったなと思っています。もともと、そのために大学に行って勉強したわけなので。ちゃんと勉強して、記者として自分の記事が書きたかったですし……」
険しい顔で煙草を吸いながら聞いていた堀之内は、急に深く下を向いた。そして、間を空けてから、彼女は吹き出した。肩を揺らして暫らく笑った後、堀之内は呆れ顔で言った。
「ウソでしょ? それで、会社からお金を借りて、わざわざ大学に行って、一生懸命に勉強して、出戻ったら、自分の席が無かったってわけ。じゃあ、まさか……必死に頼み込んで、なんとか同じ系列子会社の雑誌社に入れてもらったってことなの? で、前の会社に学費を返すために
堀之内は背中を丸めて笑った。
若い女は下を向いて黙っている。堀之内はまだ腹を抱えて笑っていた。若い女には、なぜ堀之内がそんなに笑うのか分からなかった。
体を起こし、シンクの中に煙草の灰を落とした堀之内は、両頬が上がるのを必死に抑えながら言った。
「ごめんなさいね。笑うつもりは無かったの。笑っちゃったけど。ただ、マヌケな子もいるもんだなあって思って。――つい、おかしくて……。ふふふ」
堀之内は笑みを噛み殺しながら、細かく息を吐く。
若い女は何と答えようも無く、また「はあ……」と言うだけだった。
堀之内は若い女に視線だけを向ける。
「だから、さっさと縁を切ってしまえばよかったのよ、そんな無責任な会社。ていうか、記者って仕事とも。要領が悪いわねえ。他の子たちがやっているように、前の職場や大学で身につけたスキルを活かして違う業界の会社に再就職すれば、少しは高い給料で雇ってもらえたんじゃないの? 例えば、どっかの大手広告代理店とかさ。そしたら奨学金を返すのも楽だったでしょうに」
堀之内は少し同情めいた目で若い女を見ながら、グラスを持ち上げた。
若い女は下を向いたまま、小さな声でボソリと言った。
「この仕事が好きなんです」
堀之内は顔の前で傾けたグラスを止めた。そのまま黙って若い女の目を見ている。
若い女は堀之内と視線を合わせることなく、また小さな声で言った。
「なんか、世の中の役に立てるかなあって。私なりに。少しは……。それに、前にお世話になった会社の先輩方にも恩返しがしたいですし……。それは、やらないといけないことかなあって……」
グラスを置いた堀之内は、横を向いて煙草を咥えたまま黙っていた。
沈黙に気付いた若い女は、慌てて顔を上げ、謝罪する。
「すみません。なんか、生意気なことを言って……」
そして視線を下げると、再び頭を下げた。恐る恐る目線を上げると、堀之内は険しい顔でまだ煙草を吸っている。若い女は申し訳ない表情を隠すように、もう一度深く頭を下げた。丸めたその肩に消沈が漂っている。気まずい空気が暫らく続いた。
やがて、煙を一吐きした堀之内は、若い女に顔を向けると、口角を上げて言った。
「いいわ。気に入った」
若い女は顔を上げた。少し驚いたような顔をしている。
堀之内は、まだ長さを残している煙草を灰皿に押し付けると、真っ直ぐに若い女の方を向いて、彼女の目を見ながら言った。
「それじゃあ、真面目な記者さんの取材には、ちゃんと答えなきゃね。その代わり、世の中のためになる記事を書くのよ。いいわね」
「はい。頑張ります。有り難うございます!」
若い女は笑顔で覇気のある返事をした。そして素早く深々と御辞儀する。今度のそれには活き活きとした気力が溢れていた。
堀之内は静かに微笑む。
顔を上げた若い女は、すぐに真顔に戻り、握ったペンの先を電子メモ帳に押し当てるようにして立てて構えた。彼女は少し興奮気味の調子で尋ねる。
「では、早速なのですが、まず、堀之内さんは学生時代に『ドクターT』という人物のことを聞かれたことは……」
「まあ、まあ、そう慌てなさんな。新人記者さん。はい、これでも飲んで」
堀之内はシンクの隅のサーバーに手を伸ばし、そこから取ったコップを若い女の前に置いた。そのコップの中の黄金色の液体の上には白い泡が載っている。
若い女は戸惑いながら言った。
「いえ。でも……」
堀之内は、しかめた顔の前で何度も手を振る。
「大丈夫、大丈夫。ノンアルコールよ。ジュースみたいなものよ」
「はあ……」
若い女は目の前のコップを見つめたまま、手を付けなかった。
堀之内はそんな彼女を見ながら一度だけ小さく頷くと、今度は、わざと大袈裟に腕組みをして天井を見上げた。
「ふーん……『ドクターT』……さあね。聞いたこと無いわね。そんな変な名前」
「このアルファベットをよく使う方とか、イニシャルで思い浮かぶ学者さんとか」
「学者? うーん……論文もいろいろ読んだけど、こんな変なペンネームを使う学者なんて知らないわねえ。研究者仲間でも聞いたこと無いわ。そりゃあ、学会には『T』がイニシャルの学者は大勢いるわよ。だけど、『T』だけじゃ、絞りようがないわね」
若い女は、少し前のめりになって取材を続けた。
「瑠香さんの夫の田爪健三博士もイニシャルは『T』ですよね。その線は考えられませんか?」
堀之内は少し笑う。
「断定するには情報が少な過ぎるわね。それだけじゃ絞れないと言ったでしょ。それに、そもそも、その『ドクターT』って何者なの? 何か悪さでもしたのかしら」
「いいえ。ただ、ある所に何回も論文を送り続けていて、それが……」
「論文……。何回も……」
顔つきを変えた堀之内を見て、若い女は少し慌てた様子で話題を変えた。
「あ、いえ、別に……何でもありません。――では、結婚式での二人の様子を聞かせて下さい。堀之内さんのお持ちになった印象で構いませんので」
堀之内は少し驚いたような顔で若い女を見た後、シンクの上に両手をついて言った。
「瑠香と田爪博士の様子? いいわ。そうねえ……」
彼女が記憶を辿っていると、店の奥の暖簾の向こうから、老いた女の声がした。
「美代。美代。ちょっと来てちょうだい」
「はあい。今行くわ」
大きな声で返事をした堀之内美代は、少し顔を前に出すと、小声で若い女に言った。
「ごめんなさいね。母、足が悪いの。五年前に脳梗塞で倒れてから、ずっと……。ちょっと見てくるわね」
再び老女の声がする。
「美代。ちょっと」
「はあい。今、行くから」
もう一度大きな声で返事をした堀之内美代は、駆け出そうとして立ち止まり、若い女の方を向いた。
「あ、そうだ。ねえ、あんた、誰か好きな人がいるでしょ。職場に」
「え? いえ、別に……」
若い女は、唐突な指摘に丸くした目を逸らした。
堀之内美代はニヤリと笑って言う。
「ははーん。図星ね。好きなのは仕事だけではないと。だから元の職場に拘ったんだ」
「いえ、そんなことは……」
若い女の発言を遮って、堀之内美代は尋ねた。
「その人のために頑張っている。違う?」
若い女は下を向いて答える。
「別にそんなんじゃ……。ただ、この件で、命懸けで取材をしている先輩がいます。もの凄く危険な所で。だから、みんなその人のためにも頑張っています」
堀之内美代は眉間に皺を寄せた。
「もの凄く危険な所? 何処よそれ。あんたの周りだって危険じゃない。もう少しで仕事を奪われて、無職で借金を背負わされるところだったのよ。十分に危険でしょ。命にも関わるわ。みんなそうよ。どこだって危険。安全な所なんて無いわよ」
「はあ……でも……」
口籠っている若い女を、堀之内美代は狙うように指差した。
「分かった。その人ね。その人のために、あんたも精一杯に頑張っているってことね」
若い女は顔の前で手をパタパタと横に振った。
「いえ、その……そういうことじゃ……」
堀之内美代は顔の前で手を大きく一振りして言う。
「そういうことでいいのよ。それでいいの。あの子もそうだったから。あんた、よく似た目をしているわよ」
暖簾の向こうから苛立った声が届く。
「ちょっと、美代。早くしてちょうだい。まだなの?」
「はあーい。分かったわよ。今行くから」
堀之内美代は声を張って答えると、再び若い女の方に顔を向けた。
「――ごめんね、ちょっと行ってくるわ」
「はあ……あ、どうぞ。私のことはお気になさらず……」
堀之内美代は暖簾の横の壁に手を掛けてサンダルを脱ぎながら、若い女に言った。
「その人、無事だといいわね」
若い女は背筋を正し、少しむきになったように答える。
「無事です。無事に帰ってきます。絶対に」
堀之内美代は動きを止めて、若い女を見た。若い女の目は真剣だった。
「そう……」
心配そうな顔で若い女を見つめた堀之内美代は、小さく溜め息を漏らしてから暖簾を開き、自宅の中に入って行った。彼女はまた、いつもの癖で壁のスイッチを押し、店舗の灯を消した。
再び薄暗い部屋の中に残された若い女は、スカートの上で手を握り締めながら、祈るように自分に言い聞かせた。
「絶対に帰ってくる。絶対に……」
薄暗い部屋の中に、壁の古い時計の秒針が音を鳴らし続けていた。
2
文字盤の上で細い針が時を刻んでいる。
腕時計から視線を上げた男は、遠くの暗闇を覗いた。汚れたアロハシャツを着た、長身で筋肉質なその男は、右手に握っている物に視線を戻すと、それの裏面を確認した。男は一度目を瞑り、薄い光を放つ表の面を顔に向けて持ち直してから、それを口元に近づけて声を放った。
「チェック。チェック。マイクチェック。マイクチェック。あーあーあー」
その録音機は煙草箱ほどの大きさで薄い板状である。表面には一回り大きく平たいホログラフィー映像が浮かんでいた。そこには集音の感度や残りの録音容量、電池残量などの数値とアイコンが表示されている。それらに目を通し、数値が十分であることを確認した男は、シャツの襟を整え、日焼けした顔を上げた。
「それでは、始めてもよろしいでしょうか」
男から離れた位置のコンクリート製の壁の横に、丸いカフェテーブルが置かれていた。その横の小さな椅子に、光沢のある白い生地で仕立てられたスーツを着た白髪の男が座っている。
その初老の紳士は頷いた。
「構わんよ」
アロハシャツの男は手許のICレコーダーのホログラフィー・パネルに触れて、録音を開始した。
初老の紳士は黒い革の手袋をした右手でアロハシャツの男を指差す。
「ああ、君。ええと……。名前は何と言ったかな」
短髪の頭を再び上げたアロハシャツの男は、その紳士の顔を真っ直ぐに見て答えた。
「
頷いた白髪の紳士は永山の足下に視線を落とした。今度は彼の汚れたスニーカーの前方を指差しながら言う。
「永山君。もう少し前に来たまえ。そう。その黄色い線の所までなら、危険は無い」
永山哲也は紳士が指差している床の方に顔を向けた。コンクリート製の床に黄色い線が引いてある。その線は、その広い円形の部屋の中心から随分と手前の位置で、円周上の壁の下から壁の下まで、永山の前を左右に真っ直ぐに横切っていた。永山哲也にはその線がどういう法則に則って引かれたものなのか分からなかったが、彼はとりあえず紳士の言葉に従って移動した。白いスーツの紳士はその黄色い線の向こう側の離れた位置に座っている。つまり、線の「内側」だ。彼が言うところに従えば、それは「危険がある」領域だった。
怪訝な顔をしている永山を見て、その紳士は言った。
「私は大丈夫だ。慣れているからね。だが、君はそうではない。その線より外側に居なさい。万が一の事態が起こっても、その線の外側に居れば、あとは私の指示に従うだけでいい。そうすれば危険は無い。それに……」
紳士は顔を上げ、横を向いた。彼が視線を向けた薄闇の奥には、壁際に高い塔が立っていた。その上には大きなアナログ時計が設置されている。
再び永山に顔を向けた紳士は、ゆっくりと言った。
「時間は十分に在る」
薄闇の中で、彼は満足そうな笑みを浮かべていた。
3
窓の外では淡雪が舞っている。昼食時で賑っているはずの向かいのカフェテラスには誰も座っていない。細い道路の石畳の路面には、融け切らない雪が薄っすらと残っていた。その上を、ダッフルコートを着た若者が白い息を吐きながら肩を丸めて歩いている。
ガラス窓から外の通行人を眺めながら椅子に座っている背広姿の中年男が言った。
「お帰りの際は、足下にお気をつけください。路面が凍っていて危険だ」
その男はテーブルの向うに立つ細身のルダンゴットの背に目を向ける。
立てられた襟に隠れた横顔は静かに答えた。
「もっと大きな危険に晒されている人々がいます。雪解けを待つ時間は在りません」
背広の男は割れた顎を突き出して言った。
「我々は行政なのでね。根拠無くは動けませんよ。あとは、あなた次第です」
それに対する返事は無かった。
スラリとした腕にアタッシュケースを提げて歩いていくルダンゴットの背中を見送りながら、男は指先で眼鏡を少し持ち上げた。そして、その手をテーブルの上に伸ばす。彼は置かれていた書類を取り、内容を確認してから隣に座っているスーツ姿の女に手渡した。
その女は受け取った書類をファイルに挿み、鞄に仕舞いながら言う。
「これで、ご自身で証明してもらうことになりましたわね」
男はテーブルの上のコーヒーカップを口元に運びながら険しい顔で言った。
「だからと言って安心はできん。わざわざこんな二流のレストランに我々を呼び出し、周りに客がいる中で契約書を交わさせるとは、なかなか用心深い。ところが、我々の施設で実験を実施することは、すんなりと受け入れた。何か狙いがあるのかもしれんぞ」
スーツ姿の女は、窓の外に顔を向けて言う。
「でも、この雪ですと、すぐには実施できませんわね」
コーヒーの味に顔をしかめた男は、短く嘆息を漏らしてカップをテーブルに戻すと、椅子の背もたれに身を倒した。
「当たり前だ。機体も別に準備せねばならん。四月から飛ばす複数搭乗用の機体の製造で工場はフル稼働の状態だ。そこに予定外の機体の製造を発注せねばならんのだ。来月の発射日までに実験を実施することは不可能だよ。今回の契約をする上でも、それは解かっているはずだ」
雪の中を凛とした姿勢で歩いて行くルダンゴットの背中を窓から見つめながら、スーツ姿の女は呟いた。
「余計なことを為さらなければいいのですけど……」
割れた顎の男はチーフで眼鏡を拭きながら言った。
「監視はこのまま続けてくれ。この契約に反する行為をすれば、実験の実施は無しだ。その場合は当然、無駄な機体の製造にかかった費用を弁償させねばならないからな。逃げられると困る」
スーツ姿の女は割れた顎の男に顔を向け、眉を寄せた。
「この研究を十年近くも続けたのですよね。その執念を軽く見られない方がよろしいですわよ。もしかしたら、長官を恨んでいるのかもしれませんわ。実験で自分の指摘が正しいことを証明して、それを世間に公表するつもりでは。長官の信用を失墜させるために」
眼鏡を掛けた男は、腕を組んで眉間に皺を寄せた。
「あの論文の内容について、専門家である大物に意見を求めてみたが、返事が無い。やはり難解なのだろうが、何らの返事が無いというのは、もしかしたら、結論が間違えているからかもしれんな。返答するにも値しないということなのだろう。だとすると、あえて実験して確かめる必要があるとは思えんが、正式文書としてウチに届けられている以上、万が一の事態も視野に入れておく必要がある。ウチとしても十分な検証をしたという一応の形は残しておかないとな」
「ですが、あまり無駄な費用を計上されるのは、問題ではありませんの。
「大丈夫だ。あの男が私に楯突くはずがない。それに、どの説が正しかろうが、間違えていようが、実験を行ってこちらに損は無いのだ。問題ない」
「どうしてですの」
「同じ結果になるからさ」
割れた顎の先を触りながら、男はニヤリと片笑んだ。そこへ、背広姿の中年の男が現われた。彼は座っている割れた顎の男に頭を垂れて言った。
「長官。お車の用意ができました」
顎の割れた男は椅子から腰を上げながら言う。
「うむ。まったく、雪の中をこんな所まで呼び出しやがって。コーヒーも不味いし……」
隣で一緒に立ち上がったスーツ姿の女は男のカップを覗き込んで言った。
「あら。ここはオーガニックで有名なレストランでしてよ。使っている豆も、きっと天然物のはずですのに」
「そんなことには
男に指差され、女は笑みを浮かべた。
「あら、お上手ですわね」
男は片笑んで返すと、大股で姿勢よく出口へと歩いていった。彼は後から速足でついてくる中年の男に言う。
「戻ったら機体の製造スケジュールを見直すぞ。大臣どもに予算を組み直させて、発射施設までの交通インフラも大幅に改善させねばならん。こんな重要な時期に、この件にいつまでも掛かっている暇は無いんだ。さっさと終わらせる。いいな」
「は。かしこまりました」
そう答えながら先に回った中年の男は、ガラス製のドアを開けた。外では綿雪がゆっくりと落ちている。
顎の割れた男は、大きく肩を上げて、降り続く雪の中を黒塗りの乗用車の方へと歩いていった。
4
その初老の男は白いスーツに包んだ小柄な体を、同じく小さな円座の椅子の小さな背もたれに預けていた。黒い革の手袋をした右手でティーカップを口元に運んでいる。
永山哲也は左手を上げて、その男に言った。
「すみません。少々お待ちください」
彼は派手な柄のシャツの左胸のポケットから親指ほどの大きさの機械を取り出すと、その表面の小さな液晶画面を覗いた。左手の親指でその機械の側面の小さなボタンを押す。少しだけ見上げた永山哲也は、しかめて首を傾げ、舌打ちした。
彼に視線を向けた初老の男は、丸いカフェテーブルの上のソーサーにティーカップを戻すと、片笑みながら言った。
「何かの通信機かね。無駄だよ。ここは周りを分厚いコンクリートで覆われているし、屋根には電波反射材を敷いている。外部との通信は不可能だよ。諦めたまえ」
永山哲也はその小さな機械を汚れたジーンズの後ろのポケットに仕舞いながら答えた。
「いえ、そうじゃないんです。こっちのICレコーダーの録音データを、この機械に飛ばして、バックアップとして保存しようと思って。大事なインタビュー録ですからね。ですが、どうも上手くいかないみたいです。どっちも買ったばかりで、まだ使いこなしていないもので……すみません。――ああ、このレコーダーは先輩から貰ったものですけど」
永山哲也は右手の板状の機械を上げて見せた。
眉間に皺を寄せた初老の男は、再び黒い右手で永山を指差す。
「では、なぜ、君は上を見たのかね」
永山哲也は少し間を空けてから答えた。
「このレコーダーからの信号が、すぐ横のさっきの機械にも正確に届かないのは、きっと上から何か妨害電波のようなものが発せられているからかなと思って。ここは戦地ですから、そういう電波の照射装置を設置するとしたら、敵に感知されないように効率よく設置するはずです。この部屋は円筒形ですので、あの地表に出ている屋根の部分から下に向けて電波を発した方が、敵に電波を拾われる危険もないし、この空間全体に電波が行き届いて最も効率がいい。そう思ったんです。まあ、安物のレコーダーと、売り出したばかりの新型携帯電話なので、単に互換性が無いだけかもしれませんがね。仕方ないです。バックアップは諦めます」
永山哲也は両肩を上げた。
初老の男は永山の目を見据えて頷くと、静かに言う。
「ここには観測用のミリ波をランダムに照射している。ジャミング電波が飛び交っているようなものだ。電子機器の同期自体ができんよ。それに、記録はレコーダーでの音声録音のみという約束だ。それは守りたまえ。もし約束を破れば、ここの兵士たちに殺されてしまう」
「もちろんですとも。僕は記者ですから、取材対象者との約束は守ります。だから撮影機材の類は全てここの兵士さんたちに提出したんですよ。――ああ、ちゃんと返して貰えるのですよね。あれ、会社の機材ですから」
初老の紳士はゆっくりと首を縦に振った。
「そう指示しておこう。だが、所有者に返還するか、借主の君に直接渡すことができるかは別の問題だ。存在しない者には何も渡すことができない。必要な物を受け取るためには受け取る肉体を持っていなければならない。君が肉体を維持できるかは、今からの君次第だ。分かるね」
彼の眼光は鋭い。永山哲也はその紳士の目をじっと見たまま、顔を動かさなかった。紳士は目線を下げ、口角を上げる。
永山哲也は左腕の時計を見ると、ICレコーダーを持った右手を胸の前に上げ、今度は真剣な表情で再び口を開いた。
「それでは、始めます」
紳士は鼻から短く息を吐くと、黙って深く頷く。
永山哲也は語り始めた。
「ええ、現地時間、西暦二〇三八年七月二十二日十五時四十九分。わたくし永山哲也は、日本の丁度反対側、南米大陸北部のアマゾンゲリラ地帯、第十三戦闘区域にある密林地帯に来ています。ご承知のとおり、ここは現在、南米戦争における第一級戦闘地域に指定されており、この十年間、南米連邦政府の軍隊と環太平洋連合国軍との協働部隊による反政府ゲリラの掃討作戦が実施されている地域です。もちろん、ゲリラ軍側にしてみれば、反政府抵抗運動作戦ないし解放戦線ということになるのでしょうが……。そして、今わたくしが居るこの地域は、その中でも特にゲリラ側の科学武装化が急速かつ高度に進んでいて協働部隊が苦戦を強いられている地域でもあります。ええ、こうしてレポートをしている最中にも、このように、ゲリラ側の新型兵器の音でしょうか、独特の高音と、攻撃された協働部隊の兵士たちの声が……」
「永山君」
白いスーツの紳士は、薄く長く伸びた白髪を後ろに撫でながら、永山を制止した。
永山哲也はその紳士が髪を撫でた左手に一瞬だけ気を取られた。その紳士の左手は素手で、薬指と小指に指輪らしき物が白く光を反射させている。その下の手首には、黄金色に輝くブランド物らしき高級腕時計が巻かれていた。
眉をひそめる永山に、紳士は厳しい表情を見せる。
「君は兵士の武器の取材に来たのかね」
「あ……すみません。つい興奮して……」
それは嘘だった。永山哲也は冷静だった。紳士もまた、冷静である。彼はそれを見透かしたように永山の目をにらんだ。永山哲也は思わず視線を逸らす。
白髪の紳士は嘆息を漏らして言った。
「まあ、いいだろう。記者の習性だと目を瞑ろう。続けたまえ」
永山哲也は小さく頭を下げると、再びレコーダーを口の前に運んだ。
「――ともかく、今わたくしは、この激しい戦闘区域の森の中に忽然と在る、一つの施設の中にいます。この施設は地下にあり、今わたくしが立っている空間はとても広いです。わたくしは今、自分が入ってきたドアを背にして、この空間の中心部分を向いて立っています。ここは円筒形の空間であり、直径百メートルほどの円形の床と、かなりの高さの壁に囲まれています。地表の屋根までは拭き抜けていて、天井には……」
永山哲也は真上を見上げて、目を凝らした。遠い天井の薄く小さな光源を確認しようとしたが、天井が高過ぎてよく見えない。目を細め、必死に観察する。
「LED型だと思うのですが、相当に大きな照明が幾つも取り付けられているようです。ですが、下までは十分に光が届いていません。どうも意図的に調節してあるようです。光度が最低限に絞られていて、下はかなり薄暗い状態です。わたくしの目が暗さに慣れていないからかもしれませんが、遠くに置かれている物も鮮明には見えません。ですので、とにかく分かる範囲でご報告します」
彼は顔を下ろし、右を向いた。
「まず、わたくしの右側には、網状の錆びた鉄柵が設置されています。これは、高さは二メートルほどで、幅も四メートルくらいの簡易な物です。その向こうの、鉄柵に沿って置かれた長いテーブルの上には、何やら計測器のような物が数台並べられています。どれも稼動しているようですが、何の計測をしているのかは不明です。どの機械も数値は変化しておらず、針も緩やかに振り動いています」
永山哲也は首を傾けた。
「ええと、そこから少し左に視線を向けると、床に大きな赤い三角形の印が描かれています。その更に向こうから、この円形の部屋の中心点の付近とは随分と外れた位置を通って一直線に、別の奇妙な壁が設置されています。ええ、だいたい七十メートルほどの長さでしょうか、高さは……七、八メートルは有ります。厚さも相当なものだと思われます」
彼はその方向に顔を向けたまま頭を少し前に出した。
「ああ、この『別の壁』の裏面には、背後にあるこの部屋の壁との間に梁が設置されているようです。太い鋼鉄の梁が何本も、『別の壁』の後ろから斜めに立っています。ここから見るかぎり、間隔は均等です」
永山哲也は少しだけ視線を下げる。
「傷がありますね……。この『別の壁』の表面には無数の傷があります。ええと、たぶん傷はどれも横に引かれています。一本だけ、太い傷が走っていますね。壁の上を端から端まで、結構荒い感じで、長く太い傷が走っているように見えます」
彼はそのまま傷を辿って視線を動かした。顔を左に向ける。
「ええ、この『別の壁』の向こうの端は……、この部屋の奥の内壁にぶつかっているようです。はっきりとは見えませんが、たぶん、そうだと思います。ええと……どうやら、その内壁部分にはクッション材のような物が貼られているようです。大きなクッション材です。どうも、奥の壁に沿って弧を描いて貼られているみたいですが……ああ、プロ野球場の外野フェンス、あんな感じです。ですが、大きさは、もっと大きいかもしれません。ただ……破けているんでしょうかね……所々に破損箇所が……いや、よく見えません」
暗闇の奥の景色の観察を諦めた永山哲也は、顔の向きを少し右に戻した。
「それから、さっき言った『別の壁』の中央から奥の方で、壁の後ろ側に一本だけ、塔が立っています」
彼は、上の地上に向かって
「かなり太い塔ですね。ええと、野球場で言えば、照明灯の柱……いや、あれよりも太いかな。高さは同じくらいだと思います。その頂上部分には、時計が設置されています。アナログ式の時計で、けっこうレトロな感じの物です。巨大な文字盤の上で細かな装飾を施された鉄製の太い二つの針が、無機質を誇るように時を刻んでいる、そんな感じです」
永山の気取った表現を、老紳士が鼻で笑った。
永山哲也はそちらに顔を向ける。
「ええ、私の左側には……あ、ちょっと待ってください……」
永山哲也は、正面に顔の向きを戻した。
「ああ、何かありますね。奥の方に何かあります」
彼は、薄闇に慣れてきた目を必死に凝らす。
「ええと……クッション材が貼られた壁の端、さっきの『別の壁』がぶつかっている端とは反対側の端の手前に、何やら台のような物が置かれています。ええ、そうですね……子供の頃に学校の校庭で見た鉄製の御立ち台。校長先生とかが上に立って話をする。あれみたいな感じの台です。でも、たぶん、大きさはもっと大きいですね。『矢倉』と言った方がいいかもしれません。こちら側の横の方に七、八段かな……とにかく、手すり付きの階段があって、それを登りきった向こう側は平らな台になっているだけです。どういう目的で置かれて……ん?」
永山哲也は顔を前に突き出した。
「――その『矢倉』の向こうの、クッション材の壁との間の床に、大きなバツ印が描かれていますね。色は黄色です。たぶん……。ここからは黄色に見えます。特殊な塗料か何かで書かれているのかもしれません。暗い中でも、結構はっきりと黄色く……」
ハッとした永山哲也は、顎を引き、自分の足下に視線を落とした。
「ああ、僕の足下にも黄色い線が引かれています。そこから奥へは立ち入るなと言われました。理由は分かりません」
彼は眉間に皺を寄せて、一度だけ首を傾げた。
顔を上げた永山哲也は、左を向いて、遠くに座っている紳士の顔を見た。紳士は目を瞑って頷いて見せる。永山哲也は、顔の向きを変えずにリポートを続けた。
「ええと、今、僕……わたくしが立っている所から少し離れた左の壁際に、カフェテーブルが置いてあります。そのカフェテーブルの横の椅子に取材対象者が座っています。上質の白い生地のスーツを着ていて、身形は整っています。その人物は十年前のあの実験で行方不明になったといいますか、帰って来られなくなったといいますか……、死んだはずの……は、まずいですよね」
永山哲也は、少し大きな声で紳士に尋ねた。
その紳士は斜めになっていた胸元の地味なネクタイを軽く直しながら、永山の方には視線を向けずに、静かに返答する。
「何でも構わんよ。いずれにせよ、存在しないはずの男だ」
彼は再びテーブルの上からカップを取って中身を一口すすると、それをテーブルの上のソーサーにゆっくりと戻した。その美しい絵柄のティーカップの横には、小さな砂時計が置かれていた。その砂時計は繊細な彫刻が施された木枠の中にガラスの器をはめている。透き通ったガラスの向こうで砂が静かに流れ落ち、時を刻んでいた。
永山哲也は左腕を少し持ち上げ、腕時計で時間を確認すると、その地下空間の奥の高い塔の時計盤をさり気なく見た。時計は、ずれてはいない。
永山が巻いている腕時計は、日本の国防軍の兵士たちが使っている腕時計と同じ物で、南米への出発前に、戦地へと取材に赴く永山に後輩記者が贈ってくれた物だ。新人の記者であるその後輩の給料で買うには少し無理のある値段だったはずだが、現地での環境を考慮して壊れない物を選んでくれたのだろう。実際、約三ヶ月に及ぶこちらでの過酷な取材環境でも壊れなかったし、時間も正確に知らせていた。その腕時計が示す時間と奥の塔の時計が示す時間は合っている。つまり、塔の時計は正確だった。紳士自身も腕時計をしている。あの輝きは純金製に違いなかった。ということは、高級ブランド物だろうし、壊れることも少ないはずである。だとすると、この地下空間におけるこの紳士の範疇には少なくとも二つの正確な時計が存在することになる。それなのに、カフェテーブルの上に小さな砂時計を置き、それでいったい何の時間を計っているのか、永山哲也には全く分からなかった。
彼が白いスーツの紳士の顔に視線を移すと、その紳士はこちらを冷たく無機質な感じの目でじっとにらんでいた。
永山哲也は視線を逸らし、軽く咳払いをしてから、再び録音機に向けて話し始める。
「では……。ええ、あの『存在しないはずの男』、自分が彼であると名乗る男性が、今、わたくしの視線の先に立っています。――いえ、座っています。椅子に。――とにかく、信じられないかもしれませんが、しかし、どうも本当に、あの博士のようなのです。本人はそう言っています。ここに来る途中で、ゲリラ軍にビデオメモリーやビュー・キャッチなどの動画記録機器を奪われて……いいえ、提出していますので、動画や画像で記録することができないのが残念ですが、確かに彼に似ています。わたくしが、この三ヶ月間の取材の中で幾度となく目にし、そして頭に焼き付けてきた彼の写真の顔、それからすると、確かに随分と老けて……」
永山哲也は、その紳士の顔を覗き込んだ。と言っても、二人の間には距離があるので、まだ三十九歳の永山にも彼の顔が明瞭にならなかった。永山哲也は足下の黄色い線を踏み越えないように注意しながら、顔を前に出したり、少し中腰になったりして、その紳士の顔を確かめる。永山が事前に入手していた男の顔写真は十年前の物だった。今そこに居るその男を名乗る白髪の紳士は、写真の男と似ていて面影もあるが、十歳の年齢を加えているとしても、老け過ぎているように思われた。得ていた情報から算出される男の現在の年齢は永山の先輩記者の年齢より少し上である。だが、今、永山の視界に映るその紳士は、その先輩記者よりもさらに一回り以上も歳上の、定年退職前である大先輩の記者と同世代に見えた。
カフェテーブルの横の紳士は、まだ若い記者がこちらに向けて必死に眼を凝らしては何度も首を傾げている様を見て、少しだけ笑みを浮かべた。
彼の表情の変化に気付いた永山哲也は膝を叩く。
「ああ、そうだ。あなたの年代の方なら、お若い頃に防災隊の『強制徴員制度』をご経験になっておられるのでは?」
「ああ、二年間、九州北部管轄部隊で空挺救助部隊に所属した。それがどうかしたかね」
「そうですか。よかった。――いや、父から聞いたことがあるのですが、あの時代に防災隊員だった方は、皆、個人識別用のバイオチップを体内に入れていますよね。埋め込み式の、旧式の、こんな小さいやつ」
永山哲也は自分の顔の前で左手の人差し指と親指の間に米粒ほどの隙間を作って見せた。その手を開き、そのまま顔の前で軽く一振りする。
「いやね、こんなこともあろうかと、イヴフォンにですね、旧式バイオチップの識別用アプリをネットから落としておいたんですよ。ええと、あれ、どこだ。さっき出したばかりなのに……。あれ? ――ああ、在った、在った」
永山哲也は、胸元のポケットの中やジーンズの前の左右のポケットの中を確認した後、手を後ろに回した。そして、ジーンズの後ろのポケットから、さっきの親指ほどの大きさの機械を取り出すと、それを紳士に見せて言う。
「これです。イヴフォン(EV‐phone)。エレクトリック・ビュー・フォンの略なんですけど……ああ、そっか。さっき新型の携帯電話だって言いましたよね」
その紳士は怪訝な顔をしながらも、少し興味深そうな目で、その小さな機械を見つめていた。
永山哲也は続ける。
「そうですよね。こっちではまだ発売されていないですよね。ここの兵士さんたちに説明するのも苦労しましたよ。新型の小型手榴弾とか、何かの兵器じゃないかって、そりゃあもう大変で。ある兵士さんがネットで調べてくれて誤解が解けたんですけどね。あ、そうか。博士が飛ばれた第二実験の前の時代だと、エアーホンとかエアホとか言っていましたよね。でも、今はあれを使っている人は少ないんですよ。ウェアフォンが出てきましたから。この十年は、日本ではそっちが主流でしてね。僕も前はウェアフォンを使っていました。でも、これはエアホの進化形らしくて、要は、それの最新版なんですが、でも、エアホとかウェアフォンとは仕組みが随分と違うみたいなんですよね。ええっと、これ、どうするんだ。んん……。すみません。実はこちらに来る前に買い替えたばかりで。いろいろ忙しくて、まだ音声の登録をしていないんですよ。本来なら発声するだけで操作できるんですけどね。だから今回は、とりあえず手動で……アレッ……?」
永山哲也は、右手に持った薄い録音機を落さないように注意しながら、その右手の人差し指と左手の親指で、左手に持った小さな最新式の機械の小さなボタンをあれこれと押し始めた。顔をしかめ、困惑と苛立ちを漂わせながら必死にイヴフォンを操作する。
白髪の紳士は呆れ顔で永山の様子を観察していた。
永山哲也は眉間に皺を寄せ、目を細めてイヴフォンを操作しながら言った。
「こういうのって、確か、二〇一〇年代には、えーと、スマホ? スマートホン? でしたっけ。僕は子供だったので持っていませんでしたけど、あれと似たようなものですよ。進化版ですよね。何でもできる携帯型通信端末のハイエンドってヤツです。これまでとは全く違う新しい技術を採用しているそうで、どんな世代の人間でも使い易いと言うのが売りで、CMでも……、あれ、畜生、それにしては使いにくいな……」
立ったまま更に背中を丸めた永山哲也は、しかめ面でイヴフォンを操作していたが、暫らく続けてもいっこうに進展しないようだった。
見かねた白髪の紳士は、革手袋をした右手を上げて言った。
「どれ、貸してみなさい」
永山哲也は顔を上げ、一歩前に出る。すると、紳士は黒い右手を広げて突き出した。
「いや、待ちたまえ。私がそちらに行こう。君はその黄色い線を越えるべきではない」
紳士は、白いスーツの前釦が掛かっていることを左手で確認すると、組んだ足の上に置かれた「それ」を右肩に担ぎ直しながら、ゆっくりと立ち上がった。そして、カフェテーブルの上から砂時計を取り、永山の方に歩いてくる。
彼は黄色い線の前で立ち止まった。
目の前に立った紳士は意外と小柄だった。驚きを隠しながら、永山哲也はイヴフォンを差し出す。紳士は肩に担いだ「それ」を革の手袋をした右手でしっかりと支えながら、砂時計を持ったままの左手でイヴフォンを受け取った。
半歩だけ後ろに下がった紳士は、イヴフォンを天井からの薄い光に照らして観察し始めた。
永山哲也はその紳士を観察する。彼の左手の指は太く、短く、節くれ立っていた。深く断たれた爪の間に黒い油が染み込んでいる。傷も多い。薬指と小指に通しているのは、永山が思ったとおり、銀色の指輪だった。手首のブランド物の金時計と共に彼の技術屋らしい手には似合っていない。
永山哲也は改めて紳士の全体像を視界に入れた。姿勢がよく、英気に溢れた感じを受ける。しかし、どう見ても初老の男だった。後ろに流した白い髪は細く薄いし、顔には小皺が目立つ。やはり、十年前の写真と比べても随分と歳をとり過ぎている印象を受けた。永山哲也は、その紳士がこの十年間に想像を絶する苦労を経験したのだろうと考え、とりあえずそう結論付けた。
イヴフォンの表面の少ないボタンや小さなパネルを確認した紳士は、「それ」を支える黒い右手の余った指で、戸惑うことも無く、その最新式の機械を操作し始めた。
小さな液晶画面を覗き込みながら、彼は言う。
「なるほど。生体ニューロン併用型のBACか。最新のハイブリッドICチップも搭載されているようだ。ご立派、ご立派。ええっと、んん、ノイズが走るな。電波の質が悪い。識別用のアプリだったな。あったぞ。ほら、これでいいのかな」
「ああ……ありがとうございます」
永山哲也は怪訝な顔をして、紳士が差し出したイヴフォンを受け取った。そして、その小さな液晶パネルを軽く確認し、顔を上げる。確かに識別用のアプリケーションが起動されていた。彼は、その老紳士が最新式の機械を、説明書を見ることも無く鮮やかに操作してみせたことに驚いた。だが、それを悟れられまいと、あえて落ち着いて見せる。
紳士は、そんな永山の態度を気にすることも無い様子で、「それ」の部位を握り締めた右手の指先で器用にスーツの左袖をたくし上げた。その下のシャツのカフスを外すと、袖をまくり、中の左腕を永山の前に突き出す。
「ずいぶん昔のことだから……確か、こちらの腕だったと思うが。どうかね」
「はい。では、失礼します」
永山哲也は彼の左腕を取り、肘にイヴフォンを近づけた。それと同時に、紳士の左腕に全神経を集中させ素早く観察する。高そうな指輪や高級腕時計、捲り上げられたシャツの袖にぶら下がるダイヤのカフス。彼が観察したのはそのような物ではなかった。その紳士の左腕そのものだった。火傷や切り傷の痕をいくつも残しているその腕は、筋肉質で皮膚の張りもよい。まるで、若いスポーツ選手の腕のようだった。
永山哲也は少し低い体温の紳士の左腕からイヴフォンを離すと、それを胸元に運び、一瞬だけ宙を見てからしっかりと頷いた。
紳士はシャツの袖を戻しながら、逆に怪訝そうな顔で永山を見つめる。
永山哲也はイヴフォンをジーンズの後ろのポケットに戻しながら言った。
「どうも有難うございます。インタビュー対象者の個人の確認と裏取りは記者の仕事の基本だって、先輩に叩き込まれまして」
永山哲也は片笑んで見せた。そして、すぐに真剣な顔に戻す。彼は真っ直ぐに紳士の目を見据え、静かに言った。
「全てを話して頂けますか。田爪健三博士」
紳士は即答せず、永山の目を見て暫らく思考していた。
永山哲也は答えを待った。その時の永山の眼は澄んでいた。その源泉は記者としての好奇心ではない。その瞳の奥には彼を突き動かす強い使命感があった。
永山が知るかぎり、田爪健三という男は目の前の人間の誠意や情熱に心を動かされるほど拙速な男ではないはずである。彼は容易く他人を、外界の対象を信用しないはずだ。常に冷静で、沈着で、慎重な人間。それが永山の予想だった。彼は科学者だ。今もそうだろう。だとすれば、何事も客観的に分析し、法則に従い、現実の結果を直視するはずだし、いかに目の前の記者に優れた人格を感じようとも、その眼の誠実さに感激しようとも、また、その男が苦労してここに辿り着いたということを知ったとしても、そのようなことで行動の法則を変えるはずはない。明確な目的と理由を持ち、その実現のために必要な分析をし、その仕組みを解明し、理解し、そこから考え得る全ての可能性を検討し、確かめ、整理し、唯一無二の事実のみを真実と決め、その道の上の踏み石を一つずつ踏み飛ばすことなく丁寧に乗り継ぎながら前に進むはずだ。だから、今もこうして彼は考えている。田爪健三は、海を越え、戦場を潜り抜け、命懸けでここまでやってきた記者の誠心誠意の申し出にも、その方法を当てはめて判断するだろう。そして、彼の判断は混乱しないはずである。シンプルに思考し、計算し、論理を組み立て、その結果として辿り着いた結論を素直に認めて、それに従うはずだ。永山が知るかぎり、そのはずだった。永山哲也は黙って田爪の目を見続ける。
やがて、その紳士は静かに口を開いた。
「うむ。よかろう。君や、この録音を聞く人々が、これから始まる私の話をどこまで理解できるかは分からんが……。話そう。全ての真実を」
それを聞いた永山哲也は、少しだけ安堵すると同時に、強い緊張に顔を強ばらせた。
5
今、永山哲也の目の前には「存在しないはずの男」田爪健三博士が確として現存している。彼は一見して年老いてはいるが、どうも肉体は若々しく壮健らしい。視線は冷たくも強く、鋭い。それらは永山哲也の予想に大きく反していた。
本当は彼が、探していた「ドクターT」なのかもしれない。永山哲也は根拠無く、一瞬、そう思った。彼は、田爪健三の人形のような無感情な瞳をにらみながら、日本を発つ前の同僚たちとの遣り取りを思い起こす。
あの時、永山哲也は狭い次長室の中で、座りにくい形のソファーに腰を下ろし、先輩記者や、合同取材を進めることになった週刊誌社の記者たちと膝を突き合わせていた。
「ええ。まだ、はっきりとはしませんが。ただ、その人物が『ドクターT』である可能性は、否定できません」
そう言った永山に、小柄な中年の男が言った。
「南米から送ったってか。だとしたら、メールだな」
続いて、長身の中年男がソファーの座り心地の悪さに顔をしかめながら発言した。
「俺の方で、
その途中から、胡麻塩頭の初老の男が口を挿んだ。
「いや、それがね、私の方で妙な話を聞いたんだよ」
「妙な話?」
永山哲也はその定年前のベテラン記者の方を向いて、思わず聞き返した。
年季の入った顔を永山に向けた初老の記者は、淡々と話した。
「郵便集配人に知っている奴が居てね、そいつに、ちょっと調べてもらったんだ。そしたら、司時空庁ビルがある
記者たちはその後、その謎の郵便物の中身について検討を重ねた。しかし、どの意見も推測の域を出なかった。すると、週刊誌社の中年の女がさっきのベテラン記者に疑問を投げ掛けた。
「――『いつも』とか『毎回』って、どういうことよ。何回も届いているってこと?」
初老の男は胡麻塩頭を撫でながら、眉を寄せて答えた。
「そうらしい。その集配人が聞いた話だと、司時空庁ビルへの配達を担当している集配人は、ここ三年近くの間、差出人が『T』となっている封筒の配達を続けたそうなんだ」
「三年近くだって?」
小柄な中年男は驚いた顔をその初老の先輩記者に向けた。
長身の中年男は、中堅の女性記者に指示を出して、すぐに取材方針を変更すると、深刻な顔をこちらに向けて言った。
「その配達の最初の時期と、合計で何回配達されたのか、正確に調べる必要があるな」
その長身の男は永山の直属の上司である。永山が見習うところの多い先輩記者だ。他の先輩記者たちもそうだった。皆いい模範である。その中の最年長の記者が言った。
「その三年近くも続いた差出人不明の郵便の配達が、先月は無かったそうなんだ。だが、その代わり、総理官邸に郵便物を届ける担当者の方で先月と今月、差出人欄に『T』とだけ記載された郵便物を官邸に届けたと言うんだよ。だから集配人同士でも話題になっていたそうなんだ」
「総理官邸に……」
そう言った中年の女は、小柄な中年男と顔を見合わせた。元政治記者である二人は、状況の異常さを察知したようだった。永山哲也も首を傾げ、他の記者たちもそれぞれに怪訝な顔をした。
他の先輩記者たちと合わせるように深刻そうな顔をして見せていた週刊誌社の新人の女性記者が、ふと顔を上げて、ベテランの先輩記者に尋ねた。
「その二通も、投函されたのは都内からなんですか」
「ああ、都内各所のポストであることは確かだそうだ」
その答えを聞いた新人記者は永山の顔を見た。その視線を追って、他の記者たちも永山に顔を向けた。その時、永山哲也は考えを整理していた。疑問が多過ぎたからだ。
その時点で永山たちは、「ドクターT」を名乗る何者かが作成した科学論文を既に入手していた。それは国の機関から第三者に送られたものをあるルートで入手したものだったが、元来誰がいつ如何なる目的で、どのようにしてその機関に提出したものなのか、また、その論文の作成意図は何なのかさえも不明だった。ただ、その論文は高度の科学知識を必要とする内容で、人命にも社会にも大きな影響を与える内容だと思われた。それで記者たちは論文の作成者として記されている「ドクターT」の正体を探るべく取材を開始したのだった。しかし、それは出鼻から大きく翻弄された。
思い回らせていた永山哲也に長身の中年男が言った。
「どうした、永山。おまえの考えを言ってみろ」
永山哲也は信頼するその先輩記者の顔を見て頷くと、浮かんだ疑問を忌憚無く述べた。
「ええ。まず、どうして『T』なのか。普通、『X』とか、もっと別の名前にするとかではないでしょうか。どうして差出人はアルファベットの中から『T』を選んだのか」
小柄な中年男が知った顔で答えた。
「おそらく、受け取った人間に差出人の名前を連想させるためだろうな」
中年の女が、勝手な発言をしたその小柄な男を
永山哲也はその小柄な中年男を擁護した後、彼の意見に補足した。
「――最終的な受取人となる津田長官が知っている名前。タイムトラベルに関係する主な人間でイニシャルがTである者は……」
長身の中年男が、関係する当事者の名前を挙げていった。
「
「
中堅の女性記者が付け足すと、小柄な中年男が平らな顔から口を突き出して言った。
「
司時空庁はタイムトラベル事業を管轄する日本の官庁である。日本政府は既にタイムマシンの製造に成功し、国家事業としてタイムトラベルを独占的に実施している。と言っても、その利用者は一握りの超富裕層に限られているので、永山のような庶民には関係の無い話だ。唯一接点があるとすれば、月に一度だけ定期的に実施されるタイムマシンの発射のために一時的に消費電力に制限が掛けられ、街が厳戒態勢になることだが、それも数分間だけだから、さして日常生活に支障はない。それで、永山哲也もこの「ドクターT」に
永山哲也は、その議論の際の中年の女の発言を思い出した。彼女は怪訝そうな顔で永山に言った。
「――それに、高橋博士と田爪博士が居なくなってから十年になるというのに、まだ一人もタイムマシンの製造に成功した科学者は居ないのよ。今、司時空庁で飛ばしているタイムマシンも、田爪博士が作ったものをコピーして作っているだけで、オリジナルの機体ではないでしょ……」
「ドクターT」が作成した論文は全文が英文で、内容も高度であり、記者たちにも詳細を正確には理解できなかった。しかし、挿入されている図面等から、タイムマシンの構造に関するものであることは明らかだった。ところが、現時点でタイムトラベルの理論を完全に理解している学者はいない、そう思われている。だとすると、その理解をしていた二人の科学者が必ず関与している。居ないはずの、この世界の何処かで。そして丁度この頃、永山たちは南米の戦地からインターネット上に、タイムトラベルに成功した第三の科学者が居るとの書き込みがされている事実を掴んだ。日本のみが成功し、国外には極秘とされているタイムトラベル技術と、地球の反対側から発せられた新たな情報。二つの点は記者たちによって結ばれ、彼らをある強い疑念へと導いた。それは、過去の世界に飛び立ち、この世界からは消えたはずの二人の博士のいずれかが生きている、というものだった。
永山哲也は焦点を絞った。
「――高橋博士は二〇二七年の九月十七日から一年前に飛んだのですよね。もし、田爪博士の説が正しく、『パラレル・ワールド』など存在しないのだとしたら、つまり、高橋博士の主張が間違っていたのなら、彼が姿を現さないのは当然かもしれません。論争をリードしていたのは、田爪博士より彼の方でしたから」
「全国民を巻き込む議論の一方の論説を立てておいて、それが間違っていたから、今更、人前には出られないってことかあ」
そう呟いた中年の女の隣から、小柄な中年男が言った。
「それで南米に身を隠したか。高橋博士は二〇二七年から二〇二六年に飛んだわけだ。その頃は、まだ協働部隊が南米連邦政府のゲリラ掃討作戦に協力する前で、戦争が本格化するちょっと前だからな。行こうと思えば行けるし、戦争が始まれば、その混乱で身を隠すには持って来いの場所だな」
議論は、「ドクターT」の正体は高橋博士である可能性が高い、という結論に傾いた。
長身の中年記者が指示を発した。
「よし。永山、おまえは、その南米の『謎の科学者』の正体を探れ」
そのまま、その先輩記者は他の記者たちに次々と指示を発していったが、永山哲也は脳裏に漂う雲霧を払いきれずにいた。「ドクターT」が高橋博士であるという推理は永山が提示したものだったし、実際、各種の事情や情報からも、そう分析された。しかし、彼の中で何かがしっくり行かなかった。推理を提示した彼自身がそう感じていたのだから、他の先輩記者たちも同じように感じていたのかもしれない。
議論が終わると、永山哲也は眉間に皺を寄せて次長室から退室し、自分の席に着いた。頭の後ろで手を組んで背もたれに身を倒し、気が揉める理由を考えていると、すぐ後ろの次長室の出入り口から新人の女性記者が出てきた。彼女はドアの横に立ったまま、続いて出てくる先輩記者たちに軽く頭を下げた。そして、最後に長身の中年記者が出て来ると、彼に声を掛けた。
「あの……」
長身の中年男は、その小柄な新人記者が視界に入らなかったのか、彼女の横でこちらを向いたまま大きな声で言った。
「夕刊の原稿を上げ終わったこれからしか、動く時間がないぞ。みんな急いで取り掛かってくれ」
そして、永山の横の自分の席に歩いてきた。呼び掛けを無視された新人記者は残念そうな顔で下を向くと、永山の後ろを通って上役の中年の女を追いかけていった。その時、彼女が小さく一言呟いたのを永山哲也は聞き漏らさなかった。
「――まあ、いいか……」
やはり、彼女も何かに引っ掛かっているようだった。
彼女は新人記者であると言っても、それは週刊誌の記者として新人ということで、全くの素人ではない。大学進学前に四年間、永山たちのアシスタント職員として、この新聞社で働いていた経験がある。そして、永山が抱く彼女の印象は、運もよく、直感的な推測に優れているというものだった。要は、勘がいい。その彼女もこの案件に何か言いようの無い不安を感じていたに違いなかった。もしそうであるならば、彼女の不安は的中していたと言える。しかも、今、この瞬間も的中している。永山哲也はそう実感していた。
彼は今、南米の戦地の地下にある閉鎖空間の中で、危険と恐怖の根源を目の前にしながら、「存在しないはずの男」にインタビューをしていた。
6
目の前には直径百メートルほどの円形の床と高い壁に囲まれた広大な空間が広がっている。永山哲也は右に顔を向けた。彼の視線の先では錆びた鉄柵の左端で田爪健三が、計測器が並べられたテーブルに左肘をつき、折りたたみ式のパイプ椅子に座っている。こちら向きに座っている彼は「それ」を膝の上に乗せ、さっき外した左手のシャツの袖のカフスを留めていた。
田爪健三は視線をカフスに向けたまま、永山に尋ねる。
「ところで、君はどこまで此の件について知っているのかね。いつの時点から、いつの時点まで」
永山哲也は頭を掻きながら惚けた調子で答えた。
「はあ。――
田爪健三がカフスを留めるのに気を払っていたので、永山哲也はそのまま続けた。
「そして、『第一実験』と『第二実験』。高橋博士と、あなた」
カフスを留める田爪の手が一瞬止まった。再び手を動かしカフスを留め終えた田爪健三は、スーツの袖を下ろして、永山に顔を向ける。
「なるほど。よかろう。その話は避けては通れない。それにしても、AT理論か。随分と懐かしい響きだ。古き良き時代を思い出す。いや、未だに私は、その時代にいるのかもしれん」
永山哲也は少しだけ顔を曇らせたが、表情を戻して穏やかに質問を始めた。
「資料によると、博士は赤崎教授のお弟子さんで……AT理論は赤崎教授と殿所教授が共同発表された理論ですが、実際に理論展開の中心的役割を果たしたのは、どちらの先生なのです?」
田爪健三は眉間に縦皺を刻んで頷くと、話し始めた。
「うん。まず言っておこう。私はどちらの先生の弟子という訳でもない。ただ、事実として、赤崎先生の肩越しに時間科学の世界を覗かせてもらったことは間違いない。それから、あのAT理論は赤崎先生と殿所先生の両女史が協働して作り上げたものだ。どちらの先生が主で、どちらの先生が従というものではない。あのお二人だからこそ互いに協力して完成させることができた理論なのだよ」
遠くを見つめながら語っていた田爪健三は、ふと何かに気付いたように永山に視線を戻した。彼は膝の上の「それ」の先端で永山を指し、今度は少し顔をほころばせて言う。
「しかし、君は鋭い。惚けてはいるが、実はそうではない。明後日の方にボールを投げるふりをして、バッターの死角に球を放り込んでくる」
永山哲也は眉間に皺を寄せかけたが、それを止め、片眉を上げて、それ以上の表情を示さなかった。
田爪健三は永山の目を見て片笑む。
「さっきの携帯端末もそうだ。イヴフォンとか言ったかな。君は、わざと使えないふりをしたな。見たところ、あれは量子通信方式を採用している。私が本物の田爪健三だと確信を持つために、AT理論を逆応用した最新式の小型コンピュータ内蔵機種をわざわざ購入し、ここへ持って来たな。そして、私にそれを扱わせ、私がそこに気付くかどうかを試した。分かっているぞ。うん、分かっている」
田爪健三は厳しい顔でゆっくり何度も頷いた。彼は続ける。
「君は、世界最高レベルの科学論文とそれに纏わる資料を読み込み、理解し、頭の中で整理できる。だからこそ、君は『大体の流れ』を掴んだと言った。そして、自ら考え、ある疑問を持った。疑いを抱いた。そしてボールを投げた。遠くから内角ギリギリに迫ってくるボールをね。だが、それは決してストライクゾーンを外れない。君は核心を衝いているぞ。それでいい。実に鋭い」
今度は笑みを浮かべて頷いた彼は、椅子の背もたれに少し身を倒して言った。
「さて、ところでだ。これだけの複雑な流れを掴める、そんな男が、そのオモチャのような携帯端末の使い方が分からないだと?」
田爪健三は、テーブルの端に左肘をついたまま、その左手で永山を強く指差す。
「そうだ。君はそういう男だ。そういう男の目をしている。そして、そういう男だからこそ、この戦闘地域でゲリラ兵たちに殺されることもなく、この施設まで辿り着けたのだ」
田爪健三は、そのままその左手を広げた。
「ほら。このように、結果として、私は今、君がちょっとだけ頑張れば君の手が届く物理的範囲内に腰を下ろしている。これも君の計算の内だ。私をここまで歩かせ、自然と私がここに座るよう仕向けた。違うかね」
田爪健三は、カフェテーブルから、いま自分が歩いてきた動線の上を、右手で支えている「それ」の先でなぞりながら、そう言った。片笑んではいるが、彼は獲物を狙う鷹のような瞳で永山を見据えている。
永山哲也は田爪の洞察力と推理力の高さにも驚いた。彼の指摘は、評価は別として、ほとんど当たっていたからである。たしかに永山哲也は、遠過ぎる位置にあるカフェテーブルの横から自分にできるだけ近い位置に田爪を移動させようと、一計を案じたつもりだった。そして、まんまと田爪を自分の近くまで上手く移動させたと思っていた。しかし、永山の前に座っているこの天才はそのような彼の陳腐な策略を瞬時に見破っていた。しかも、契機は別としても、動機と客観的事情を言い当てている。
田爪健三は永山の表情を観察しながら言った。
「ふむ。恐れているな。私を恐れている。まあ、無理もあるまい。君はようやくこの施設に辿り着いたばかりだ。だから、この広大な地下施設がいったい何のための物なのか、見当もつくまい。地下のバスケットコートにしては少し広過ぎるし、天井も高過ぎる。何よりボールを放るネットが無い。サッカーコートか? いや違う。そもそも、ここの人々は今、バスケやサッカーどころではない。戦争の真っ最中だ。ではこの施設は何だ。分厚いコンクリートの壁に、出入り口は君が入ってきたその狭いドアが一つだけ。照明は立派だが、豪華ではないし、非常灯とも違う。食料も毛布も無い。ということは非難シェルターではない。第一、今ここに居るのは君と私だけだ」
田爪健三は少し間を空けると、左耳の横に左手をかざして、音を集める仕草をして見せた。そして、視線だけを永山に向けて言う。
「聞きたまえ。上では、地上では、こうして発射音、爆音、悲鳴が規則正しく鳴り響いているというのに、誰もここには逃げてきてはいない。これは重要な事実だ。ここには誰も居ない。君と私の他は」
田爪健三は左手の人差し指を立てて目を瞑り、肘を上げた。そのまま、上から微かに聞こえてくる音の間隔に合わせて、楽団に指揮をするように優雅に手を振って見せる。
「発射音、爆音、悲鳴。――発射音、爆音、悲鳴。――発射音、爆音、悲鳴」
目を開いた田爪健三は頬を上げた。
「ほら、規則正しいだろう。これは通風シャフトから響いてくるのだよ。あの天井の通風口から伸びているシャフトを伝って響く地上のリズムだ」
田爪健三は、今度は天井の中心付近を指差した。
永山哲也はそちらに顔を向ける。
田爪健三は、永山が天井を観察する時間が一瞬だけ長いことに気付いたのか、永山の顔を見ながら何度も左手の人差し指を彼の方に振り、ニヤリとしてこう続けた。
「ほほう。いいぞ。いい。反応したな。気づいたな。それで良い。実に良い反応だ。さすがは記者だ。君はその狭い入り口のドアの前まで、ゲリラの兵士たちに目隠しをされて連行されたはずだ。つまり、君は実際のところ、ここがどの程度の深さに位置しているのかを知らない。乗ってきたエレベーターの動いていた時間で予想するか。やめておけ。時間ほど当てにならんものはない。時間など動く壁に過ぎん。ただ流れているだけ。そして、人の前に立ちはだかるだけだ。時間など。時間など……」
田爪健三は何かを思い出すように静かに目を閉じた。すぐに目を開けた彼は再びその冷たく鋭い瞳を永山に向け、続けた。
「まあいい。だか、君はこの空間が地下にあることは最初に気づいた。戦闘の音が上から聞こえてくるからな。逃げる協働部隊の兵士の足音と悲鳴。追うゲリラ軍の兵士の足音と叫び声。ほら、また今も聞こえた。頭の上から。だから君は、ここが地下だと考えた。だから、レポートの冒頭からここが地下だと断定して述べた。私はそう言っていないのに」
永山哲也は黙って田爪の顔を見据えていた。やはり、この男の洞察力は極めて優れている。そして、異常なほどに慎重だ。彼はそう感じていた。
田爪健三は、左手の人差し指を振りながら話を続ける。
「問題は、どの程度の深さにあるのか、ということだ。そこで君は私の言葉に反応して上を見た。あの通風口をね。私は『シャフト』と言った。『あの天井の通風口から伸びているシャフト』とね。通風ダクトとも通風管とも言わず、『シャフト』と言った。科学者の私がね。だから君は反応して、上を見た。シャフトとは軸のこと、柱のこと、梁のこと。空調機能を兼ねる建築物の部分的構造体に対し自然にこの単語をあてる場合、ある程度の直径と長さを有するものがイメージされる。地表に近い場合なら、この単語を使わない。そうすると、この施設は全体構造が相当に巨大であり、その底に位置するであろうこの場所は、地表からかなりの深さの所にある可能性がある。――と君は考えた。違うかね」
田爪健三は、永山の反応を伺った。
永山哲也は、田爪の推理がまたも当たっていたので驚いてはいたが、それを顔には出さない。動揺もしなかった。彼の関心はもっと別にあった。重要なのは、田爪の自分に対する推理が当たっているかではなく、田爪の推理した通りに自分がしている推理が当たっているかであった。そして永山哲也は、できれば、その自分の推理が当たっていないことを願った。
無表情を作っている永山を見ながら、田爪健三は一方的に続ける。
「うーむ。いい。実にいいぞ。当たっている。当たっているぞ、永山君……だったかな。うん。そうだ。永山君だ。そうだ。そうだ」
田爪健三は少し下を向き、また満足そうに一人で頷いていた。
永山哲也は僅かに眉を寄せる。
田爪健三は顔を上げて、左手で再度永山を指差しながら言った。
「ともかく、君の予測は正しい。十年前は、ここはね、豪雨時の増水対策で造られた巨大貯水槽の底だったのだよ。あの天井の少し下の位置まで水が貯まっていた。あの天井は本来もっと上にあってね。青かった。柱は無しだ。そこを私が改築させて、地下三百メートルの個室にしたのだ。蓋をして天井を作った。水を抜き、代わりにコンクリートを入れた。そして出来上がったのがこれだ。素晴らしいだろう。高速エレベーターも付けさせたぞ。ゲリラたちにね。彼らとは取引をしているのでね。まあ、この点は後ほど話すとして……、ああ君、永山君。その黄色い線から前に出ない方が良い。私の話を最後まで聞きたければね。それに、まだ死にたくはないだろう」
田爪健三は膝の上に乗せていた「それ」を持ち上げ、構えると、その太い直径の発射口を永山に向けた。
永山哲也は両手を上げて動きを止める。自然と息も止めていた。
田爪健三は永山の目をにらみながら言った。
「それで、どこまでだったかな。――ああ、そうだ、そうだ。この地下施設の話だった」
永山哲也は両手を上げたまま少しだけ後ろに下がった。そのまま、録音機を持った右手をゆっくりと再び田爪の方に向ける。
田爪健三はパイプ椅子に座ったまま、永山に向けた大型の「それ」に付いている肩掛け用ベルトに右腕を通し、左手で「それ」の銃身をしっかりと支えていた。黒い革の手袋をした右手でグリップ部分を握り締め、その人差し指を引き金に添えている。その銃の先端は真っ直ぐに永山に向けられていた。
田爪健三はそのまま語り続ける。
「ここの大まかな状況は判っただろう。要するにここは、ある目的のために作られているのだよ。その目的については、いずれ話そう。それにしても、これまでここへやってきた誰よりも君は鋭く、賢い。素晴らしい、実に素晴らしいよ、君。ああ、他の人間たちは、君とは違う入り口から入ってきたがね。まあ、ともかく、君の、永山君の洞察力と判断力には敬意を払おう。そして、私なりの敬意の示し方として、君に話をしてあげようではないか。君が、たった三ヶ月間の取材で、紙の上の資料と空虚な風説を基にして掴んだという、赤崎・殿所理論から時吉提案までの話を。教えてあげよう、AT理論の真相に係わる『大体の流れ』を」
田爪健三はその不恰好で大きな銃らしき物の先端を永山に向けたまま、微かに笑みを浮かべた。
7
新日ネット新聞ビルの下層階にある「新日風潮社」の狭い編集室には、事務机を向かい合わせに並べて作られた「島」と壁際に並べられた事務机の間に、形ばかりの通路が作られている。その狭い通路の隅で、椅子を回して向かい合い、濃い顔の若い男性記者と新人の若い女性記者が話していた。
壁際の自分の机に肘を載せて、若い男性記者は知った風な顔で後輩の新人記者に語る。
「――そういう意味では仲間だしね。競って互いの足を引っ張り合っていたら、できないこともあるでしょ。でも、同じ方向を向いて、同じ目的に向かって走っているから、ライバルでもある。うーん、心のベクトルかあ、なかなか深いなあ。それ、いただき」
その先輩記者は後輩を軽く指差した後、椅子を回して自分のパソコンに向かった。
「同じ方向、ですか……」
そう呟いた若い女性の新人記者も、椅子を回して自分の机の方を向く。そして、机の上の薄型パソコンに手を伸ばして止まり、暫らく考えていた。
彼女は、以前に別の先輩の記者たちと蕎麦屋で昼食を共にした際のことを思い出していた。普段、同じビルの中で
「さん……三十二回? ってことは、ほぼ毎月送っていたのかよ」
近くに座っていた長身の中年男が落ち着いた様子で頷いた。
「ああ、『ドクターT』のあの論文は、二〇三五年の七月から今年の二月まで、毎月、タイムマシンの発射日である二十三日より前に、上申書の添付データという形で司時空庁に送られているんだ。上申の内容は、もちろん、タイムトラベル事業の即時中止の要求。こんなに長い間送られてきていて、しかも、正式な行政文書に残す形で届いていて、司時空庁の奴らが読んでいないなんてことは、まずあり得んな」
以前の打ち合わせの際の話では、「ドクターT」はその後、総理官邸にも文書を送っている。合わせれば三十四回だ。明らかに異常な回数だった。その新人記者だけでなく、先輩記者たちも皆驚いていた。
その後、先輩たちは会話を続けたが、その間、彼女は必死に蕎麦を食べていた。先輩たちは既に天丼を食べ終わっていた。自分も早く食べ終わろうと必死だった。最後の一筋の麺を吸って口に取り込んだ後、何とか会話に加わろうと、咀嚼しながら無理に発言した。
「三年弱の間、『ドクターT』さんは、政府に対してタイムトラベル事業の危険性を訴え続けたってことですよね。モグモグモグ……」
懸命に顎を動かし、少し固めの蕎麦を噛んだ。
隣に座っていた彼女の上役の中年女が頷いて言った。
「そうなるわね。『ドクターT』がどうして、あの論文と同じものを三十四回も送り続けたのかは分からないけど、ただ、あれだけの量の論文を書くには、相当に長い年月をかけて研究を続けたはずよね。すごい執念だわ」
その隣の長身の中年男が険しい顔をした。
「それだけ、あのタイムトラベル事業の安全性に強い疑念を持っているということなのかもしれん……」
やはり、司時空庁が定期的に実施しているというタイムマシンの発射には、何らかの問題があるのかもしれない。その時、改めてそう思った。もちろん、先輩たちは疾うに同じ結論に達していたはずた。永山先輩も。その時に思ったのは、その程度のことだった。
だが、今、改めて色々と考えてみて、思う。先輩たちは競うように取材をしながらも、ああやって情報を交換し合い、互いに協力している。それは先輩たちが皆、同じ方向を見ているからこそ、できることなのかもしれない。真っ直ぐに、ただ一点を。彼女の上役である中年の女編集長は、それを「心のベクトル」と表現した。普段は犬猿の仲でありライバルでもある新聞社と週刊誌社の記者たちがこうして協働しているのは、その「心のベクトル」が同じ方向を向いているからだということだろう。少なくとも、後ろの席に座っている若い先輩記者の解釈によれば、そうだった。その説明を聞いて、過去の先輩たちの遣り取りを思い出しながら、新人記者の若い女は考え続けた。「ドクターT」もそうなのだろうか。何かの目的を真っ直ぐに見据えているからこそ、長い年月を掛けて研究を続け、あれだけの論文を完成させることができたのであろうか。「ドクターT」が一人であの論文を作ったのだとすれば、相当に難儀な仕事をしたことになる。本当に一人で作成したのだろうか。誰か支援した人間がいたのではないか。同じ方向を見ていた人間が……。
その新人記者の意識はある人物へと向かった。それは彼女が以前から気になっていた人物で、興味のある人物でもあった。あの昼食の時から暫らく日が経ち、その後の取材から判明した事実も多くなっている。彼女自身、取り入れた情報は多い。その中で、次第に絞られてくる人物たちの中で、彼女はその人物に直感的に疑念を持ち、関心を寄せていた。そして、それは決して悪い心象ではなかった。しかし、同時に、言い知れぬ不安と恐怖が彼女の脳裏を過ぎっていた。
編集室の掛け時計に目を遣った新人記者は事務机の上の立体パソコンから手を放すと、机の袖の深い引き出しに手を掛け、それを引いた。中には普段使っている虹模様のトートバッグが入れられているだけである。彼女はそのトートバッグに手を掛けたが、これから会う人物の地位と場所を考え、引き出しを閉めた。そのまま、足下に立てて置いてある合皮の黒い鞄を手前に引くと、膝の上に載せ、チャックを開けた。机の上から取った薄いパソコンを無理矢理に中に入れる。肩掛けのベルトを出してからチャックを閉めると、新人記者は意を決したようにベルトを掴んで椅子から腰を上げた。忘れ物がないか机の上を見回し、この季節にしては少し厚手のジャケットの裾を整えると、肩に鞄のベルトを掛ける。
後ろからその様子を見ていた濃い顔の先輩記者が彼女に尋ねた。
「あれ、どこ行くの」
若い新人記者は廊下の方へと歩きながら先輩に言った。
「私、ちょっと出かけてきます。調べたいことがあるので」
その小柄な新人記者は少し速足で奥の細い廊下を歩いていき、編集室から出て行った。
8
「AT理論が赤崎・殿所両名の頭文字をとって名付けられたなどと書いている三流紙もあるようだが、この点はいいかね」
田爪健三は、その右脇に抱えた大きめの不恰好な銃らしき物の先端を永山の方に向けたまま、少し下に傾けて、彼との対話を再開した。
永山哲也は両手を下ろし、自分に銃口らしき部分を向けている男の顔を真っ直ぐに見て答えた。
「はい。本当はAbandon and Takeの略ですね。放棄(abandon)と取得(take)。つまり、時間を『流れ』ではなく、空間の放棄と取得の交換現象として数学的見地から捉え直した。細かいことは解りませんが、そういったところだったと思います。とにかく、当時は画期的な新理論であったことは間違いないですよね」
田爪健三は口角を上げると、大きく頷いた。
「そうだとも。また、彼女たちが造った構造モデルの外形が反り返った帆と滑車の形に似ていたために、aback(裏帆に)とtackle(滑車)から取ったと言う者もいるが、そんなことはどうでもいい。ニュートン力学と量子力学の完全なる融合。それがAT理論だ。素晴らしい理論だよ。ある問題さえ無ければね」
「問題?」
永山哲也が聞き返した。
田爪健三は、今度は顔を険しくして頷く。
「ああ。それは、この理論が、そのあまりにも美しく凛とした骨格の中に幾つかの不可解な仮骨を含んでいたということだ」
「理論の中に、タイムトラベルを可能とする契機を孕んでいた。従来の量子物理学の領域では否定されていたタイムトラベルを。そういうことですね」
永山がそう確認すると、田爪健三は再び大きく頷き、そして、大きく溜め息も吐いた。
「そうだ。否定されていたタイムトラベルの可能性が出てきた。だが、お二人がこの理論を発表されたのが二〇一四年。その当時は、この理論がタイムトラベルを可能にするなどとは誰も考えていなかった。この二人の大先生方もね。まったく可笑しな話じゃないか」
田爪健三は少し微笑むと、テーブルの上の計測器の平坦な部分に乗せた砂時計の砂が落ち終えているのに気づき、それを左手で逆さに返した。しかし、その瞬間も、永山哲也は不用意に動こうとはしない。彼はただ、そこに立って田爪を観察していた。
視線を永山に戻した田爪健三は、動かない永山を見てニヤリと笑い、また話し始めた。
「かく言う私自身も、その頃はまだ赤崎教授の研究室に入ったばかりだったから、この怪物のような難解さと女神のような美しさを併せ持ったAT理論というものを理解するのに必死で、その本当の価値と恐ろしさには、全く気付いていなかったのだがね」
「その時、博士はお幾つだったのですか」
「ああ、ええと。たしか政府防災隊を除隊した翌年だから、二十五歳かな。若かったよ。若かった」
田爪健三は苦笑いをしながら、首を横に振った。
永山哲也は更に尋ねる。
「その後、例の実験に成功したのですね」
「そうだ。理論は実践して見せなければ意味がない。殿所教授の言葉だよ」
永山哲也は、歴史的な事実関係は知っていた。しかし、それは表層的で片面的な情報に過ぎない。会社の資料室でAT理論やタイムマシンに関する資料を読み漁っただけの永山哲也は、そのことを十分に自覚していた。だからこそ、今、歴史の当事者である田爪健三が目の前で話す内容に、純粋に興味を持った。彼は黙って田爪の話に耳を傾ける。
田爪健三は永山の心情を知悉したかのように、ゆっくりと頷いてから再び語り始めた。
「我々は、この新理論の真性を世に示すために、目に見える形で、原因に基づく理論どおりの結果を実現する必要があった。だが、そう簡単にいくものではない。簡単にタイムトラベルなどと言うが、それは時間と空間の移転だ。まず、空間の移転が難しい。そして、時間。『時間』とは何か。まずそこからだった。それに、根本的な難題もあった。これら二つのエレメントの転換をどうやって知覚できるようにするか。この点は非常に難しい問題だったよ。我々は深い考察と議論、細かな実験を重ねた。そして、九十九折の長い道程を進んだ先は、分かれ道だった。さて、どちらに進むか……」
田爪健三は永山の眼を覗いた。それは永山が話について来ているかを確認する仕草だ。
永山哲也はすぐに言った。
「未来にタイムトラベルする方法と、過去にタイムトラベルする方法のうち、いずれをもってAT理論を証明するか、という問題ですね。それによって実験計画が違ってくる」
田爪健三は満足そうに頷いた。
「そうだ。我々は議論を重ねた。すると、現在から未来への時空間移動については議論の中でも争いとはならなかったが、『過去に行けるか』については大きく意見が分かれた。だから、AT理論が正しいと言うためには、『過去へ行くこと』が可能であることを証明する必要があるとの結論に達した」
永山哲也は首を傾げる。
「どうして未来に行くことは議論にならなかったのです?」
「AT理論の本質的な限界だよ。取得と放棄だ。取得の源泉に向かっても、証明としては意味が無い。知覚できないからね。理論値は全てゼロか無限大のいずれか。まあ仮定条件そのものを確定させることができない以上、計算すること自体に意味が無いがね」
永山哲也はもう一度首を傾げた。
彼の理解度を計り取ったかのように、田爪健三は含み笑う。そして静かに言った。
「かかったよ。実に七年もの歳月を費やした」
「実験そのものに、ですか」
「実験は理論の構築が前提となる。理論を構築し、実験して確かめ、その結果により理論を修正し、その修正した理論を、また実験で確かめる。その繰り返しだ」
「長いですね、七年は」
「そうでもない。私が『長い』と言ったのは、別の意味だ。感情的で感覚的な。七年というのは、何かの研究期間としては、ほんの瞬き程度の時間に過ぎない。我々は運が良かった。普通、もっと多くの時間と労力を費やすものだ。他人のね。科学の進歩とはそういうものだ。その幾人もの幾多もの苦悩と苦痛と犠牲の上に人の文化的生活は温座している。そのレコーダーも、さっきのイヴフォンとか言う通信端末も、全てそうだ。名も無き多くの人々の犠牲の結果だよ。我々は、その犠牲を食らって便利と快適を享受しているのだ。それを忘れてはいかん」
永山哲也は不満そうに皮肉を込めて言う。
「タイムマシンの恩恵は受けていないと思いますが」
田爪健三は短く笑った。
「直接にはそうかもしれんね。だが、今の君はどうだね。その事でこうして私に会い、インタビューをしている。そして、その記事を書いて会社に褒められる。もしタイムトラベルが実現したという事実が無ければ、今のこの事態も在り得ない。社長賞も特別ボーナスも無しだ」
「あなたに銃口を向けられることもね」
永山哲也は田爪をにらんだ。田爪健三は首を横に振る。
「いや、それは違うな。間違えている」
「どうしてです? 僕がここに取材に来て、ここに立っているから、あなたはその銃を僕に向けている。そうでしょ?」
田爪健三は嘆息を漏らした。
「いや。残念だか、それは違うようだ。起点に左右されない事実なのだよ、これは。そして、私のこの推論が正しいことは、今こうして証明されている」
「起点に左右されない……」
視線を外して少し考えた永山哲也は、驚いたような顔を上げて田爪に言った。
「まさか成功しなかったのですか。AT理論の実証となる実験に。AT理論が発表された二〇一四年から七年後というと、例の仮想空間での実験の頃ですよね。あの実験がタイムトラベルの実現の出発点、つまり起点となった。まさか、あの成功は捏造なのですか?」
田爪健三は呆れたように笑いながら返した。
「馬鹿を言っちゃいかん。成功したさ。だがもちろん、それまでは失敗の連続だ。失敗、失敗、また失敗」
そして真顔に戻ると、暫らく黙っていた。何か過去の記憶を回らせているようだった。
やがて彼は、永山の顔を見て言った。
「しかし、諦める訳にはいかなかった。赤崎教授も殿所教授も、かなりのご高齢でいらしたからな。我々研究員としては、何としてもお二人がお元気な内に実験を成功させなければと必死だった訳さ。その意味で七年は長かった」
「どういった実験をなさったのですか」
永山がそう尋ねると、田爪健三は記憶を整理するように、一拍置いてから答えた。
「うん。とにかく何でもやった。危険な実験、大掛かりな実験。無能なうえに馬鹿でかい装置やら、やたら金ばかり食う設備やら、使える物は何でも使って。しかし、何の結果も出せないまま時間ばかりが過ぎていった。皮肉なものさ。時間の研究をしているのに、あらゆる物を浪費しても、大切な『時間』は掴めずにいる」
田爪健三は横のテーブルの上に目を遣り、そこに置いた砂時計を見つめた。暫らく砂が流れ落ちる様子に見入っていたが、再び永山が尋ねたので、彼の方を見た。
「成功のきっかけは?」
「実験に取り掛かって三年ほど経った頃だった。殿所教授の下の研究員が面白いことを言い出した。『おい、仮想空間でやってみよう』とね」
田爪健三は肩を上げて短く笑ってから、話を続けた。
「丁度その頃は、二〇一八年だったかな、日本ではNNC社がニューラルネットの自己組織化と自己増殖を可能にしたバイオコンピュータの開発に成功したばかりだった。奴が言うには、その新型コンピュータを別の大企業が開発中の量子コンピュータに接続してハイブリットのデュアル・システムにすれば、非ノイマン型の並列処理が多次元で可能だと。そして、それを使えば、現実世界と寸分違わぬ完全な仮想空間でマクロ級の実験が自由にできるぞってな。我々の研究のスポンサー様が大枚を叩いて建造した最新型のバイオコンピュータと、そのライバル会社である大企業が開発中の大型量子コンピュータ。いずれ政府の直接管理になる予定だった二機の超巨大コンピュータを簡単に『いじってみよう』だと。この実に世間知らずで超楽天主義の学者馬鹿が……」
「高橋博士ですね。当時は高橋諒一研究員」
田爪健三は首を縦に振った。
「そうだ。そして女神は奴に微笑んだ。いや、我々全員に。時空間の逆送可能性に興味を示した当時のお偉いさん方のお蔭で、すんなりと国宝級の究極コンピュータを使う許可が下りたのだよ。当時はまだ政府の上級研究員でもなかった我々に対してね。それで、おカミの気が変わらないうちに早速取り掛かった。二年ちょっとの準備期間なんて、あっという間だったよ」
永山哲也は田爪の目を見て一つ一つを確認する。
「生体型コンピュータの『
永山の発言を遮り、田爪健三ははっきりと言った。
「発案したのは高橋君だよ。彼が思いつき、接続方法を検討した」
「しかし、彼には実現できなかったのですよね」
田爪健三は強い口調で言う。
「それは彼に失礼だ。実現できなかったのではない。実現させてもらえなかったのだよ」
「実現させてもらえなかった?」
永山哲也が聞き返すと、田爪健三は目を瞑って深く頷き、永山に概略を説明した。
「彼は天才肌の学者だった。その彼に政府の幹部連中がついていけなかったのさ。接続方法のプランをプレゼンしても、官僚共も、彼らが頼った他の学識者たちも、だれも彼の構想を理解できなかった。苛立った彼は少し無理をしてね。結果として国と企業に損害を生じさせてしまった。それで二機の巨大コンピュータの接続事業からは遠ざけられてしまったのだよ。官僚や企業家たちによってね」
永山哲也は目を丸くして尋ねた。
「無理をしたって、まさか、勝手に接続しようとしたのですか」
「まあ、そんなところだ。だが、彼の構想は正しかった。ただ、若干の修正と手段の追加が必要でね。私が補ったのは、そういった類のことだ」
「では、実際に作業されて、物理的に接続を実現したのは、やはり田爪博士なのですね」
田爪健三は再び大きく首を縦に振った。
「ああ。それは私だ。神経ケーブルの設計と育成から最終的な接続作業までは、全て私が実施した。なかなか面白かったよ」
永山哲也は少し興奮したように田爪に問いかける。
「タンパク質のコンピュータと金属のコンピュータを接続している仕組みが未だに解明されていないということですが、いったいどうやって……」
田爪健三は満足気な笑みを浮かべると、呟くように言った。
「そうか。まだ解からんかね。そうすると、仕組みが解からんシステムを使って、あの国の、いや、世界中の人間は生活している訳だな。愚かな連中だ」
永山哲也は少し早口になって訴えた。
「今では、インフラ制御から金融、医療、国防に至るまで、あなたが接続して始動させた『SAI五KTシステム』で集中管理されているのですよ。仕組みを解明するために分析しようにも、システムを停止させることが事実上できない状況なのです。万が一のことを考えれば、接続構造について博士が詳細を……」
田爪健三は抱えている銃らしき物の先端を永山の顔の位置に向けて言った。
「君は『SAI五KTシステム』について話を聞きに来たのかね。それも良かろう。但し、それを私が話し終わる頃には君の人生も終わるがね」
「……」
永山哲也は再び肩の高さまで両手を上げて動きも発言も止めた。
永山に大きな銃らしき物を向けたまま、田爪健三は言う。
「さあ、どうするかね。人類のために『SAI五KTシステム』の接続理論を私から聞き出し、この場で消されるか、記者としての好奇心を満たし、私の話を日本に持ち帰るか。まあ、前者を選択する場合、君が私の話を理解できることが大前提だがね。あまり意味のある比較だとは思えんな。悪いことは言わん。馬鹿のレッテルを貼られて死にたくなければ、後者を選択したまえ。永山君」
永山哲也は両手を上げたまま田爪をにらんで言った。
「これが選択と言えますかね」
田爪健三はほくそ笑むと、銃らしき物を向けたまま頷く。
「決まりだな。話を進めよう。君が理解力のある記者で助かったよ。見ての通り、この銃は重くてね。長く構えていると疲れる」
永山哲也は一瞬だけ眉間を強く寄せた。目の前の田爪が自分に向けている物は、やはり銃なのだ。その外観からは簡単に受け入れられないが、今は田爪の言う通り銃として対処しよう。永山哲也はそう判断した。
田爪健三は永山の顔を見据えてニヤリと片笑んでから、その銃の先を下ろした。
永山哲也も両手を下ろす。
田爪健三は肩のベルトを掛け直しながら言った。
「実験の話だったな。とにかく私は、いや、我々は二機の巨大コンピュータの接続に成功し、君も知ってのとおり、無限の処理能力を手に入れた。情報の処理速度にも処理容量にも限界を持たない『SAI五KTシステム』をね。そして、そのコンピュータ・システムを使って、現実世界を忠実にシミュレートした超仮想空間を構築し、その中で物体を過去に送ってみることにしたのだ。それなら危険は無いし、余計な金も時間も掛からん。どうだね、なかなか面白いアイデアだろう。やはり高橋君は天才だったよ」
永山哲也が怪訝な顔をする。彼はすぐに言った。
「結果は知っています。成功したんですよね。クリスマスの日に」
田爪健三はしっかりと頷いた。
「二〇二一年の十二月二十四日十四時三十七分13.041秒。そう、クリスマス・イブだったな。我々は超仮想空間での時空間逆送実験に成功したのだ。仮想空間の中で、たった27.917秒だったが、過去への移動に成功した。AT理論は正しかったのだよ」
田爪健三は永山に向けて左手の人差し指を振った。
永山哲也は冷静に尋ねる。
「その実験では、現実世界に実在する物体を仮想世界の中に再現して、それを転送させるシミュレーションを実施したのですよね。転送の実験体モデルには、何を?」
「帆船の小型模型をバーチャル化して使用した。そう、このくらいの大きさのモノだったかな」
テーブルの上に左手を浮かせて模型の高さを示した田爪健三は、その手をパタリとテーブルの上に落とした。そして、眼球を左右に動かしながら言う。
「25.925センチ。そうだ、25.925センチだった。私が光学測量器を使用して精密測定したのだ。覚えているぞ。よく覚えている」
永山哲也は眉間に深く皺を寄せた。
「その模型の仮想体がタイムトラベルした際の具体的経緯は、どんなものだったのですか」
田爪健三は遠くを見つめるような目をして、記憶を遡った。
「実験の最終チェックを終え、いよいよこれから実験を開始するというその時だった。仮想空間内のスキャニングをしている最中に、それは起こったのだ。一瞬だ。一瞬で、仮想空間の中に未だ入力していない、つまり、仮想空間内に存在するはずのない25.925センチの帆船が現れたのだ。仮想空間の同条件下では、紛れもなく、既に、その時、その瞬間、そこに存在していた。私が測定して、ナノレベルの傷まで完璧に収集した帆船模型のデータが、私がそれを記憶させたデータ・ドライブをまだこの手に握っていて、物理的接続も、ドライブ・デバイスの接続信号を送ることも、何もしていないのに。それをする前に、既に仮想空間内にデータが送られ、空間内で構成されていたのだ」
田爪健三は興奮気味に肩を上げて語る。
「他の全員が唖然とする中、私は瞬時に反応した。こう、自然に体が動いたのだよ。床に落したデータ・ドライブを大急ぎで拾うと、ケーブルを繋ぎ、すぐに接続信号を送って、全ての測定モードを有効にした。私の荒々しい身体の動きに触発されたのか、我に返った高橋君も操作パネル上で猛烈な勢いで全ての指を動かし始めた。いや、もちろん、その時の私は彼の行動を確認する余裕など無かったがね。独立系統の電源で当時の様子を四方八方から録画していたので、後日、その映像を見て分かったことだよ」
田爪健三は少し早口になっていた。彼は座っていた古びたパイプ椅子から腰を上げると、軽く深呼吸をしてから、再びゆっくりと話し始めた。
「いやあ。しかし、大型モニターの中の仮想世界とはいえ、起こり得ない事態が現実に起こったのだ。現場は大混乱だったよ。まあ、かく言う私も、支給された高価なデータ・ドライブを床に落してしまったのだがね。大きな傷が付くほど激しく。一歩間違えば、実験そのものがパーになるところだったよ。だが、他の者はもっと酷かった。事態が呑み込めずに、ただ立ち尽くす者。感覚を疑い、自らの頬を連打する者。現実に押し潰され、ただ右往左往する者。真実に恐怖し、顔を覆い隠す者。未来に心浮かれ、歓喜するだけの者」
田爪健三は話しながら椅子の後ろに回り、そこから屈み込んで砂時計を覗き込んだ。
「時間とは不思議なものだ。ほんの数十秒の出来事が、私の中では今でも数十分間に感じられる」
顔を上げた彼は永山の方を見て続けた。
「とにかく、私と高橋君は慌てながらも、その瞬間に自分たちがやるべき動作を正確に、的確に、素早く、冷静にやってのけた。そして、帆船模型のデータの、逆送システムへの入力が終了した」
田爪健三は、その古びたパイプ椅子の前まで回ってくると、今度は椅子に浅く腰を下ろし、背もたれに身を投げた。そのまま足を組み、目を閉じて言う。
「その後、しばらくの静寂があったよ。どのくらいだったかな。猛烈な動作後の額の汗が鼻の横を伝い、顎を伝い、顎の下に溜まり、雫となって床に落ちる。丁度、そのくらいの時間だ。分かるかね。そして私は高橋君と顔を見合わせた。その次にしたことは……」
「何を……」
さっきからの田爪健三の不自然な動きを気にしていた永山哲也は、少しだけ
田爪健三は永山の目を見て言う。
「笑ったのさ。ただ、笑った。笑いが止まらなかった」
永山哲也が不思議に思って眉を微妙に動かすと、田爪健三は軽く彼を指差した。
「考えてみたまえ、あの、たかが25.925センチのオンボロ帆船模型が、科学者数十人を振り回したのだ。はは。おかしくてな。笑えるだろ。今度は、さっきの静寂よりほんの少しだけ長い時間だったが、いや、結構長かったかな、笑いが止まらなかったものさ」
田爪健三はその時を思い出してか、半笑いしながら話していたが、急に顔から笑みを消し去った。
「だが、私が腹の底から笑えたのは、それが最後だったかな。今思えばね。瑠香と……」
田爪健三は、永山が一瞬だけ顔をしかめたのを見て、すぐに早口で補足した。
「ああ、瑠香は私の妻だった女性でね。実は、この砂時計は彼女からプレゼントされた物なのだよ。瑠香と結婚する直前の頃はよく笑っていた気もするが……結婚式の時は……どうだったかな」
田爪健三は首を傾げた。
永山哲也は口角を上げて言う。
「男は、そういうものです。そう思います」
「そうかね。そういうものかね」
田爪健三は永山の目を見ながら静かに苦笑した。永山哲也は田爪に同調する意を込めて右の眉を一度だけ上げて見せる。田爪健三は組んでいた足を解いて大きく開くと、背もたれから身を起こして、また永山を指差した。
「ところで君、ええと、永山君だったね。君、結婚は?」
永山哲也は少し目を細めてから表情を戻し、首を縦に振った。
「ええ。娘も一人います」
田爪健三は永山の顔を凝視して少し止まったが、すぐに視線を逸らした。
「そうか。私は子供には恵まれなかったが、それが却って良かったのかもしれない。もし子供が居たら、別の選択をしていたかもしれないな」
「と、いいますと」
また眉を寄せて永山が尋ねると、田爪健三は左手で左の腿をピシャリと叩いた。
「さて。どこまで話したかな。時間は望む者には与えられないが、望まない者には拷問のように与えられる。そうだ、逆送実験の顛末だったな」
無理に話題を変えよとする田爪に、永山哲也は疑念の目を向けた。しかし、彼はそれ以上を尋ねなかった。
永山哲也は黙って田爪の話を聞く。
田爪健三は椅子の背もたれに身を倒すと、再び語り始めた。
「その日は、それで終わり。後日、年が明けて二〇二二年の正月だった。元日から一人で研究所に出ていた私は、実験を記録した映像と、各種のデータを照合する作業に追われていた。そして、帆船模型のデータ入力の終了時刻を見て我が目を疑ったのだ」
田爪健三は永山の目を見て少し声を大きくした。
「そうだ、正直に言おう。若干の恐怖さえ感じたよ。そこに記録されていた時刻は、二〇二一年の十二月二十四日十四時三十七分40.958秒。仮想空間上に帆船が現れた時刻は、二〇二一年の十二月二十四日十四時三十七分13.041秒。その差は、27.917秒。つまり、あの帆船模型は、27.917秒だけ過去に戻ったのだ」
田爪健三は、今度は左手で握った拳を大きく振ってみせた。その後、その拳から節くれた太く短い人差し指を立てると、こう続けた。
「他にもう一つ、大切なデータがあった。仮想空間の中では、仮想物質から仮想元素に至るまで、全ての存在物にタイムタグが添付されていた。そう、言わば、自然界における炭素の同位体のようなものだ。現実世界では炭素の同位元素が出す放射線を調べることで、物質の最低限の存在年代を測定することができるが、仮想空間内でも、それに似たことを簡単にできる仕組みにしておいた」
「カーボン・フォーティーン法。アイソトープを利用した年代測定ですね」
永山が確認すると、田爪健三は頷いた。
「そうだ。同じことを簡単に行えるように、アイソトープに代わる付属データを前もって仕込んでおいたのだ。そして、測定された仮想空間内の設定時間と、現れた帆船模型のタイムタグとの時差は、27.917秒ジャストだった。この時差はデータを百万分の一秒まで精査しても、変わることは無かった。むしろ重要なのはここからで……」
「ちょっと待ってください。27.9……」
「27.917秒」
そう念を押すように言った田爪健三に、永山哲也は困惑した顔で尋ねた。
「27.917秒後に実際に転送されたのですから、27.917秒の時差が生じるのは当然ではないでしょうか」
田爪健三は下を向き、立てた左手の人差し指を横に振りながら言った。
「違う。違うのだよ。それでは高橋君と同じだ」
再び顔を上げ、永山を見据えて言う。
「いいかね、その模型は27.917秒の時差のあるタグをつけて、二〇二一年一二月二十四日十四時三十七分13.041秒の仮想空間上に現れた。そして、その後に、私が転送装置のスイッチを押したのだ。よく考えてみなさい。もし私が、四十秒後にスイッチを押していたら、どうなるかね。もし、私が二十秒後にスイッチを押していたら」
永山哲也は、眉間に皺を寄せ、首を傾けた。同時に、自然とICレコーダーを握った右手で後頭部を軽く叩いていた。それを見て少し笑った田爪健三は、話を続ける。
「つまりだ、帆船模型が転送されてきた瞬間に、すでに私が27.917秒後にスイッチを押すことが決定付けられていたということなのだよ。そして、驚くべきことに、それは実現した。もし、私が意図的に、時間を計ってスイッチを押したとしても……もちろん、そんなことに気が回る余裕はなかったし、科学者とて、そのような愚行はしないがね。仮に逆算して、タイミングを見計らってスイッチを押したとしても、人間の行為で百万分の一秒の単位までのタイミングを、しかも一発で合わせることなんて出来ると思うかね」
「ええ。確かに無理ですね。それは分かります」
永山哲也は次の話を予想していた。それは田爪健三の主張であり、固執でもある。彼の予想通り、田爪健三はそれを語り始めた。永山哲也は黙ってそれを聞いた。
「つまり、もし君が過去に向けてジャンプしたとしても、未来を、すなわち現在を変えることはできないのだよ。君が過去に現われることは、君が過去に現れた時点で、いや、もしかしたら現在から過去に飛び立った時点で、既に決定付けられているのであって、それを前提として現在と未来が存在する。すなわち、時間とは運命に縛られた固定的構造状態であって、決して流動的変動状態ではないものなのだよ。とするならば、例え『過去』に戻れたとしても、そこから『過去』に戻る前の出発時点までの『未来』とは、いわば『虚構の未来』なのであって、結局のところ、それは既に通過した『過去』に過ぎないのだ。したがって、戻った『過去』の時点から『出発』時点までは、すべてが決定付けられていることになり、
片笑んだ田爪健三に合わせ、一応、永山哲也も口角を上げた。
田爪健三は更に続ける。
「では、『未来』についてはどうだろうか。『未来』とは、これから実現する未知の時間帯だ。すなわち、『過去』への出発時点を基準に考えると、それより先の時間のみが『未来』だということになる。そして、その『未来』は存在しない。なぜなら、『未来』は、その存在が認識された時点で、『現在』を通り越して『過去』となるから、たとえ哲学的にも、数学的にも、物理学的にも、その存在を明らかにした瞬間に、それは既に『存在を明らかにされた過去』だからだよ。だから人は『本当の未来』について常に不知なのだ。そうすると、人は『本当の未来』を絶対に変えることができない。『虚構の未来』が変えられないというのは、さっき説明したとおりだ。よって、人は『未来』を変えられない。人は『過去』も変えられない。すなわち、人は『時間』を操作することができない」
田爪健三は永山の理解を確認するように、彼の目を覗いた。
永山哲也は黙って頷く。
田爪健三は安心したように頷いて返し、話を続けた。
「というのが私の基本的な考え方だ。もちろん、これには全くの反対説が存在する。細かくは述べないが、要点のみ説明すれば、こういうことだ」
田爪健三は横を向き、テーブルの上に視線を落とすと、その上を左手で軽く叩きながら説明していった。
「まず、人が『過去』に戻れば、そこからは全て、その時点で新たな未知の『過去』となるから、それはもはや、その人が経験した既知の『過去』ではない。すなわち未知の時間帯であって、さっき私が述べた定義に従えば、それは『未来』である。とするならば、人は『過去』に戻れば、『未来』を変えられるということになる。その内、本来なら『虚構の未来』の部分は、切り捨てられた『過去』ということになる訳だ。従って人が『過去』に戻れば、その人の経験上は、『未来』も『過去』も一挙に同時に変えることができるということになる。よって、人は『時間』を操作できる」
永山に顔を向けた田爪健三は、短く溜め息を吐いてから言った。
「と、まあ、こんなところだが、私に言わせれば、間違いだらけの詭弁でしかないがね。しかも、この二つの考え方はAT理論の本質でも何でもなく、ただの派生論点に過ぎないのだよ。この二つを構造的に理解することによって……」
永山哲也は短い頭髪を左手で何度か速く激しく掻いた後、大きく息を吐いた。
「何だか、頭がこんがらがってきました。すみません」
そして、その手を下ろすと、真剣な顔で言った。
「ただ僕は、ここであなたと『時間』の概念について議論するつもりは無いですし、そのレクチャーを受けに来たのでもない。僕は真実を確かめに来たのです。そのために、このICレコーダーを起動させているのです。そこのところ、よろしくお願いします」
永山哲也は右手のICレコーダーを前に上げ、田爪に見せた。
田爪健三は何度も頷いた。
「そうだな。そうだった。私としたことが、あの時の話になると、つい興奮してしまってね。いや、悪かった」
田爪健三は思わぬ永山の対応に少し面食らったようだったが、素直に謝罪した。そして、その古びたパイプ椅子の上で、姿勢を正して座り直した。
「話を続けよう」
永山哲也も軽く頷いて返すと、再度、右手のレコーダーを田爪に向けた。
田爪健三は再びゆっくりと語り始める。
「ともかくも、実験は成功した。教授たちの半世紀以上にわたる研究の成果が、少なくとも応用科学の領域で実用可能なものであることは、この実験で十分に証明できたと思う。ただ残念なことに、赤崎教授と殿所教授の両名とも、その後まもなく天寿を全うされた。二〇二二年の春に赤崎教授が、殿所教授もその後を追うように秋に」
伏し目になった田爪健三は、意識的に顔を上げると、永山に言った。
「いやね、どちらの教授もそれぞれに伴侶と家庭に恵まれ、人としても幸せな人生だったと思う。ただ、私がさっき『残念』だと言ったのは、どちらの教授も、その後の展開を知ることなく旅立たれたという点を言ったのだよ。というのも、むしろ、君が調べている失踪事件と、現在起こっている事態の根本的で直接的な原因は、これから私が話す部分にあると思うからなのだよ」
田爪健三は永山の顔を鋭い目で見据える。
永山哲也は頬を強張らせ、田爪の顔を真っ直ぐに見つめていた。
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